アマラさんの 食うの大好き! ~ものを食べる時の心構え的な雑感~
非常に煩わしい時代になったものだと思いつつも、まず最初に。
この文章は著者であるアマラの独断と偏見で書かれたものであり、披露されている知識や価値観を保証するものではありません。
書かれていることに誤りがあったり、
「俺の・私の・考えと違う!!!」
なんてことがあっても、広い心で許してくれればな、って思います。
私は食べるのが好きで、半ば道楽にしている。
とはいっても、ものすごく凝っているとか、ものすごく味にうるさいとか、常に記録を取っているとか、そういう類のことはしていない。
一食ごと、食べるのが楽しければそれでいいと思っているのだ。
さて。
私は食べるのが好きなわけだが、いわゆる食通ではない。
何かを食べて「これは〇〇が足りないね」とか「〇〇が入っている」とか、そういうことが判ったり行ったりしたりすることはないのだ。
ただものを食って、「うんめぇー!!! よくわかんねぇーけど、めちゃくっちゃうめぇーやぁー!」といっていられればそれで満足なのである。
何かを食って上手いと思えれば、それで幸せななわけだ。
なんて単純な、と、思うかもしれない。
だが、これは実は意外と大変なことなのだ。
人間というのは、大体好き嫌いというものがある。
好みというのも様々で、自分にはそういうこだわりがないと思っている人でも、よくよく考えてみると結構あったりするのだ。
例えば、ラーメンは細麺に限るとか。
カレーには味も確かめずにしょうゆを入れないと気が済まず、カレー店に醤油がないとキレるとか。
肉は分厚いのに限るので、薄焼きステーキなどステーキとは認めないとか。
こういうのがあると、食べるものはどんどん限られてくる。
せっかく旨いものに出会う機会を失って行っている恐れがあるわけだ。
太麺でもうまいと思うラーメンがあるかもしれない。
しょうゆをかけなくてもうまいと感じるカレーもあるかもしれない。
薄焼きステーキ、案外食いやすくて行けるかもしれない。
別に、そういったこだわりが悪いとは言わない。
そういうのにこだわりを持つのもいいだろう。
もしかしたら、過去に太麺に暴行を受けた過去があるのかもしれないし。
味についても、同様だ。
感動的においしくない限り、「うまい!」といわないタイプの人が居る。
それはそれでいいだろう。
だが、私はいわゆる「ふつう」なら「うまい!!!」でいいじゃないか、と考えている。
たとえば、コンビニのおにぎり。
カップのアイス。
インスタントラーメン。
ファストフードのハンバーガー。
チェーン店の弁当屋の惣菜。
私は何を食っても大抵「うまい!!!」と口に出して言うようにしている。
そうするだけで、物を食う時の楽しさは数十倍になると信じているからだ。
人間はわりかし、暗示にかけられる生き物だ。
辛い時でも辛くないといえば割と乗り越えられたり。
楽しい時でも、「だけど~だよね」などと自分で口にすると、思った以上に落ち込んだり。
今月はまだ大丈夫と自分に言い訳をして趣味の品を買ったり。
最後のはちょっと違うかもしれないが、まぁ、大体そんな感じだ。
例えば、食通の人がおいしいと感じる数値を、80だとする。
普通の人は、大体50ぐらいでおいしいと感じるとしよう。
いわゆる、「普通においしい」というやつだ。
この50のものを食べたとき、大体人というのは無反応であったりする。
チェーンの店でリーマン辺りがスマホをいじりながら食事をしているときなどは、大体50ぐらいのものを食べているんじゃなかろうかと私は思っている。
何かいろいろたまっているものがあるだろうし、少ない休み時間なのだろうし、時間をどう使うと当人の自由だ。
しかし。
余計なお世話と思いつつも、私はこれを「MOTTAINAI」と思ってしまうのだ。
例えば、この50の食べ物を食べるとしよう。
食通の人が事前にそれを「まだまだだよねぇ。まあ、量産品って感じ?」などといっていたのを聞いていたとする。
そんな感じの印象と、そんな感じなのだろうと思いながら、これを食べる。
すると、大体の人は「まあ、こんなもんじゃね?」と思ったり、そもそも味に関心すら持たなくなったりする。
時間がないし、でもおなかすいたし、食べるの面倒だけどこれでいいや。
そんな、ディストピア飯(ディストピアについてわからない人は、調べてみてください)でも食っているかのような状態になるのだ。
ひたすら空腹を紛らわせ、栄養を摂取するだけのものとなってしまうのである。
そこまででなかったとしても、食事の喜びという面では、酷くよろしくないといっていいだろう。
対して、「うまそうだ」とか、「十分なんだよ、これで。むしろこういうのが欲しい時があるんだよ!」などと思いながら、楽しみつつ食べたらどうだろう。
たちまち、その食事はご馳走になり、素晴らしい食事へと変貌する。
ちょっと大げさかもしれないが、私はそのぐらい違うと確信しているのだ。
だって、スマホをいじりながらつまらなそうに、しょうがなく食べるのと。
食べるのを楽しみながら、笑顔で「うまい!」といいながら食べるの。
同じものを食うにしたって、充実感は全然違うじゃない?
