第3話 貰ったもの
「え?名前、ないの?」
「あぁ、親すら…知らねぇよ」
白くて綺麗な羽、その羽と同じ真っ白な髪を風で揺らしてカナリアは形のいい眉をあげた。艶やかな肌と透き通った透明な瞳をもち、幻想的な天使を連想させるほどの美貌も備えている少女。そんな彼女に名前のことを指摘されると、少年は今まで名前など気にしたこともなかったのに急に自分が惨めに思えて恥ずかしくなる。
「じゃあわたしがあなたの名前をつけてあげる」
名案とばかりに誇らしげな顔をしてうんうんとカナリアは唸りはじめた。名前を考えてくれているカナリアの横顔を見て、少年は自分の名前ではなく自分の心の中のもやもやとした感情のことだけを考えていた。少年が自分の中に芽生えた感情に戸惑い、少女の横顔から目をそらした。すると川の先が広がり水の溜まり場になっていることに気づき、その水の上で苔で覆われている巨大な何かが浮いていることに気づいた。
「なんだあれ、家?」
いまだに考え込むように首を傾けていたカナリアは、少年が指を指す方を見るとパッと笑顔を咲かして羽を羽ばたせた。
「決めたわ! あなたの名前はノア」
「のあ?んだよそれ?」
「そう、ノア。あれはノアの方舟という名前の乗り物なの。荒地の泉からこの森へくるためのものよ。大昔に大勢の人々を救ったともいわれているわ。あなたの名前はそこから取ってノア。どう?」
少年はその名前を何度も小さく呟く。
「ノア...ノアか...」
ノアは自分の名前がどのような名前でもいいと思っていたが、他人に始めてなにかを貰ったこと。名前をくれた人がカナリアであることに頰の緩みが止められなかった。ノアはこれが嬉しいということなのだと感じ、今という生を噛み締めて味わった。
頰を緩ませ、うわの空のノアを満足そうに見ていたカナリアもまた幸せそうに笑う。そしてカナリアは本当は先にやろうとしていたことを思い出すと手をぱんぱんと軽く叩きノアを現実に引き戻す。
「まずは川で身体を洗ってご飯にしましょ?」
カナリアにそう言われて自分の身体が、数週間荒地を歩き続けた汗だけでなく血や泥で汚れきっていることに気づく。さらに檻の中では身体は汚れを気にすることもなかったので、雨で拭くくらいしかしてこなかった。常識など自分には無いとは分かっていたが流石に恥ずかしいことだろう。手を差し出して一緒に川に行こうと提案してくるカナリアの手を取ることを躊躇う。そんな行動を見たカナリアは不思議に思ったが、あまり気にせず笑ってノアを川に案内する。
川の水は綺麗で透き通っており流れる水面がまるで光を放っているように眩しかった。ノ水流の勢いはほとんどないとはいえ、ノアは流れる大量の水を見るのも初めてでなかなか入る勇気が出なかった。
そのノアの様子を横で見ていたカナリアが勢いよく川に飛び込み、水飛沫を上げた。
「ノアもほらっ、気持ちいいわよ?」
カナリアは川の真ん中あたりまで泳ぎこちらに腕を広げ、微笑みながら呼びかた。ノアもその笑顔に勇気をもらい、口角を無理やりあげて川に飛び込んだ。
初めての水の中、最初はうずくまって目を強くつぶっていたが少しづつ目を開けると視界には沢山の泡の間から透明な歪んだ世界が写り込む。その光景にノアは放心した。身体の動きが緩やかになり口からいろんな大きさの泡がでてくる。浮遊感は感じるものの、少しづつ身体は沈んでいきーーーーーー
「………ごほっ!ごほっ、」
「ノア、大丈夫!?」
なんとも間抜けな話だが、川で溺れてしまった。水の世界に感動して自分が沈んでいることに気づかなかったのだ。苦しくなり慌てて手足を動かそうとしたが、泳ぎ方など知るわけもなく無様にもがいていた。
「ごめんなさい、体力が充分じゃない時に水の中に入れなんて言ったから…」
「あぁ、いや…カナリアのせいじゃない。俺も水の中に落ちるとは…思わなかった」
謝るカナリアをみてノアは自分がどれだけ馬鹿なことをしたかを戒め、今度からカナリアの笑顔を奪うような行為をしないと反省する。慌てて笑顔を懸命に作り、平気を装った。それをみてカナリアはホッとしたがノアはまだまだ知識不足なため水の中だと溺れるということ知らず、そのうえ溺れるという言葉さえ知らなかった。生まれた時から閉じ込められていたとノアから聞いたカナリアはノアの今までの生活がどれだけ普通ではないのかを改めて感じて心を痛める。だがそれと同じくらい自分が一からいろんなことを教えなければと意気込んだ。
「ノアはきっと羽の羽毛が水を吸い込んじゃったから、それで重くなって自由に動けなかったのね」
「? たしかに重くなってる。でも羽ならカナリアにも...あれ?」
ノアの翼は水を大量に吸い込み、重くなっていた。これでは体力が充分でも飛ぶことなんてできないであろう。
しかしカナリアだって綺麗な白い羽があるだろうと思い、彼女のほうを見る。しかしカナリアにあの綺麗な白い羽はなかった。
「私は水に入る時は羽は閉まっているの。羽が濡れるとうまく飛べなくなるし、水中だとすごく重くなるから」
