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君の影

作者: 浅咲夏茶

 この戦争が始まったのは三年半前、皇暦でいえば二六〇一年の冬のことでした。我が海軍は歴戦の勇士を連ねて大陸の猛者達と交戦し、百戦錬磨の大軍に多くの泥を塗ってきました。     

 しかし、帝国には資源が不足していました。開戦から二年が経過した頃には、もはや帝国の敗戦無くして終わらせることが不可能に近いことなど大半の司令官がわかっていたでしょう。それでも、彼らは戦い続けました。そして、気がつけば資源なき帝国は、その大陸の猛者達の前に為す術を失っていたのです。

 かつて優に百を超える艦名を載せていた帝国海軍の艦船名簿に残るものは、もう両手の指で数えることが出来るほどになってしまいました。たくさんの未来ある若者が、遠い遠い見ず知らずの土地で息を引き取りました。もはやあの名簿は我が海軍の栄光の歴史を綴ったものではなくなってしまったのです。

 所詮私は一士官でしかありませんし、こうして軍令部を批判することは極刑に値するのでしょうが、せめて死に際だけは許してください。

 私は、これまでたくさんの悲痛な叫びを受け取ってきました。夜戦の中に消えていった者、仲間を守ったがゆえに沈む運命を背負った者、予期せぬ事態によって自らの命を絶つ以外に術を失った者――。ここまで生き延びることができた事実は、史実を辿る人達にすれば幸運なことかもしれません。でも、生き延びることは、決して幸せなことではありませんでした。



 私にこの職に就こうと決意させたのは兄でした。物心ついた頃はよく兄と話していましたが、いかんせん私と兄は五歳差で、兄は私が初等学校を卒業する頃にはもう海軍学校にいましたから、話をする機会も皆無に等しくなっていました。そういうわけで、盆や年末年始の休みに実家へ帰省してきた兄と話すことが楽しみで楽しみで仕方がなかったことを今でも強く覚えています。

 私の実家は私が最後に舵を取った歴戦の戦艦と同じ名を冠する地方にあるのですが、夏は家のそこらに害虫が湧いて騒いでいた記憶があります。兄は本当に頼りになる男で、騒ぎ立てる私や母を尻目にちり紙も使わないで虫を殺していました。兄は近所付き合いも手慣れたもので、外見も済んでいましたから、母は兄が帰省する度に早く嫁を見つけなさいと言っていたものです。兄は道を進むことに一生懸命な男でしたから、母にそう言われるといつも機嫌を悪くしていました。海軍学校の同級生でさえ兄の男色説を囁いていたらしいので、おそらく精神的に参っていたのでしょう。そんな時に私が適当におにぎりをこしらえて持っていくと、兄は本当に美味しそうに食べてくれました。

 でも、そんな兄にも一度だけ私の料理を冷たい表情で食べていたことがあります。蛍の光を見ながら縁側で駄弁っていたある夜、兄が授業の一環で練習艦に乗船したという話をした際に、話が私の進路に及んだ時でした。私が海軍学校に入ろうと思っていること告げると、兄が必死になって私の両方の手首を強く掴んで言ったのです。

「やめておけ。お前が運動能力に秀でているのは分かるが、その前にお前は『女』だろ」

 帝国軍は、陸海ともに性別で希望者を門前払いすることはありませんでしたが、軍役という職種はどう考えても力仕事ですし、そもそも肉体構造からして女性にとってきついところが多いのは確かでした。

 兄は私の目をじっと見ながら続けました。

「未開拓の地へ足を踏み込むことには大賛成だ。けどな、男の俺でさえ四苦八苦してるんだぞ? そんな世界にお前は飛び込んだが最後、ひたすら前を向き続ける覚悟があるのか?」

 この時引き返していれば、私は絶対に戦艦を動かしていなかったでしょう。冷静になって思い起こしてみると、私は本当に常識外れな決断を下したものだと思います。でも、そう選択をしたことを悔やんだことは今の今まで一度もありません。