普通のもの。
当たり前のものを、上手そうだと思いながら食べ、褒める点を見つけて称える。
ちょっと気に食わないところとかには、ちょっとぐらい目をつぶって。
別に足りないところを考えないようにすることは、悪いことじゃない。
楽しむためのちょっとした努力だと思えば、楽しくなるんじゃなかろうか。
食事が楽しくなるというのは、人生で毎日大体三回はある出来事が、楽しみになるということを意味している。
一年が365日だとすると、一年で1095回行う行為だ。
そりゃ毎回80以上の旨いものが食えるなら、それに越したことはない。
だが、そんなことができるのなんて、ごく一部の幸せな人たちだけではなかろうか。
うらやましくはあるが、なに、そういう人たちは50のうまいものをうまいと思える機会に見放されているのだと思えば、少々気分もよくなる。
さて。
では、具体的にどんな風に私が食事をしているのか、紹介しよう。
その日は暑い日で、うんざりしながらいつも歩く散歩コースを進んでいた。
食べ物屋も多く、大体そのあたりで食事をする。
前々日からずっと、チャーハンが食べたいと思っていた。
チャーシューの入った感じで、シンプルな奴がいい。
新鮮なレタスなどが入っているのもいいが、ここは飯粒、チャーシュー、卵といった感じのヤツが食べたかった。
ちょっと濃い目の味付けの奴なら、なおのことうれしい。
そんなことを考えながら歩いていると、目にとある中華料理チェーンの看板が見えてきた。
以前その店に入ったことがあるのだが、残念ながら出されたチャーハンがあまり私好みではなかったために、チャーハンを食べる店としては意識していなかった店名だ。
そこでふと、依然見たネットのブログを思い出した。
別のチェーン店ほどではないが、この店も味が店舗ごとに違うのだという。
厨房で店員が鍋を振って味付けをしているので、そうなってしまうのだとか。
なるほど、以前は袋に入ったものをレンジで温めたようなチャーハンだと思っていたが、アレはその店の店員の舌がちょっと私と合わなかったのだ。
ちょっと中を覗くと、うっすらと奥の厨房で店員が鍋を振っているのが見える。
これはいい、私はさっそく店に入った。
メニューを見ながら、注文を決める。
この日は口がチャーハンになっていた。
チャーハンは外せない。
これに餃子だ。
暑くてばて気味なので、ニンニクが欲しい。
ここに、のどの通しをよくするためにラーメンだろうか。
幸い、小さいサイズのラーメンもあった。
セットメニューは大体「ラーメン・半チャーハン・餃子」といったセットが定番だろう。
この店でもそういったセットはあったのだが、「チャーハン・ミニラーメン・餃子」というセットはなかった。
セットと比べれば割高にも見えるが、通常の価格だし、その金額を惜しむよりもチャーハンが食べたいのだ。
品物が出てくるまでの間は、本を読みながら待つ。
文章を追いながら、頭の片隅で以前に食った上手いチャーハンのことを回想する。
これが重要なのだ。
食い物のことを考えて、腹を空かす。
使い古された、それだけに真理でもあるのだが、空腹と、「早く食べたい」という気持ちは、最高の調味料である。
牛肉とレタスのチャーハン。
しゃきっとしたレタスに、濃いめの味付けの牛肉がよかった。
ゴロゴロチャーシューのチャーハン。
噛むたびにチャーシューが居て、コメの味もしっかりついてて、一気に掻き込んだ。
ラーメンのお供についてきた、卵だけのチャーハン。
なんでコメと卵ってあんなに強いんだろう。
もしかして前世の姫と騎士だったのでは?
