第83話 血に飢えた吸血姫
ノアの右腕がぼとりと転がり、乱暴に千切られた傷口からは血が溢れている。
「ああ!勿体ないじゃーん!」
メアリィは地面に広がっている血だまりを見て、それさえ舐めとりたいと言わんばかりの様子だ。
ノアは傷口を見て眉をひそめる。腕に突き刺さった血槍は、液体となってノアの腕に侵入し、内部で膨れ上がり暴発したのだ。もし腕では無く胴体に当たっていれば、最初に死んだ男達と同じ末路だったかもしれない。あの男達も体内にメアリィの血を混入させられ、破裂させられたのだ。
「……やっかいな能力だ」
ノアは面倒くさそうに眉間に皺をよせると、動かすことができなくなった足を躊躇なくナイフで切断した。
「わっ、何してるの!?」
いきなり足を自ら切り落としたノアに、当然驚くメアリィ。動けなくなったからといって、まるで使い捨ての道具を捨てるみたいに足を切り落とすのは普通ではない。だが、真の驚きはここからだった。
「…………え」
ノアの切り落とされた腕や足が瞬時に再生していく光景を目の当たりにし、メアリィは心底驚いて口を開く。そして驚いている間に、傷口は今にも再生を始めており全てが綺麗さっぱり無くなっていく。その様に、メアリィは金属の鉄槌で頭を打たれたような衝撃に襲われ、口を手で押さえたまま固まった。
(な、なんだ? また固まったぞ、この女。前にもあったけど、これも呪いか何かの影響なのか?)
ビタリと動かなくなったメアリィにノアは困惑する。足を切り落としただけなのに、ここまで驚かれるはずもない。それに、驚きかたが異常なのだ。
口をわなわなと動かしながらも、銅像のように立ち尽くすメアリィ。ノアは罠かと思い、警戒はしているが、とても演技とは思えない表情だ。
(まぁいい。逃げるなら今のうちだな……)
ノアが逃げていく後ろ姿を、メアリィは見開いている目でただ映していた。追うべきなのに体は一向に動かせずにいた。脳が次々に溢れる情報を処理できないのだ。
(うそ、うそうそうそ!あの再生力、まさか不死身!? ……ということは、ということは!何度だって喰べられるってこと!? あの味を、あの甘くてほろ苦い至高の世界を……何度だって!好きなだけ!いくらでも味わえる!?)
脳みそが喜びでパンク寸前で、だらしなく口から涎を垂らす。高揚とするメアリィの目の赤みは底を知らず、極上の味を求めて揺らめきを放つ。ノアを拘束さえできれば、喰べても喰べても減らない最高級の永久保存食にできる。そんな吸血鬼にとって都合のいい存在があっていいものか。
「………もう、最っ高!!」
メアリィは悪魔の羽を背中から生やし、金色の髪を荒らしながら歓喜のままに叫んだ。
ノアは店通りの屋根の上を高速で駆け抜ける。客寄せをしていた人達は、自分たちの頭上を一瞬で通り過ぎていくノアの姿に驚き呆然と見ていた。
焦りを行動で誤魔化そうと足の回転数を上げて、人混みなんて気にせず突っ走る。しかし、店通りを抜ける前にソレは来てしまった。さっきの建物の天井が豪快な音を響かせて吹き飛んだのだ。それだけであの吸血鬼が動き出したということが嫌でも理解してしまう。
「絶対に、逃がさない! 死んでも私のものになってもらうから!」
「ッ、やっぱり追ってくるのか」
夜の街を照らす街灯の上に、羽を広げ滑空するメアリィの姿を眼で捉える。距離はまだまだ遠い。そう思っていたのもつかの間、メアリィは風を切るように加速している。
