第119話 湖と大樹
メアリィとロキ、そしてノアを含んだ三人は巨大な湖の上に立っていた。水の深さはくるぶしが浸からない程度だが、見渡す限り水だけの青い世界が広がっている。風はなく、足下の透明な水は鏡のように自分達を映し、空模様もくっきりと描かれていた。
「凄いですね、こんなにも大量の水。 それに空も、こんなに青いなんて」
「きれ〜。 私ここ好きかも」
青色の空に点々と存在する白い雲。それらを珍しそうに見上げて立ち尽くすロキと、反対に下を覗き込むように座り込んでいるメアリィ。メアリィは水に映り込んだ自分の顔を指でなぞり、波うつ自分の顔と睨めっこをしている。
「僕はあんまり好きじゃないなぁ」
景色を楽しんでいる二人には悪いが、ノアは顔を顰めて居心地の悪さに身震いをしていた。自分の姿が常に下に映っているのは居心地が悪く、水に濡れるのも嫌なのだ。
「じゃあ早く行こ! 私が居た所より綺麗だし面白そう」
メアリィは元気よく立ち上がると、ノアの腕を引っ張りながら前方を指差した。その際に水飛沫が足元にかかり、ノアはげんなりとした表情を作るも、彼女の言葉は賛成だと指の先に視線を向けた。
メアリィの指差す先にあるのは、この世界で唯一青ではないもの。水の底から生えている巨大な緑を茂らせた大樹だった。幹の上には、謎の建築物が結びついているのが見え、文明の一端が覗いている。まだまだ遠くにあるはずなのに見上げなければならないほどの大きさで、眺めていると首が痛くなってしまう。
「そうだね。 あそこにはきっとあるはずなんだ」
ノアが探し求めているもの。それは一つ、聖杯だ。ここは遺跡で、ノアは念願だった遺跡の中に来ることが出来たのだ。第一王女の守りびととなった今、ノアが望んだ事はあっさりと叶えられた。任務の一環としてだが、こうして遺跡の中を探索できている。ニヴルヘイムが管理している遺跡の中の一つで、門を開けて異なる世界に足を踏み入れた時、三人は素直に驚いたものだ。
以前、ハンターとして入った遺跡とはまるで違って、一度滅んだとは思えないほど美しい場所だった。メアリィが気に入ったというのもわからないでもないが、ノアは早く先へ進みたいという想いが強かった。この遺跡では聖杯が発見されたという記録は無いため、ノアの願いが叶う可能性は十分にある。そんな希望を目の前にぶら下げられれば早まってしまうのも仕方なかった。
「行こう、願いの為に」
三人は水を波うたせながら、大樹に向かって歩き出す。
ーーしかし、ここからが大変だった。
大樹は果てしなく高く、登るためにはかなりの辛抱が必要だった。上界の壁の高さも相当だが、この大樹はその比ではない。それでなくとも、この遺跡に来るまで数日は歩き続け体力の消耗は隠しきれないほどだというのに、大樹の高さは何倍、何十倍もあるように思える。そんな状況で先に音をあげたのは案の定メアリィだった。ノアとホムラは黙々と登っていたが、辛い上に暇であるメアリィには耐えられなかった。
「いちいち登る必要なんてないよ! ノアも飛ぼう? ロキは私が抱えるから」
「そうしたいけど、僕は高くまで飛べないんだよ」
「え〜なんでー!」
ノアの翼は怪我の影響で左右の大きさが異なり、上昇しようとするもバランスを崩してしまう。その事を聞いて不服そうに頰を膨らませるメアリィ。流石に二人を抱えてこの大樹を登りきる事は不可能なのだ。
「でも私は飛ぶから。 疲れるのは無理ぃ」
「お、お前……ハァ…ハァ…ずるいぞ」
ロキは、ノアの背中にくっつきながら空に浮かんでいるメアリィに恨めしい視線を向ける。ロキも体力のあるほうだが、流石に限界が近いらしく腕がプルプルと震え始めていた。
「ふっふっふ。 お願いします、メアリィ様って言うなら運んであげてもいいよ?」
「くっ、誰が…言うもんか……痛ッ」