その場合、どっちが騎士なのだろうか。
米には88の神様が宿るというから、たぶん騎士はコメの方だろう。
ということは、卵は88の騎士と相性がいい姫、ということになる。
なんてことだ、卵はオタサーの姫だったのだ。
そんなクソどうでもいいことをぼんやりと考えていると、店員がチャーハンを持ってくる。
もちろん、お礼を口に出して言う。
これもおいしく物を食べるための儀式だ。
作ってくれたものをきちんと心構えをして食べますよ、と自分に言い聞かせる意味もある。
いってみれば、ルーティーンの一環だ。
向こうも気持ちがいいだろうし、こちらも幾分心持がよくなる。
たった一言で二つも三つもお得な行為なわけだ。
さて、チャーハンだ。
鍋を振って作られていたのは、ちらっと見て確認している。
米は茶色い感じで、ころっとしたチャーシューに、卵が見えた。
しっかりといてあるんだろうか、白身が見えない黄色い卵だ。
思いのほか多めで、茶碗一杯以上あるらしいところがうれしい。
ガッツリチャーハンは青春の味だ。
心の原風景のいったんといってもよいのではなかろうか。
きちんと小さなスープが付いてきているのもうれしい。
レンゲでスープを混ぜ、少しすする。
スープは、たぶんラーメンのものと同じだ。
ただ、ちょっと濃い目に作られているように感じる。
米に濃いめのスープ。
鉄板だ。
これだけでうれしくなってくる。
なんで? と聞くやつは、おそらくチャーハンをちょっと濃い目のスープで食べることに意識を傾けたことがない奴だろう。
ちょっとでもこの相性について考えたことがあるものならば、必ず「うれしくなってくる」という気持ちを理解してくれると信じている。
いよいよ、待ちに待ったチャーハンだ。
チャーハンのことを考えすぎて、待っているときに読んでいた小説の内容は全く頭に入ってきていない。
蓮華を入れると、思いのほかぱらっとしている。
パラパラ系の茶色い系ということは、しょうゆベースだろうか。
私は、パラパラもしっとりも楽しめるタイプだ。
どっちがいいというこだわりはない。
どっちも大好きである。
お玉で作ったと思しきチャーハンのまぁるい山を、レンゲで崩す。
大怪獣にでもなったような気分だ。
あるいは、山岳部を踏破して敵軍に奇襲をかける軍隊でもいい。
ウォールチャーハンの崩壊を楽しみ似ている巨大なアレでもいいだろう。
とにかく、チャーハンの山は破壊され、アマラは脳内で歓喜の声を上げているのだ。
レンゲ山盛りにしたチャーハンを、口に運ぶ。
程よい熱さ、しょうゆ系統のチャーシューの香り、調味料の程よい塩味。
激烈に「しゅごいのぉ!! こんなのはじめてぇえ!!」というような味ではない。
もっと懐かしい「これだよこれ、こういうの!」という感じ。
まさに50点。
だからこそ、強烈に食いたくなる時がたまに訪れるチャーハンだ。
ちょっと味が薄いぐらいかな? と、舌が感じる。
もうちょっと濃い味付けでもよろしいのでは?
レンゲにもうひとすくいし、頬張る。
うん、ちょっとだけ薄い。
もうちょっと濃くしてもいいのでは。
これではもっと食べないと舌が満足しないのでは?
そこで、はっと気が付く。
やられた!
こいつはその手で、チャーハンをかっ込まそうとしているのだ。
ハフハフムシャムシャ!
的な奴をやらせようとしているわけである。
なんて恐ろしい子。
冷静になるためにも、スープをすする。
ここでふと、イタズラ心が芽生える。
テーブルに備え付けのコショウを手に取り、パッパッとかける。
ラーメンにかけるぐらいだから、チャーハンにかけて悪いことはあるまい。
邪道だと目くじらを立てる人もいるかもしれないが、まぁ、どうせ一人の食事だし、店員さんもそういったことをしたからといって怒ったりはしないはずだ。
チャーハン山を崩落させ、食べる。
なるほど、過去には同じ重さの金と同じ価値があったというペッパーだ。
その仕事ぶりは値千金といっていい。
邪道ついでに、スープを少しチャーハンにかける。
スープチャーハンというのもあるし、いきなり怒りのドロップキックをされたりするほどの悪い行為ではないはず。
山を崩し、口に運ぶ。
いや、これは悪い行為だった。
うまいからめっちゃくっちゃう。
デブが加速するわぁ。
そんなことを考えていると、ミニラーメンがやってくる。
店員にお礼を言い、早速ラーメンと対峙する。
透き通ったしょうゆスープだ。
麺は卵系で、いわゆる関東のラーメンである。
早速麺をつかみ、すすりこむ。
豆知識なのだが、ラーメンのスープの香り成分は、揮発性だ。
日本のだし全般がそうらしいのだが、空気に触れると一気に広がる。
すすりこむという行為は、空気にたくさん触れさせ、その空気を鼻から抜けさせる行為でもある。
つまり、だしを使ったラーメンをおいしく食べる秘訣ともいえる、正しいマナーなのだ。
すする音がハラスメントなどという風潮もあるらしいが、幸い周囲にはそういったタイプの方はいなさそうなので、安心してすする。
