第102話 それぞれに残るもの
「おかえり、なさい」
帰ってきたノアを出迎えたのはアリスとアシュリーだ。アリスは指を絡ませることで不安を誤魔化しており、まるで母親に叱られた後の子供のようだった。
「ほらアリス、何て言うの?」
「うっ、……ごめんなさい。……ごめんなざい!!」
アシュリーに背中を優しく押されたアリスは、前のめりになりになりそのままトコトコと歩き出した。そしてノアのお腹に抱きついた途端に声を上げる。
だが、ノアにはアリスが何故泣いているかがわからなかった。
「アリス、どうしたんだ?」
「ひどいこといった……しんじゃえって」
アリスが泣きじゃくっているのことにノアは首を傾げる。
「にぃ、おこってる?」
「ん? ああ、そういうことか。 大丈夫、そんな事じゃ怒らないさ」
アリスが自分を傷つけたと思っていた事を理解し、ノアは安心させるように頭を撫でてやる。確かに今回の任務では死を見たが、それはアリスとは関係ないものだ。
「よかったわね。 なら、私はそろそろ行くわ」
アシュリーは呆れたようにアリスを見た。アリスの様子を見るに、アシュリーにはかなり世話になったようだ。おそらくずっと一緒に居てくれたのだろう。
目を細め、体に頭を擦り付けてくるアリスを宥めながら、ノアはアシュリーに頭を下げる。
「本当にありがとうございました。ホムラのところまで送りますよ」
「別にいいわよ。 塔の下には専属の使用人も居るし、今はアリスの側に居てあげなさい。それに感謝したいのは私の方よ。アリスに、妹に合わせてくれてありがとう」
アシュリーは最後に、アリスとノアに親しみを込めた笑みを向けて階段を降りる。帰り際に壁の傷が嫌でも目に入り不安は残るが、アリスの守りびとはノア以外にあり得ない、そう確信できていた。
厨房の中では包丁がテンポ良く音を奏でてている。朝になると騎士達がご飯を求めてなだれ込んでくるため、早いうちから下準備に取りかからなければならないのだ。そして今、包丁を器用に扱っているのはテトだった。料理を練習してきたテトは、他の料理人達と比べても騎士達にふるう料理に関しては劣っていなかった。
「テトさん、後はデザートを頼むわね。この前のやつ、凄い好評だったみたいよ」
デザート作りを頼まれ、テトはこくんと頷き同僚達を見送った。美味しいと言われれば確かに嬉しい。だからいつか、ノアにも作ってあげて美味しいと言われてみたい。そんな妄想をしたテトはくすりと笑い、うっかり皿を落としてしまう。
この様子ならばそれが現実になるのも難しそうだろう。
「よし、いた」
ニコラスは、厨房に顔を覗かせてテトの姿を見つけると固い表情を作る。
たまたま近くを通り、たまたま食堂の中に入ったニコラスは誰も人が居なかったという理由で厨房を覗いた。すると心の隅で頭に浮かべていた少女の姿が目に入る。だが騎士としての道を貫いてきたニコラスは、お姫様をエスコートする時や幼い子供を助けた時に話かける時などの、騎士としての決められた言葉しか知らなかった。常に周りがひたすらニコラスの笑顔を期待して話しかけてくることが普通だったため、一人の女の子への話しかけ方がわからないのだ。ニコラスは頭をごちゃ混ぜにされながらも、なんとか落ち着こうと上下に動く心臓に手を添えると、思いきって前に出た。
「や、やぁ。 たまたま通りかかったんだが。 何してるんだ?」
迷ったあげく、見ればわかるような事をわざわざ質問してしまう。ニコラスは自分の頰が引き攣っていくのを感じ、無視されるかも、とヒヤヒヤしながら少女の反応を待った。
「……食べる?」
「いいのか?」
テトが匙の上にちょこんとデザートを乗せて差し出すと、ニコラスはあたふたと動揺を見せる。差し出された匙が自分に向けられていることに理解するのに、数秒かかったほどだ。テトは不思議に思いつつもこくんと頷く。
「じゃ、じゃあ頂きます。…… 美味しい。これ、凄いうまいよ」
ニコラスは食べた事の無い味に驚き、声を大にして全力で褒めちぎる。気に入られたいという下心もあったかもしれない。だが美味しかったのは本当だった。
