第116話 当たり前がそうでなくなる日
薄く色づく桃色のドレスを揺らし、美を身体で表現しているアテナ。そんな彼女を影から支え、手を引いているノア。その二人のダンスは桜の花びらを巻き込み、桜吹雪を舞わせるつむじ風のように、ゆっくりと美しく全員の心を流していった。
綺麗に舞う男女のダンス、それはまるで絵本の中にある光景。
自分では作り得なかった本当の形。こうあるべきだと脳が勝手に理解する。
「………にぃ」
その二人を夢中で眺めていたアリスは、思わず立ち上がってしまっていた事に気づくと、ゆるゆると力が抜けていき、隣に居たテレサに椅子に座らせてもらった。
何故自分は座っているのか。何故あそこにいるのは自分ではないのか。わがままを言って付いて行かなかった自分の事を棚に上げ、違う誰かと踊っているノアに対して怒りを沸かせた。
「……なんで」
だがアリスが、本当に怒りを感じるのはその二人を祝福する周りの者達だ。
拍手の雨がパチパチと弾け、二人に降っていた。自分と踊っていた時とは違う、感動から来た心のままに出た拍手。
違う。あの人は違う。 知らない。 あんな人は知らない。本物は自分だ。 本当は……
恥ずかしそうに顔を赤く染めているアテナを前に、ノアは片膝をつく。そして、敬愛や感謝の意を込め、騎士はお姫様の手の甲に口づけを送った。
その輝かしい光景を目にした時、アリスは皆とは違う感情に心を奪われていた。その感情は、恐怖。
取られる。 どこかに行ってしまう。 どうにかしなければ、行ってしまう。
何故今こんなに心が荒ぶるのかはわからない。だがアリスは不安に包まれてどうしようもなかった。今のノアの表情は、いつも自分に見せているものとは違う。どうして。何故。 そんな漠然とした疑問が頭の中に浮かんでくる。
すると、その答えは待っていたと言わんばかりに飛び出してきた。
「綺麗ね……。 あれが王女と騎士、本当にお似合だわ」
二人に目を奪われたテレサが、思わず呟いた言葉。隣から聞こえたその言葉に、アリスは金槌で心を割られた気分だった。
あれがお似合い。それはそうだ。そんなの言われなくたってわかっている。見ているだけで心が理解してしまうのだ。ワガママばかり言って困らせるだけの汚い自分と、立ち振る舞いから容姿まで、全てが綺麗なあの女性。どっちを選ぶのかなんて一目瞭然。
何故自分ではないのか。そんなのは簡単じゃないか。
ーーー自分じゃあ釣り合っていないからだ。
ドロドロと、黒い何かが溜まっていくのを感じる。それは中から這い上がり、やがて全身へと回っていく。支配されていくのが怖くもあるが、それに身を任せるとどうしようもなく楽だった……。
「ありがとう。 まさかノアくんと踊れるなんてね。夢みたい」
アリスはドレスの端を摘んで一礼した後、満面の笑みを浮かべた。ノアにギルドでの事を謝られ、アテナは帳消しにしてあげるかわりに自分と踊って欲しいと頼んだのだ。皆の視線や拍手の熱がまだ残っているせいか、顔の赤みはまだ取れずにいた。
「それにしても、ノアくんダンス上手ね。 誰かに習ったの?」
「まぁ少しだけね。 そう言うアテナこそ流石だね。凄い踊りやすかった」
「ふふ、私は小さい頃からずっと教えられてきたから。 昔はずっとそれが嫌だったけど、頑張ってきたおかげで今日ノアくんと踊れたと思うと悪くないわね」
アテナは少し膨らんだ胸を突き出し、片目を瞑ると悪戯っ子のような顔をノアに向ける。ノアはあんな事を起こした後でも、気楽に話せるアテナの存在に感謝をして表情を緩ませた。だが、ある事に気付いてその表情をやや固くした。それはアリスの事だ。
「……アテナ、ごめん。 また今度」
「ちょ、ノアくん!? どこいくの」
驚いて止めようとするアテナの声を振りほどく。踊っている最中はダンスに集中していたため、どうしてもアリスに気を配ってやれなかった。だがアリスの様子がおかしい事に気がついた今、ノアはすぐさまアリスの方へと向かった。
「アリス、どうしたの。 何かあった?」
駆けつけたノアは、アリスの肩を揺すって顔を除く。だがアリスは優しく揺らしただけでもガクンと力を抜いて座り込み、何も答える気配を見せず、真っ青になった顔を震わせているだけだった。
「テレサ」
「わ、わからないです。 さっきまで普通に私と話してましたし」