これだ。
学食や、ちょっと気の利いた公園の食事処といった感じのラーメンである。
すごくこだわった出汁に、秘伝のたれ、といった上手さではない。
まさに50点。
こういうのでいいんだよ、という味だ。
それにしても、この手のラーメンと、カップラーメンと、袋ラーメンを、それぞれ定期的に食いたくなるのは何なんだろう。
カップラーメンを食べたいときに行列のできるラーメン店のラーメンを食っても、「おまえじゃないんだよなぁー・・・」となるのだ。
袋ラーメンを食べたいときにカップラーメンを食べても、「ごめん・・・気持ちはうれしいんだけど・・・ちがうんだ・・・」という気持ちにもなる。
それと同じで、「あの感じのラーメンを食べたい!!」と感じることがある、まさにそんな感じのラーメンだ。
まあ、そんなことを思うのは私だけかもしれないが。
ラーメンを味噌汁代わりにしながら、チャーハンをかっ込む。
この幸せな循環に浸っていると、突然の侵入者が現れる。
餃子だ。
店員さんにお礼を言いつつ、ビジュアルの確認。
焼き面が上を向いていて、白ときつね色と黒の焦げ面のコントラストが美しい。
きつね色の焼き色を「うまそう!」と思うのは、知的生命体の特権だと思う。
香りもいい。
確認したわけではないが、ニンニクも入っている気がする。
非常に個人的な見解で申し訳ないが、餃子にはニンニクが入っていてほしい。
匂いが気に生るとか、しらん。
ニンニクというパンチは強力で、餃子にそいつが居ないだけで「ブルーのいない戦隊もの」みたいな感じになる気がするのだ。
別にブルー居なくてもいいじゃん、というタイプもいるので、たぶん餃子におけるニンニクはその辺の立ち位置なんだろうと私は思っている。
ここでタレに迷う。
今はやりの「酢&コショウ」もいい。
ある種定番の「しょうゆ+酢+ラー油」もいい。
ただ、私はしょうゆオンリー派だ。
ここは自分の中の定番である、しょうゆオンリーで行こう。
何しろこの店は久しぶりであり、まずは順当にお付き合いを重ねていきたいと思ったからだ。
小皿(私の生存地域では、おてしょ、などともいう)にしょうゆを入れる。
こういう店ではしばしば直接たれをかけるパターンの人もいるが、それだと餃子のパリパリの面がシナシナになる気がするので、私はあまりやらない。
まずはダイレクトアタック。
ちょっと厚めの皮。
嫌いじゃないぜっ!
薄皮ばっかり注目されがちだが、もっちり皮とカリカリ焼き面の小麦粉感に、肉と野菜の汁と味。
感動して口から虹を吹き出すほどではないが、しみじみと、「ああ、うまいうまい」という感じだ。
これがいい。
肉汁もしっかりあって、肉も野菜も存在感があり、しょうゆとの相性がなんとも言えない。
餃子になったお口に、チャーハン。
チャーハン化したところへ、「ラーメンの逆襲 ~スープもあるよ~」。
畳みかけるように餃子!
うぉおん! 私は猫状生物縮退炉だっ!!
気が付けば、皿の上はすべて更地になっていた。
あんなに小高かったチャーハン山はすっかり更地にされ、ラーメンも餃子も見る影もない。
開発された大地に残るのは、それらを平らげたものの笑顔だけである。
一種の虚無感と、得も言われぬ食事の満足感に浸りながら、ふと隣を見る。
暑い時期だけに、冷やし中華を食べている様子。
それを食べているお兄さんは、スマホ片手にゲームに夢中で、冷やし中華を見もしないで箸とあごを動かしている。
べつに、悪くはない。
ただ、それだとその冷やし中華の味のほどが、こちらに伝わってこない。
うまいのか不味いのかもわからない。
まあ、人は人、うちはうちだ。
私は気持ちよく会計を済ませ、こちらもルーティーンにしている、店内に向けての「ご馳走様」の声をかけて、店を後にした。
脚色と思われる方もいるかもしれないが、これはほぼ実際にこの食事をしたときに考えていたことだ。
むしろ、食事の時はもっとそれなりに時間がかかっているわけで、内容はもっと膨大だったといっていい。
そういう意味では、内容を盛るどころか、削減したほどである。
断っておくが、べつに人と食事をしているときは、ここまで長々と考えていたりはしない。
まあ、多少考えるけど。
ともかく。
食事というのは気の持ちよう一つで、素晴らしくステキな体験になると私は思っている。
気に入らないところとか、駄目だな、と思うところには、ちょっと目をつぶってみよう。
それより、いいところ探しで、「おいしいな」「こんなにうれしいことはない!」みたいな気持ちで食べてみてほしい。
食べる前から楽しみに思いながら待ち、いいところ探しをしながら食べ、「ご馳走様! いやぁ、おいしかった!」と思う。
たったそれだけで、一日に三度ある食事の時間は、たぶん素晴らしいものになる。
一日に三回も楽しいことがあるなんて、ちょっとすごくないです?
人生バラ色に輝きますよ。
たぶんだけど。
そんなわけで。
これがあなたが食事を楽しむ、一助になれば幸いです。