すると、そっちに気を取られていたせいで、飛ばされてきた刃への反応が遅れ、ノアの太ももに命中した。刃はメアリィの血で構成されたもので、足を巻き込んで爆発する。溶岩のように熱を持つ刃は、刺さると同時にノアの血と共に蒸発し、急に片足が消滅したことでバランスを崩したノアは屋根から落とされる。
「みぃーつけた!」
空中でもがくノアに、メアリィは空から嬉々として狙いを定めた。血は何百を超える針となってノアを串刺しにするために飛ばされる。
「くそっ! できるだけ使いたくなかったけど、仕方ない」
血針の雨を、ノアは眼を燃やしてなんとか乱暴にかき消すが、数が数だけにいくつかは被弾してしまう。
「ねぇ、なんで拒むの? 私はこんなに貴方を求めてるのに」
「嫌に決まってるだろ。 死ぬまで血をすすられるために生きてたまるか」
メアリィは赤い蒸気を体から発しながら、空中でもがくノアめがけて血液の斧を振り下ろす。周りには、ぐつぐつと煮えたぎった血液がまだまだ浮かんでおり、それはメアリィの心の中を表しているかのように沸騰している。
ノアは体を折って斧を躱し、その勢いで建物の裏道に体を突っ込む。ノアの翼は後遺症により自由に羽ばたくことが出来ないため、空中戦となると難しい。そのため狭い小道に逃げ込むことを選んだ。ここなら翼の有利不利はなくなるはず。そう考えたのだが、煉瓦の建築物など血に飢えた鬼を止める障害物とはなりえなかった。
「欲しい!貴方が欲しい! だから、私にその身を捧げろ‼︎ノア!」
メアリィは自分の腕に牙を立てて盛大に血を流した。その血は戦鎚を創り出し、驚異的な破壊力で辺りを吹き飛ばす。風圧がノアを襲うが、負けじとノアは投げナイフでメアリィの首を狙い撃つ。破壊されて飛び散る数々の瓦礫の破片の中、超高精度な投擲は、あちこちに舞う破片の隙間を縫ってメアリィに吸い込まれるように飛ばされる。しかしメアリィのパワーも上限を知らず、戦鎚がもたらす衝撃波でナイフは全て粉々になってしまう。
「私は夜を支配する女王!『純血』の力をその身に刻め!」
狂気の光を宿す眼光、鋭い牙と血のように赤い舌。それらが市民の心を掌握する。周りの人達は喜びに吠えるメアリィに怯えて、あちこちに散らばっていく。
「欲望を満たせーーー『血餓の黙示録』ーーー」
血の雨が降った。それまで穏やかだった街並みは一瞬で真っ赤な地獄へと変わり、真紅の雫は大地も肉体も関係なくえぐっていく。創り上げられた血の海となった地面は、槍となって下からノアを貫く。
上からは雨、下からは槍。ノアは全力で全神経を回避に回すも、雨を全て避けられるはずもなく、槍は容赦なく左脚を喰らっていく。左脚は膝を境に引き千切られ、空へと打ち上げられた。
血で赤く染まり転がっていくノアを、先回りしたメアリィが爛々と笑う。火照った体を抑えられるのはノアの血液だけだ。紅い瞳で甘美なご馳走が出来上がるのを待っている。
「アハハ、死んでないよね? すっごく便利な体ね! 早く食べさせて?」
破壊された細胞組織を掻き集めて立ち上がるノアを、『純血』に呪われた吸血姫は笑っている。
「はぁ、これで何度目かな」
ノアは、ため息と一緒に血反吐を吐き捨てた。
