第121話 悲しみの決意
焦りと不安を誤魔化すようにアテナは足を動かし、部屋の中を何度も何度も回り続けていた。
「また遠くに行っちゃう。やっと会えたのに、せっかく会えたのに。……また見送るだけなんて、嫌だよ……」
ーーー初めて会ったあの日、救い出してくれたあの日。それは『虚飾』という名の呪いであり、偽りの植え付けられた感情かもしれない。でも確かに、一人の少女は心を奪われたのだ。
あの日を境に、アテナは勇気を振り絞って王族のしがらみから抜け出した。生まれた時から結婚相手が決まっていたり、訳がわからないルールに縛られたり、行儀のいいお嬢様という型にはめ込まれたり。アテナは、うんざりしていた世界から抜け出すきっかけをノアから貰えたとすら思っていた。
それからは朧げな記憶を頼りに、救い出してくれた少年を探した。最初はただお礼を言いたいと思っていただけだった気もする。けれど、探し続けていくうちに、想いは積もり、積もり、積もっていった。
やっとのことで彼を見つけた時、どれほど嬉しかったことかなんて誰にもわかるまい。
けれど逃げられ否定され、知らないと言われた時、どれだけ悲しかったかなんて誰にもわかるまい。
それでも少しづつ触れ合えるようになった時、幾ら楽しかったかなんて、誰にもわかるまい。
しかし一方的に関係を断ち切られた時、どんなに寂しかったか。そんなこと誰にもわかるまい。
ギルドでの出来事、怒りに染められた少年の姿を思い浮かべてアテナは己の肩を抱く。あの日、怒り狂わんとするノアを前に、アテナは涙を流すことしか出来なかった。何故なら、自分では彼に一生近づけないと悟ったからだ。
激怒した理由は恐らく二つ。一つは目を馬鹿にされたこと。何故かはわからないがギルドマスターがノアの目を馬鹿にした時、彼はあり得ないほど憤慨を見せた。そしてもう一つは、その言葉を発した種族が原因だ。それも何故かはわからない。考えれば考えるほど、自分は彼の事をなにも知らないのだという事を知ってしまう。ただ彼は言ったのだ。龍族が憎くて憎くてたまらないと。存在すら許せないと。
頭を悩ませれば悩ませるほど悲しみの連鎖を生まれ、精神を揺らしている彼女は亜人の特殊器官を開花させる。しかしその事に気づくと、アテナは慌てて頭を押さえて屈み込む。
「……隠さなきゃ。バレないように、気づかれないように」
宝石のような涙を零す彼女の頭からは、龍のツノが二本伸びていた。ノアが暴走した元凶のツノを、アテナは折りそうな勢いで抑えつける。
他の種族を受け入れられないという人は少なからずこの国にもいるのは知っている。誰も彼もが他者を全て受け入れる訳もないのはわかっている。それでも彼にだけは、ノアにだけは嫌われたくなかった。ギルドで暴走したノアを止めようと、他のハンター達が戦う中でアテナは動くことができなかった。ツノが露出し、ノアに見られる事を恐れたのだ。あの時ほど龍族に生まれた事を恨んだことはないだろう。結果止めに入らなかったおかげで嫌われる事はなかっただろう。
しかし、ノアはもうギルドに来なかった。
あんなに笑っていた少年が、あそこまで怒りに溺れたのだ。そこまで許せない理由があったのだろう。
「それでも、それでも……一言言って欲しかった」
ノアは、自分を嫌うどころか眼中にもなかったのだ。あくまでハンターとしての繋がりでしかなかったと初めて気づき、そのうえハンターすら憎んでいたことを知り、どれだけ涙を流したかは覚えていない。何日も泣いて、何日も喉を震わせた。
そんな日を送っていると、親友のソフィが自分を訪ねてきた。最初は拒もうとしたが、親友の口からノアという名前が発せられて扉を開いた。それは、彼が今上界にいるということ。そして騎士となっているということ。それを知った時、居ても立っても居られず、一度は捨てた王族という世界に再度足を踏み入れた。
「そうだ、頑張るんだ。……もう後悔はしない。そのために戻ってきたんだから」
姉であるティアラに取られたノアに、また会いに行こうと。アテナは赤く腫れていた目を擦り、覚悟を決めたのだった。
その決意の強さは彼女の強さの証明であると共に、虚飾が植え付けた呪いの強さを物語る。