 その時の私は、兄が見せたあまりの真剣な眼差しに出かかっていた言葉を喉で止めました。でも、当時の私は抱えた思いをもみくちゃにできるほど大人ではありませんでした。だから、私は兄に負けない真剣な眼を見せ、そして彼の手を握り返して気持ちをぶつけたのです。

「それでも僕は、兄さんの背中を追いたい」

 刹那の静寂が虫の音を包んで訪れると、兄は厳かながらも小さな声でこう返しました。

「――来い。特訓してやる」

 兄は私が掴んでいた手を意図も簡単に解くと、さっきまでよりもさらに強い力で私の右の手首を掴み、ずかずかと普段使わない客間の方へ私を連れていきました。

 兄は無言でした。もしかしたら、兄は心のどこかで私のことを困った妹だと思って軽蔑していたのかもしれません。でも、兄が指導の中で私のことを侮辱することはありませんでした。早くに結核で父を亡くし独り身になった彼は、同じような境遇の私と接するうちに、なるべくして成立したこの一家の大黒柱にならなければならないと心に決めていたのでしょう。兄は私よりもずっと大人びた心の持ち主で、いつもずっと先の場所にいて、私を導いてくれました。兄と私は役職の上では教官と徒弟になったことはありませんが、その日からずっと、私の本当の教官はただ一人しかいません。



 十六歳の春、私は晴れて海軍学校の地を踏みました。堅く決意してから二年にわたって理数系を中心に勉学に励んだ甲斐がありました。しかし、兄は私が入学する少し前に任官されていたため、学校で会うことはありませんでした。年末にそんな話を一切聞いていなかったので驚きましたが、兄なりに私に配慮したのでしょう。もしかしたら、兄と会える時間が増えるなんて淡い期待を抱いていたことを見抜いていたのかもしれません。今となっては、それがため私が受験に落ちるなんてことは無かったと思いますが、何が起こるかは神のみぞ知るという当時は、細心の注意を払わざるを得なかったのでしょう。

 海軍学校に入った私に訪れた最初の試練は圧倒的な男子率でした。教官も生徒も私を除けば全員男性。そんな世界に私も行ってみたい、なんて淑女の方も居るでしょうが、入学当初は大変で大変で兄の忠告を何度も思い返して一人悩み込んでいたものです。

 特に大変だったのが朝の体操の時間でした。布団を素早く畳んだ後、生徒は広場に一堂に会すのですが、男子は上裸で参加することが義務づけられていたので、家に帰れば女二人という私は、最初のうちは目のやり場に困って体操どころではありませんでした。

 勘の良い生徒は、入学式の始め、新入生呼び上げの返答で私の声音から性別を見抜いたかもしれませんが、私の同期の大半はここで分かったに違いありません。あの朝を境に、明らかに彼らの私に対する目が変わりました。もっとも色恋の話ではなくて、料理や裁縫について教授を頼まれたという話なのですが。

 食堂で提供される食事も美味しかったのですが、味付けにつけても盛り付けにつけてもたいそう立派な代物だったので、私は四月の終わり頃には自炊を始めていました。育った環境に即した質素な食べ物を求めていたのです。料理や裁縫をああだこうだ言うために素養を獲得しておきたいという生徒が昔から一定数いたそうで、自炊したい旨を食堂の管理人に告げると、彼は快く食材を分けてくれました。

 私は与えられた寮の角部屋で女一人寂しく自炊することになったわけですが、食堂の管理人さんが「女の子ならいっぱい持ってきなさい」と向こう一週間は何も貰わなくていいくらい多くの食材を渡してくれたので、自炊開始翌日から弁当作りも始めました。

 自慢したいわけではなかったのですが、弁当を持ち寄る生徒は極少数でしたから、私の質素な弁当包みは多くの生徒の目に留まっていました。なかでも最初に私の弁当について興味を示したのは隣の席のAでした。包みを開いて容器を開けたのを見て、彼は言いました。