木のささくれが指に刺さったのか、指から血が出ている。そんな無様なロキ姿をメアリィは空中でくるくると回りながら煽り始める。
「プププ、ロキったら飛べないうえに登ることもできないの〜? なんて可哀想なッーーー」
ニヤついた笑みを浮かべていたメアリィの姿が消え、目くじらを立てていたロキの表情が固まった。
何故なら突如現れた触手のような茶色い生き物がメアリィに喰らいつき、もの凄い速度で引き込んだからだ。触手には目がついておらず口だけのうねうねとした生き物で、ギザギザと鋭い歯が並んでいる。その歯はメアリィの腹を離す事なく、乱暴に振り回して腹を千切ろうとしている。
「メアリィッーー!」
「ッ、いったーい」
「なんだあれ!? 生物、なのか? 隊長! メアリィが」
「はぁ、まったく」
呼ばれたノアは、深いため息をつくと真紅の眼をジワリと開いた。その触手はこの大樹から生えており、幹と一体化しているようだった。だから大樹から生えている根元の部分に力を収縮させ、捻じ曲げてちぎり落とす。
ーーーキェェェェエーーー
その生物は、緑色の体液をぶちまけながら暴れ狂い、力を失ったようにメアリィから離れると下へと落下していった。透明な水が落下してきた生物の体液で濁っていく。美しかった風景に異物が混じる様子に、ロキは勿体なさを感じていた。
「ノア〜、ごめんなさい」
メアリィは傷口を能力で再生させた後、シュンと項垂れながらノアに近寄る。化け物に襲われた恐怖はなかったようだが、ノアに叱られる事は恐れているようでチラチラと表情を伺っていた。ノアが木を掴んでいる手とは反対の手を握ったり開いたりを繰り返すと、すぐさまメアリィは自分の首を手で覆い隠し距離を取ろうとする。
「待って待って待って! もう大人しくするから。 私も黙って登るよ?? だから、ね?」
メアリィは首を絞められる事を恐れて、翼を閉じると大樹にしがみつくように登り始めた。その様子を見て肩をすくめたノアは、また腕を動かし始める。
「……ねぇ、ノア」
「ん?」
「その、ごめんね?」
「いいって」
「でも、その……」
メアリィはもごもごと口を動かすばかりで、ノアは首だけ動かして彼女を見る。もう怒ってないのだから気にする事はないし、彼女がそこまで気にする事を意外に思ったからだ。しかし、もっと意外だったのはメアリィの表情だった。
「助けてくれたのはありがとうだけど。……その力はあんまり使って欲しくない」
「メアリィが危なかったから使ったんだろ」
「それはそうだけど、それでも…」
メアリィが何を言いたいのかがわからず、ノアは首を傾げる。この力を使い続ければ身体に負荷はかかるが、メアリィには影響しない。それなのに彼女が何を心配しているのかがわからなかった。
「……わかったって。 次からはメアリィが襲われても見なかったことにするよ」
「ちょ!それはダメ。 ちゃんと助けて! ほらっ、私役に立つよ?」
ノアが冗談めかした風に言うと、さっきまでのしおらしさは嘘だったように叫ぶメアリィ。その煩さに苦笑していると、ノアは何かの存在に気づいて苦みの笑みを更に濃くした。
「じゃあさっそく役に立ってもらおうか」
「「え?」」
その言葉に疑問を持ったメアリィと、その言葉の意味を理解したロキは同時に同じ声を出した。ノアを見ているメアリィはまだ気づいていないが、黙々と上を目指していたロキは顔を青くして口を開けていた。
何故ならこの大樹の枝と思っていた数だけ、さっきと同じ触手のような生物がいたからだ。触手達は口を大きく開けて涎を、メアリィの顔にぺとりと垂らした。
「ひっ‼︎‼︎」
そこで初めて気づいたメアリィは、顔を上げた瞬間に目の前に現れたグロテスクな口に、声にならない悲鳴を上げた。
「ちょ、 置いていかないで! ノア〜ロキ〜!」
ノアとロキは、百を超える数の触手をメアリィに押しつけ、メアリィが襲われている間に上を目指していった。