「そ、そう。ならいい」
テトは、ニコラスが騎士隊長で、この城内の中でもかなり地位が高い事を知った。そのため少しだけ愛想よくしようと思っていたのだが、ニコラスが想像以上に喜んだため若干ひいてしまう。しかしそれに気づかないニコラスは、食べさせてくれた事が恥ずかしくはあったが嬉しくてたまらなかった。
「そ、その……また作ってくれるかな。いや、変な意味じゃなくて。あまりにも美味しかったもんだからさ」
ニコラスは頭をかき、視線を泳がせながら言葉を振り絞った。話す口実が欲しい、そんな意図を隠しながら必死に口を動かした。
「……いいよ」
「本当か!?」
「その代わり、お願いがある」
ニコラスは、テトが薄っすらと微笑んでいたのに気づき、もしかしたら仲良くなれたかもしれないと思った。最初はあれだけ反応が薄かった少女が、これだけ会話をしてくれたのだから。そんな淡い期待を持ち、少女の願いなら何でも叶えてやりたいと考えていた。
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息を切らしながらも、割れた頭から血を流す彼女を必死に支えた。どうにか無事に帰れた事に安堵するも、今から会う人物の事を考えると恐ろしくもあった。
「帰ったよ、母さん」
馬の耳に背中から翼を生やしている男。ノアにやられた傷でボロボロにはなっているが幻獣としての輝きは失ってはいなかった。その男の声に反応して、奥に座っていた母さんと呼ばれた女性が扇を閉じた。その女性の背後には、九つの黄昏色の太い尾があり、禍々しくも綺麗な色合いだった。
「あら、待ちわびたわ。 早速あの子に会いに行きましょう」
「そのことなんだけど……。母さん、ごめん。 俺たち失敗しちゃって、連れてこれなかった」
その言葉を聞いて母親の表情から色が落ちる。それと同時に広がる殺気。数多の尻尾が荒れ狂い、屋敷の柱を片っ端から粉砕していく。
「ま、待ってくれ。 確かに失敗したけど、あいつの強さが異常だったんだ!想像を遥かに超えてて」
男は顔を強張らせて言い訳を並べる。段々と母親の表情が冷たくなっていくのを感じてはいたが、前もって知っていた情報があてにならなかったことをどうしても伝えたかった。
男は、女を抱き寄せて今から来るであろう衝撃に備えて身を固める。
「……そう、想像以上なの。 なら仕方ない。ええ、仕方ないわ。それなら我慢も必要だもの」
想像を超えていたという言葉を聞いた瞬間、母親の表情が急変した。鉄臭い空気は軽くなり、殺意も散りばめられていく。
「あなたもよく頑張ってくれたのだから、今はしっかり休みなさい。でも次は頼んだわよ」
男は安堵する。叱られるどころか、労いの言葉まで貰えたことに。運良く母親が上機嫌になってくれたおかげで自分は死なずに済んだ。そう思って安心したのも、次の母親の言葉を聞くまでの間だった。
「あーそうそう。 その子はそこに置いて行きなさい」
「……え?」
労いの言葉、与えられた生きる権利。 それは自分だけに送られたもので、腕の中に眠る彼女にはないものだった。
「あんなに美しかった一本角が折れてるわ。 ぁぁ、なんて醜いのかしら」
九つの尾を逆だたせて糸のように鋭い瞳を、子に向ける。男はその事に絶望を感じながらも、何とか言葉で繋ぎとめようとした。
「待ってくれよ! ツノが無くなっただけだ!まだこいつは……」
「私の子に凡人は要らないわ。その子にはもう価値なんて無い」
ツノを折られ、のこのこと醜い姿を晒した女に向けて、青い炎が踊り散る。男は庇おうと女の体を強く抱きしめようとする。だが、それは彼女自身によって遮られた。
「いいわ、わかっていたことだから」
その声は今から死にゆく覚悟を決めた者の声だった。青い炎に包まれた女の体は焼き尽くされ白い肌は黒く、命は炭へと変わっていく。男はその光景に耐えきれず泣き叫ぶ。最後の最後に、女が男へ向けた表情はどこか申し訳なさを含んだものだった。
いくら泣き叫ぼうと男の目から溢れる涙では、この青い炎を鎮火することはできなかった。




