第136話 崩される表情
後頭部を段の角にぶつけ、つんと血の味が鼻まで通りすぎる。これからの事で意気込んでいた矢先に出鼻をくじかれ、不恰好に階段から転げ落ちたのだ。
「……痛いし、動けないんだけど」
ノアを押し倒した犯人であり、体を重ねるように胸の上でうつ伏せているテト。何度か起こそうと肩を叩いてみるが、その度に猫の尻尾は腰を締め付けてくるだけで離れることはなかった。
「フーッ、フーッ!」
「ぅお!?」
テトがお腹に口をつけたまま、毛を逆立てて威嚇するように呼吸を荒げ始めた。服の上からでもテトの息から篭る熱が伝わってくる。ノアはテトの奇行に慌てふためき、力づくで引き剥がそうとするが、テトは更に力を強めてノアの服を握りしめ頑なに離れようとしなかった。
「……もう少しだけ」
ノアの服越し、体越しの空気を吸って肩を上下させるテト。このまま待っていてもとても解放してくれるとは思えない必死さに、ノアは肩をすくめて抵抗するのをやめた。
「もしかして何かあったの?」
「ずっと心配してたのに……でも、私は……」
「ああ、なるほど」
何かを伝えようとテトはノアをぎゅっと抱きしめる。
そしてようやくノアは気づく。自分を心配してくれていたことに。そして寂しそうに、痛ましそうに呟くテトの頭に手を置いた。死なない自分をここまで心配するなど大袈裟に思えて仕方ないが、心とはこういうものなのだろう。きっとこれが、通常なのだろうと、ノアは半ば羨むようにテトを撫でた。
アリスに言われなければ、この景色に気づくこともなかっただろう。
「テト、いつもありがとう。 心配かけた」
「え……」
礼を言われたのがあまりに意外だったのか、テトは埋めていた顔を持ち上げ尻尾を緩めた。開かれた瞳は若干涙ぐんでいる気もする。
ここまで驚かれるほど日頃が酷かったのだろか。だがそれだけで感謝を伝えた甲斐があったと思えた。ノアは頭に生えた二つの猫耳の間に置いた手をそのまま動かし、撫でるたびに動く猫耳を楽しむように瞳に映す。
「……べ、別にいい」
しなしなと萎むようにテトは力を抜いてノアから体を離すが、力が抜けすぎたのか立ち上がれなかったようで、ノアはクスリと呆れ笑いを起こした。
「腰が抜けるほど驚かなくても……。別に改めて言うことがなかっただけで普段から感謝してたさ」
「うん。………ご、ごめんなさい」
拗ねるように冗談を言うノアに、テトは思惑通り弱ったように慌てふためく。
「次からはお手柔らかに頼む、よっ」
「わっ」
テトを腕で抱き上げ、残りの階段を降りるノアは、事あるたびに大きく変化していくテトの表情を見て笑う。
表情豊かではなかったはずのテトも、ノアを前にしては頰を溶かして身を委ねてしまい、何故ここに来た理由すらも忘れてしまう。だから毎回、テトは抑えきれず溶けていくだらしない顔を見られたくなくて、抱きつく際は顔を埋めるのだ。
「ア、アリスとはもう会えた?」
「うん、大きくなってたよ。 本当に。 テトも力になってくれたんだってね。 アリスも感謝してたよ」
「もういいの?」
「ああ。それに、何か机の上にあった紙を見てたら追い出されちゃって。 やっぱり王族になると色んな秘密もできるのかな。 守りびとにはなったものの、もう僕に出来ることなんて無さそうだけど」
「ううん、ノアなら大丈夫」
励ましの声は寝言のようにあやふやで、抱き抱えられたテトはご機嫌に尻尾を揺らし、至福の時間を堪能していた。
けれど、ノアがもう少し、ほんの僅かでも、今より心が理解できていたのなら。最初のテトの様子が普段と違っていた事に気づいてあげられたかもしれない。
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扉に背中を預けて座り込んだ妖精族のお姫様は、頭を抱えこむようにへたり込んでいた。
ノアに守りびとになってもらう事には成功し、これから力になってあげられるチャンスも手にする事は出来た。しかし、そこである事に気づいた。ノアが手に紙を持っていたのだ。それは机の上に置いていたはずの想定計画書のうちの一枚。努力も計算を重ねに重ね、掴み取るための逆転の軌跡が描かれていたもの。それを、ノアは手に持っていた。
「見られた……」
牢からノアを助け出してこの部屋に招く流れから、ノアに会ってから話す内容まで。その全てがあらかじめ用意して記されていた紙を見られた。だがそれだけならいい。けれど裏に書かれているものは絶対に見られてはならないものだ。
『お兄様』『兄様』『ノア様』『兄上』『にーに』『お兄さん』『お兄ちゃん』など、幾度となく試行錯誤されたノアの呼び方から始まり、なんなら一緒にやりたいこと一覧や似顔絵すら描かれている。それらを見られていた可能性に気づいたアリスは、冷静さなんて吹き飛んでしまった。
「ぁぁぁぁあ、見られました。 絶対に見られました! ……せっかく格好よく、立派な姿を見せられると思った矢先に、こんなミスを犯してしまうなんて」
最初から予想外だったのだ。何度も練習したお辞儀から始めるつもりが、扉を開けた途端にノアの顔を見て、思わず飛びついてしまった。何とかその後、冗談を混ぜたりすることによりうまく誤魔化せはしたが、大人っぽく見せる計画は大失敗から始まったと言っても過言ではない。
「それにもう少しお話できたのに、焦って自ら兄さんを追い出すよう真似を」
万全の構えで挑む姿勢を続けてきたせいで、一つ予想外の事態になれば全ての歯車が外れてしまう。
「グスン……べつにどうってこと無いです。 これからは一緒にいられるんですから」
いくら美しくなろうと、大人びようと、アリスはまだまだただの女の子だった。