「この卵焼き、お前が作ったのか?」

「そうだけど」

「偉いなあ。なあ、一つ食べていいか?」

「味は保証しないよ?」

 Aは卵焼きを摘んで口に運びました。飲み込むと私の机をドン、と勢い良く叩いて彼は卵焼きの美味しさを表現しました。

「うま! こういう味は実家を思い出すなあ」

「Aの家も甘い卵焼きだったの?」

「おう! 俺が作るといつも塩味だけどな!」

「それ、砂糖と塩入れ間違えたでしょ……」

「そうなんだよ。俺、昔から料理できなくてさ」

「――家庭料理なら教えてあげるけど」

「本当か! それなら次の日曜、食堂のヒゲに頼んでおくからさ、教えてくれよ」

 私はボソッと吐き捨てたつもりだったのですが、Aは私の言葉を聞き漏らしませんでした。下心があるのではないかと勘ぐってしまうほど彼は前のめりになっていましたが、提案を出した以上は反故にできまいと思って、半ば流れに身を任す形で私はAとの調理実習を約束したのでした。ちなみに「食堂のヒゲ」というのは、食堂の管理人さんのニックネームです。


 日曜日の朝、私はいつもと同じように自炊していました。一箇所だけいつもと違う点があるとすれば、一人で模擬授業をしていたことでしょうか。Aとともに何を作るかを考え、またどういう風に教えるか考えていました。

 Aが私の部屋を訪ねてきたのは朝の十時頃だったと思います。案の定、彼は割烹着を持っていませんでした。

 訓練の疲れで一時は気に留めてすらいなかった割烹着を前の日のうちに丁寧に洗い、Aが持って来ない可能性も考慮し、質素な同系統のそれをさらにもう一枚用意しておいたのが功を奏しました。私とAの分だけ作ればいいとはいえ、私はともかくAの服が汚れるのは教える側として避けたいところ。そう思って、私は半ば強引に用意していた割烹着を彼に押し付けました。最初は嫌そうな顔をしていましたが、私が必死に説得するとAは応じてくれました。

 食堂の厨房に移動すると、私とA以外にも料理を作っている人がいました。食堂の管理人さんが言っていた「素養を獲得したい」生徒なのでしょう。彼はプリンを作っているようでした。卵が二個入ったケースが開いていたので、私は彼に聞いた上でそのケースをもらいました。

「何を作るんだ?」

「卵があるから卵焼きでも作ろうか」

 私が提案すると、Aは「おう」と言って大きく頷きました。調理台の上に重ねて置かれていた深皿の一番上のものを手にし、それを軽く洗った後で、私はいよいよ説明を始めました。

「卵割ってみて。――こんな感じで」

 私は用意した皿にコンコンと卵を軽く当て、ピキピキと割れた卵の真ん中を割きました。

 私が卵の中身を出し終えると、料理初体験のAは恐る恐る卵を皿に当てました。

「そんな弱い力じゃ割れないよ?」

「うーん、こんなもんか……って、あ!」

 少し煽り目に言った私が悪かったのかもしれません。Aは見事に卵の中央部を押しつぶしてしまいました。Aは、卵白のベトベト感を渋い顔の様子で表していました。

「ごめん……」

「誰にだって間違えることはあるさ。初めてなんだから、気にしないほうがいいよ」

 私は皿の中に落ちた卵の殻を箸でついばんで雑巾の上に置き、まとまったところで「生ごみ」と書かれたゴミ箱へ捨てました。

 ふとAのほうへ視線を移すと、彼は溜息をついていました。自分は卵もろくに割れないんだ、とひどく落ち込んでいる様子の彼を元気づけようと、私はひとつAに仕事を頼みました。