まったくもって災難だ。こんな血に狂った怪物に何度も何度も狙われて、手足を切り落とされてまで必死に逃げて。体内の血液を沸騰させられたせいで今も頭はぼっーとしてくる。本当にこの少女には苦労させられる。何度も、何度も何度も何度も何度も。
ノアの中で何かが壊れた。
「……お前は本当にしつこいなぁ」
苛立ちと果てることのない怒りとともに、ノアはメアリィの顔めがけて右脚の強烈な蹴りを放った。しかしメアリィも予想できていたのか、驚異的な反応速度により周りの血を集めて何とか防ぐ。
反撃されても、まだノアのことを獲物としか思っていないメアリィは余裕の笑みを浮かべている。だがその油断は命取り。ノアは続いて左脚で蹴りを繰り出した。その攻撃に、行動に、メアリィは目を剥いた。その左脚は、再生途中で使いものにならないはずだ。まだ皮膚の下から肉が見え、骨は露出しているほどだ。そんな脚で攻撃されるとは思ってもおらず、無防備だったメアリィの喉に、左脚の骨が容赦なく食い込んだ。
「ゴボッ、」
メアリィは口から血を吐き出し、穴が空いた喉を手で押さえてたたらを踏んだ。
「もう逃げるのはやめだ。 とことんお前に付き合ってやるよ」
メアリィの目から余裕が消え、代わりに怒りが混ざり、手を離すと喉の傷は塞がっていた。おそらく血を操る能力の応用か何かだろう。しかしノアのほうも、足は既に完治している。
「ふぅん、私に勝てるとでも思ってるの?」
「当たり前だ。 最初からお前が勝つ未来なんてなかったんだ。 それなのに、毎度毎度馬鹿みたいに突っかかってきやがって。 教えてあげるよ、本物の勝者がなんなのか」
「ッ!。…… もう後悔したって遅いから」
メアリィは腕を噛み千切り、大量の血を空へと撒き散らす。自分の血液は鋭く光る刃となり、七本の禍々しい剣となって円を描くように周りを回転し始めた。
だがその剣は囮だ。メアリィの狙いはノアの足元、喉をやられた時に吐き出した血だ。その血を操ってノアの命を貰おうとしている。
そんな小賢しい企みを、ノアは踊るように躱して少女の笑みに負けないほど狂気な笑みを表に出した。眼をフルに使ったノアに見えないものはない。
「私は、貴方に出逢うためにこの国に来た! 貴方を喰らうために強さを重ねた!そして、その血を舌で味わうために生まれてきた!」
手に赤き槍を持ち、吸血姫はその威厳を見せつけるように血で舞った。
「絶対に逃がさない!その身を齧って、すすって、舐めて、しゃぶって、匂って、味わって、喰らいつくす!」
メアリィは真紅の槍をノアの心臓めがけて突き放つ。槍はノアの手を貫通し、胸ごと穴を開けていく。
それでもノアは下がらない。手は串刺しになろうとも、巨大な穴が開こうとも、手を蒸発させられようとも、怒りはもう黙っていられないのだ。
「後悔するのも、負けるのも、喰われるのも。全部お前のほうだ」
ノアは空から降り注ぐ弾丸、宙を切り裂く剣、少女が放つ槍を全てを受けた。眼を最大限に利用し、予測から次の行動パターンを頭で描き、貰うダメージを最小限に抑えていく。その攻撃の密度は果てしなく濃く、豊かな街並みは真っ赤な戦場へと変わってしまうほど、吸血姫の猛攻は荒れ狂っている。その破滅の嵐の中、ノアはメアリィに攻撃出来ず、針や剣に弾かれてナイフは届くことはない。
メアリィは防ぐことしか出来ないノアを嘲笑している。だが本当に嘲笑っているのもノアのほうだ。
(こいつの爆発力は確かに凄い。でも……いつまで続くかな?)