ノアに名前を呼ばれたテレサは必死に状況を説明しようとするが、話せる事は何もない。それも仕方のないことだろう。側から見ればアリスはずっとノア達を見ていただけなのだから。
「……ぃい」
「え?」
「もういい!」
ぼそりと呟いたアリスの声を拾おうと、ノアは耳を近づける。しかし次の瞬間、拳を握りしめてアリスは叫んだ。
「どーせにぃもいっしょ! きもちわるいっておもってる! いやだっておもってる!」
たどたどしくも、言葉に様々な感情を含んでぶつけてくるアリス。だがノアにはその意味はまるでわからない。アリスの事を心配して来てみれば、原因はどうやら自分だったようで、複雑な怒りをぶつけられて困惑するばかりだった。
「アリス、落ち着いて…」
これだけ騒げば嫌でも視線を集めてしまう。公の場でこんな事を叫ぶ王女など、あり得ないだろう。アリスは、ダンスで魅せた自分自身の評価を台無しにしてしまう。見直した人もいたかもしれない。だがそんな事は関係ないと言わんばかりに叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「いらない、もういらない!うそつき、うそつき! ありすのきしっていった! にぃはありすのって……」
昔、約束された言葉を握りしめるように胸を抱いたアリスは、くしゃくしゃに顔を歪ませて涙を流す。
「……ごめん、アリス。 でも言ってくれなきゃわからない。 僕は……わからない」
しおらしく、それでいて力強くドレスの裾を掴むアリスに、ノアはゆっくりと近寄りながら会話を試みる。刺激しないように優しい笑みを浮かべながら、一歩づつ足を進める。
だが、その想いは届かなかった。
「……ッもぉいい‼︎」
近づいてくるノアを手で跳ね除けて、アリスは扉に向かって走り出す。ノアやアシュリーに後ろから名前を呼ばれても、耳を塞いで走った。
動きづらい格好という事もあり、一生懸命足を動かしても全然前へと進まない。嫌になるくらい豪華で長い通路を、アリスは一人で走っていく。
ノアが自分の言葉をすぐに否定してくれる事を願ったわけじゃない。別に後ろから追いかけてきてくれる事を期待しているわけじゃない。
「うそつき……うそつき…………あっ!」
つまづいてしまったせいで靴が脱げる。それでも誰も自分を起こしてくれない。自分を見かけた使用人達も、気味悪がって近寄ってこない。
「……グス」
アリスは一人で立ち上がると、永遠にも思える長くて冷たい廊下を嗚咽まじりにペタペタと裸足で歩いた。
「うぅ……」
アリスは塔に戻ると、倒れこむようにベッドに沈んだ。塔へ登る階段はアリス一人では登ることが困難で、何度も休憩を挟んでやっとのことで登り終えた。体重を預けたベッドはギシギシと軋むほど脆く、埃は好き放題に舞っていく。
それでも、昔とは比べようにならないほど綺麗に掃除されている。此処はさっきの豪華な部屋と違い、明かりもなく冷たい空気が肌を刺すが、アリスにとってはどうしようもなく温かく感じる。
「あんなこと、なんで……」
ここへ戻ってきて落ち着いたせいで、嫌でもさっきの自分を見返してしまう。一緒に居たいと思う心とは反対に、手が勝手に動いて突き放していた。ノアが悪くないことくらいアリスもわかっている。だがあそこにいると、不自然なくらい感情が荒ぶったのだ。どうしようもない葛藤を吐き出したくてたまらなくなった。どうしてあんな事を言ってしまったのか、それはアリス自身もわからなかったのだ。
「ほんとは、おもってないのに……っぐす」
アリスは、涙を拭い悶々と自責の念を繰り返す。ノアに酷い事を言った事を後悔し、心の中で何度も謝る。
「……そうだ」
アリスはベッドから起き上がると似顔絵や、残していたおやつを拾い集めて握りしめる。これをノアにあげよう。そして謝ろう。
そしたら許してくれるだろう。きっと喜んでもらえるだろう。
ーー今度は、ちゃんと謝ろう。いつも当たり前のようにご飯を用意してくれてありがとうと、いつも迷惑ばかりかけてごめんねと。うまく伝えられないかもしれないけど、自分のやり方で伝えたいと心に決めた。
アリスは、伝えた後のノアの顔を思い浮かべ、扉を見つめてノアが帰ってくるのを待った。
しかし、ノアが帰って来る事はもうなかった。