「食堂の管理人さんから昆布もらってきてくれるかな? 出汁が余っているようなら、それを持ってきてもらってもいいんだけど」

「わかった」

 Aは答えて頷くだけでした。いつもなら「任せておけ」と威勢よく続けてくれるのですが。

 どうしたものかと悩み込んでまったく料理が進まないうちに、使いを終えたAが戻ってきました。彼は手に赤い漆塗りの茶碗を持っていたので出汁をもらったのだろうとすぐに予想はつきましたが、あえて私は聞きました。

「あった?」

「おう。事情を話したら昆布の汁をもらえたぞ」

「でかした! じゃあ、昆布出汁をお皿の中に入れて、箸で軽く混ぜてもらえるかな?」

 小さく頷くとAは持ってきた出汁を卵の入った皿に入れました。私から箸を受け取り卵と汁をかき混ぜるのですが、卵の割り方と違ってこちらは非常に上手な捌きでした。

「うまいうまい」

「納豆を混ぜる要領でやってるだけなんだが」

 Aは謙虚に答えましたが、その顔には誇らしげな笑みが映っていました。あまり長く卵をといていても風味が損なわれるので、私は卵がいい塩梅になったところで言葉を挟みました。

「じゃあ、油を敷いて焼こう」

 そう言うと、私は後ろの棚から卵焼き器を取り出して彼に渡しました。油は既に開封済みのものが机上に出ていたので、Aは迷うこと無くその蓋を開けて卵焼き器に注ぎます。

「やめ!」

「こんなくらいで足りるのか?」

「料理人はいっぱい入れるみたいだけど、いざ自分達が摂るとなるとちょっとね。それに卵焼きの場合、油は一気に全部入れるよりも、分けて入れていったほうがいいし」

「へえ」

「じゃあ、強火で油を回そう。満遍なく回ったらコンロの上に置いていいよ」

 Aは頷くとすぐに手首を上手く使って卵焼き器をぐるぐると回し始めました。三度回した後、彼は私が言った通りにそれをコンロ上に置きました。手をかざして温かいと感じる程度になったところで、工程に移ります。

「卵を三分の一だけ入れて」

「わかった」

 Aは恐る恐る深皿から卵液を卵焼き器に注ぎました。三分の一、という言葉をやけに重要視していたのでしょう。

「ぶくぶくと気泡が出たら潰して。大体固まってきたな、と思ったら巻き始めていいよ」

 Aは頷きましたが、顔の様子を見るに完璧に理解はしていないようでした。しかし、その時の彼は卵すら割れなかったことを引きずっていた時とは違い、私の激励の言葉に従っていました。彼は思い切りよく、私の助言なしで卵を巻き始めたのです。箸で卵をまとめ、覚束ない手つきながらも試行錯誤して巻こうとする彼の様子を、私は何も言わずに見守っていました。

「できた……!」

「おお! じゃ、それを自分の方に持ってきて、空いたところに油敷いて、また卵入れて巻こう」

 Aは卵を巻くことに成功したことで自信をつけたのでしょう。私が指示すると大きく首を縦に振りました。少量の油を敷き、最初と同じくらいの卵を入れます。その手つきはしっかりとしていて、その箸は卵をきちんととらえていました。当然、二回目の巻きも成功でした。

「じゃあ、最後の巻きね。巻き終わったら卵焼き器を自分の方に傾けて側面を焼いて」

「おう!」

 Aは頷くことも体で表現することもなく、元気よく返事をするに留めました。もう不安げに聞いてくることもありません。こうして彼は、満ちた自信とともに美味しそうな卵焼きを完成させたのでした。

 Aが出来た卵焼きを大きな白い皿に移し、箸で四等分にしたとき、先程までプリン作りをしていた人が近づいてきました。ふと彼が居た方の調理机を見てみると、ほとんど片付いるのがわかりました。