ノアが防いでいくうちにメアリィの周りに漂う残弾がみるみる減っていく。確かにメアリィの攻撃はあらゆる方向から飛び交い、防ぎきるのは難しい。現にノアの体には今も穴が増えつつある。しかし今はメアリィが優勢に見えるだけだ。メアリィは自分の血を操り力と変えるもの。血の量には限界があるのだ。だからノアは、血を少しづつ剣で弾き飛ばし、空間の狭間に閉じ込めるなど、血を消費させ続けていた。それを何分か続けているだけで、ノアの思惑通りメアリィは貧血状態に陥り、足がおぼつかなくなってきた。動きが鈍く、キレの無くなった攻撃ではもうノアには当たらなくなっている。興奮状態のメアリィは、それが何故だかわかっておらず、表情を苦しそうに歪めていた。
ここまで我慢した。穴が開こうと、千切られようと、必死に我慢した。勝者とは何か。それは、最後に笑っているやつのことだ。
「今までのお返しだ。存分に味わえ」
ノアは周りの血剣を一気に撃ち払うと、メアリィの体に短剣を突き刺し、思いきり振り抜いた。後方へ血を飛ばされながら倒れたメアリィは、傷を修復する力も残っていないようで、なんとか立ち上がってはいるがダメージは大きかった。
「うぅ〜このぉ、このぉ!」
力が入らないなか、ふらふらと体が揺れている。それでもノアの血を諦めきれずに槍を振るメアリィは、惨めそのものだ。息は荒れて血も失いすぎて顔は青白く、それでも目だけは死んでおらずノアの首を狙って足を引きずっているのだ。
ノアは不敵に嘲笑うと、メアリィの足を乱暴に払って地に転ばせた。
「やれやれ、その執念には恐れ入るよ」
ノアは倒れているメアリィを見下ろして、肩をすくめると優しい笑みを作った。極めて優しい眼でメアリィを見つめて、そっと剣を握った。
「ひっ!」
喉を串刺しにされる。そう思ったメアリィは目を強く瞑り、恐怖の声を漏らした。しかし、ノアは自分の手首にナイフを突き刺し始めた。
「……へ?」
ボトボトとメアリィの顔に血が垂れる。甘美な匂いが食欲をそそり、脳が痺れていくのがわかる。
「僕がお前のものにだって? 笑わせるな。お前が僕のものになれ」
ノアの手首からは未だに血が流れており、メアリィの口の中へと侵入した。それだけで思考が止まりそうなる。それほどまでの至高の味。傷つき再生されるごとに作られ続けるノアの血は、赤ん坊のように新鮮で甘々しく、それでいて長年地獄を味わったような苦味も混じっている。
「僕のために生きて、僕のために死ね。 そうすれば好きなだけ僕の血をあげよう」
顔の上で血が跳ねて、雫が鼻の中に入った。脳みそに直接、甘い甘い呪われた血が注がれる。甘い甘い吐息で囁かれる。
ああ、脳がパンクする。何も考えられない。目の前の優しい笑みを浮かべてる人影が誰なのか、何を言っているのかも、もうわからない。
メアリィはつぅーっと、鼻血を垂らした。脳が幸せの限界を超えて破裂したのかもしれない。震える手で鼻血を拭おうと手を動かすが、ノアにその腕を鷲掴みにされて、何もすることができない。
身動きが取れない。何を言われてるかもわからない。だが何とかしないと、拒まないと。じゃないと頭が馬鹿になる。このままだと戻れなくなる。用意された幸せの道に身を委ねそうになる。
「やっ……私、は…ぅっ」
メアリィは必至に喉から声を出そうと息を吸い込む。しかしその瞬間、呼吸をするだけでどろどろとした甘い香りが邪魔をする。そんな目の焦点が合わなくなったメアリィの首に、そっとノアの手が添えられた。
「さっきまでギャンギャンとほざいていた奴が滑稽だな。 さぁ、僕に飼い殺されろ」
「……ふわぁ」
乱暴な言葉と優しい笑み。それに加わる甘い味で脳に直接語りかけられる。首を絞めている手は決して強くはないのにふりほどくことができなかった。
「返事は?」
「ひゃ、ひゃい!」
メアリィは、にこりと笑うノアの言葉に体が反応したように肩を跳ねさせた。もうこの人には逆らえない。そう本能が訴えかけた。