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「それ取ってくれない?」
ティアラはクスクスと笑いながら床に転がっている、丸められた紙くずを要求する。別に必要な物でもなんでもないのは明らかだ。何故なら、それは今ティアラが自ら投げたものなのだから。
ノアは読んでいた本を閉じると、腰をかがめて紙くずを拾い上げる。この先はもう大体予想がつく。渡した途端にティアラは紙くずを何処かに投げ、それをまた取りに行かせるだろう。しかし、王女のティアラの命令は絶対であるため拾うしかなかった。
「ごめんなさい、手が滑っちゃったわ」
案の定、飛んでいく渡したばかりの紙くず。ノアは情けなさのあまりに手を震わせるも、諦めたように何度も拾う。まさに犬のように。何度も何度もノアは投げられた物を拾いに行き、ティアラはその屈辱に歪められた表情を眺めて楽しんでいた。
「…ティアラ様」
数回ノックされた扉が開けられた事により隙間から余計な光が侵入する。使用人の一人がティアラの予定を伝えにきたのだろう。それが機嫌を崩す要因になったのか、ティアラはため息をついて手を止めた。
「ティアラ様、謁見のお時間です」
「うるっさいわね、わかってるわ」
機嫌を損ねたティアラだったが、今は新しいおもちゃがある事を思い出し、すぐに口角を上げる。一つ一つ悔しそうに反応するノアは、ティアラにとって最高のおもちゃだった。
彼女はノアを連れて何処かに行くことはない。ただ玩具にするために守りびとにしたのだから。
「また後で遊んであげるわ」
ティアラはクスクスと笑いながら、紙くずを指で弾くと、哀れな騎士の頭をクシャクシャと乱暴にかきまぜた。いつ怒るのか。いつ泣き出すのか。そんな娯楽を味わいながら、ティアラは扉を閉めさせた。
扉のが閉ざされたことで一人になったノアは、苦痛に染まった表情を元に戻した。
「……やれやれ、何が楽しいやら」
ティアラにはまだ利用価値がある。そう思ったからまだノアはここに居る。やるべき事がはっきりとした今、ノアは聖杯を見つけるためなら惨めな弱者だとしても喜んで演じるだろう。
ノアは王女の前では惨めな玩具を演じ、一人になると彼女の所有している書物などを漁り情報を集めていた。しかしその書物の量が量だ。時間はいくらあっても足りないくらいで、今日も一つ一つ調べ尽くす作業に専念するつもりだ。
「お疲れ様です。 ノアさん、これから任務ですか? 今からだと夜遅くなっちゃいますけど」
書庫に行く途中、声をかけてきたのはテレサだった。小柄な彼女は歩幅を合わせようと忙しく足を動かしていたため、少しだけ歩くペースを落としてやると安心したように耳を傾けた。
「……ああ、そんなとこかな。王女の扱いは良くないけど、それでも前と比べれば自由な時間も増えてるからね」
「やっぱりもうアリスちゃんのとこには戻らないんですね」
「うん、そのほうがアリスのためにもなるから。ああ、そうだ。これ渡しておいて貰えないかな」
「わぁ、完成したんですね」
それは、ノアが糸を一本一本紡いで作り上げた一着の赤いドレスだった。随分と前に完成したものだったが、渡しそびれてずっと置いてあったものだ。
「綺麗……。アリスちゃんも絶対喜びますよ! でも、ノアさんが自分で渡したほうがいいんじゃ」
「僕は多分、もう会わないほうがいい。 ニコラスのこともだけど、僕がいればアリスはダメになるから」
テレサは、そこまでノアがアリスを避ける必要なんてないと言おうとしたが、何も言わずにドレスを受け取った。それが彼の判断なら従おうと思ったからだ。
ーーそんな時、何かが足下に現れた。
いや、違う。足下にあったもの、床そのものが動き出したのだ。大理石の床が動き出し、掌の形となってノアを包み込んでいく。
「なっ、に……」
「ノアさん!」
何が起きたのか。誰がやったのか。そんな考えが思い浮かぶ暇もなく、ノアは巨大な掌に潰され、地面へと引き込まれていく。ポツンと残ったテレサの声は虚しく消え、どこかで笑い声が気がしただけだった。