なかには羽毛に油が含み水をはじく羽をもつ人もいることから、カナリアはノアが水に入る時そのことを言うのを忘れていた。その結果ノアはたっぷりと水を吸収して沈んだのだ。
「これだけ大きな羽があると色々邪魔なこともあるのよ。寝る時とかね、ノアも獣族といっても羽ならひっこめれるんじゃない?」
「どうやってすんだよ」
「羽が生えている部分が2本の筋肉の筋があると思ってみて。そこを内側にひっぱりながら羽をパタンと閉じていくイメージをする感じかしら」
カナリアの説明にノアはさっぱり理解できず、水を吸って重くなった翼をよろよろと動かすことしかできなかった。だがカナリアはノアができるまで優しく何度何度も教えてくれた。
「で、できた…」
ノアは翼を折りたたんで背中にひっこめることができたのだ。不思議なことに両腕を広げるより大きかった黒い翼は、折りたたんで萎むイメージをすると小さくなり今では手のひらほどのサイズも無い。練習すれば翼を広げようと意識すると黒い翼を広げて羽ばたかせることもできた。
その原理は六花の戦火時代の化学者しかわからない。今を生きる者達はそういうものだと認識していた。
「やっぱり俺は羽も閉じれるし、獣族じゃないのかな?」
ノアが翼を閉じれたことをカナリアはすごく喜んで褒めてくれたが、獣族は特殊な器官が耳であり尻尾。生まれもって備わっており羽のように折りたたむことは出来ないはずなのだ。なのにノアはそれが出来てしまい、いよいよ獣族ではなくなったのではないかと少し複雑な気分だった。
ノアが不安の声をこぼすと、カナリアは安心させるようにノアの頭を撫でて微笑んだ。
「大丈夫よ、獣族は獣の力を宿した者達なの。昔は鳥という羽が生えた動物もいたわ。きっとノアは鳥型の獣種なのよ。昔は魚や虫って呼ばれる生物もいたんだけど、最近の人達は六花の戦火で絶滅しちゃった生物を知らないから」
「六花の戦火?」
「ええ、昔大きな戦争があったの。意味のない争い。その戦争の起こる前はいろんな生き物がこの大陸にはいたのよ」
自分は特別ではないと言われて心が軽くなるのを感じていたノアは、戦争の話をするカナリアの顔は悲しみの色を含んでいたことには気づかなかった。
カナリアは話を切り替えてノアの身体を洗うために川に入れた。羽をしまうことが出来るようにはなったが、体力的な問題もあるため溺れないようにノアを浅瀬に連れて行く。
カナリアが持ってきた白い塊を手で擦りその手でノアの頭を泡だてていく。最初は自分の頭から泡が出てきた事に驚いていたノアも、次第に気持ちよくなり力を抜いて目を瞑り、カナリアに甘えて頭を預ける。ノアはゆっくりと流れるこの幸せな時間を味わい、身体を包み込む泡を汚れとともに流れ落とした。
川から上がるとカナリアが用意した柔らかい布で身体を拭く。元々着ていたものは服とは呼べないほど血と泥で汚れていたため処分し、カナリアがくれた新しい服に身体を通す。
「ごめんなさい、男の人用の服はこれくらいしかなくて」
「いや、いい。すごくいい」
カナリアが持ってきた服はシンプルな白い布でできた服。実はもう少し上等の服あったのだが自分の白いワンピースとお揃いにしようとカナリアは小さな嘘をついた。
ノアはすっかり綺麗になり木の影で濡れた翼をめいいっぱい広げ、木と木の間から吹き抜ける心地よい風に当たる。目を細めて座っているとカナリアが何かを持ってくるのが目に入った。
「なんだ?それ」
「りんごっていう果実よ。ここらの木によく生えているの」
カナリアに勧められて丸い形の紅く染まっている果実をかぶりつく。噛んだ瞬間に口の中に広がるみずみずしい果汁、しゃりしゃりとした甘酸っぱい果肉。今までパサパサとした団子状の物しか食べたことがなかったノアは、衝撃を受けて必死にりんごの味を求めてかぶりついた。
カナリアも最初はここまでの反応が来るとは思ってもおらず驚きはしたが、必死にりんごを食べるノアに自分の分も渡して食べ終わるまで微笑んで見守っていた。
「そんなに慌てて食べなくても逃げないわよ?そんなに気に入った?」
「ああ、くそうまい!うめぇのもっと寄越せ!」
「ふふ、それはよかったわ。それにしてもノアは言葉遣いが意外と荒いのね?どこで覚えたの?」
不思議に思うノアは首を傾げる。村で自分に向けられた言葉から覚え始めたので、その違和感に気づかない。ただそれも必要なら正してあげればいいだけだとカナリアは優しく笑う。
りんごを食べると何故だか一気に食欲が湧いてお腹が鳴いた。この数週間は食べ物を口にしなくても我慢できていたのだが、今は異常に腹が空きだしたのだ。腹の音を聞いたカナリアはくすりと笑い、手を差し出して自分の家に来ることを提案した。ノアはその提案にぎこちない笑みを返して手を取る。木の葉から差し込んでくる光の量が減ったのか少し暗くなってきた川辺を少年少女は手を握り幸せそうに帰って行く、幸福の意味も知らずにただそれを感じていた。
だが、この時から運命はねじ曲がり始めていた。
ーーーー『死が訪れるまで、あと365日』