「教え上手なんですね」

「そんな大袈裟な。私は大まかな作り方を言っただけです。褒められるほどでは・・・・・・」

「そうですか? たとえ大雑把なものであったとしても、受け手が的確と思える指示が出せたなら指揮官としては合格だと思いますが」

「指揮官、ですか……」

 私は身が引き締まる思いでその言葉を受け取りました。そして士官科に籍を置いているという現実を改めて噛みしめたのです。

「少なくとも、私みたいな主計科の人間は細かく指図されないほうが喜びますよ。料理にしろ被服にしろ『こだわり』がありますからね」

 私は彼の言い分にとても共感したのを覚えています。思い返してみれば、彼の言葉がその後の仲間の立場に立って物事を考えるきっかけになったように思います。

「一つ食べていきますか?」

「いいんですか? では、お言葉に甘えて」

 主計科の彼は、料理初心者のAの誘いを二つ返事で受けました。不味いと言われる心配も少しはあったのでしょうが、料理の職人である主計科の人間に手料理を食べてもらえる機会などあるかどうか分かりません。Aは当たって砕けろという精神で試食を頼んだと思います。

「美味しいですね。出汁が効いています」

 Aは右の拳をぐっと握って下に引きました。手料理を主計科の人間に褒められるほど光栄な事はありません。好敵手として認められたというと言い過ぎですが、そういった意味に取ることも出来るのですから。

「お返しと言ってはなんですが、お昼一緒に作って食べませんか?」

 主計科の彼は、Aにもらった卵焼きを食べ終えると、そんなお誘いをしてきました。彼がしたように私もAもこれに二つ返事で返したのを覚えています。冷めないうちに私は一つ、Aは二つ、作った卵焼きを口に入れ、飲み込むとすぐに片付け作業にかかりました。手際よくそれを終えた後で、私達は主計科の彼がプリンを作っていた調理机のほうへ向かいました。

 こうして私はAとともに主計科のKと親しくなったのでした。話を聞くと私達よりも二つ上の先輩で他人行儀な関係は続きましたが、少し経つとタメで話せる関係になっていました。


 Kが海軍学校を卒業して二年が経った春、士官科三年となった私とAは彼から軽巡洋艦の副料理長に抜擢されたとの一報を受けました。私達もKも忙しい頃ではありましたが、暇を作って文通を続け、Kが本土に戻ってきた時には会うようにしていました。Kは父も兄も陸軍に属していたらしく、少し前に海軍の軍縮が決まった頃からその二人は彼にひどい態度を取っていたそうで、Kは私やAとの文通が心の支えだと語っていました。

 その年度の末、いよいよ士官としての最初の一歩を踏み出せるようになろうかという年の二月のことでした。四年前に海軍将校らが起こした反乱とは比べものにならない規模の陸軍による反乱が帝都で起きたのです。海軍学校は帝都から見れば遠くにありましたが、その一報を受けた日の正午に全科の生徒が校庭に招集され、校長自ら私達にその事件の経緯を説明しました。

「帝都で起こりし反乱の首謀者は陸軍である。彼らは我ら海軍を狙っている。ゆえに、将来、士官以下重職に就くと思われる君達は、最大限の警戒を以てこれに対応せよ。以上!」

 その前代未聞の国家転覆未遂事件は、それまで政治に不干渉であった今上帝が、自らの意思によって近衛師団を率い、反乱を鎮圧なさったほど大規模で深刻なものでした。

 もっとも海軍もその事件の四年前に首相を暗殺する事件を起こして憲政の常道を破壊していますから、自らのことを棚に上げて批判するのは良くないのでしょうが、少なくとも組織的に国家構造の大改編を試みたわけで、その事件が及ぼした影響は大きいものがありました。

 特に、あの事件が陸軍と海軍の仲違いを引き起こしたということは言うまでもありません。そういった様子は海軍学校内ではあまり知ることが出来ませんでしたが、事件の数週間後にKから送られてきた手紙を見れば一発でした。家族からは「一族の恥晒しだ」と言われ、旧友からは「海軍に魂を渡した男」と言われ、自らの尊厳を踏みにじられている、とられていたのです。同時に、こうして二人と文通できることが幸せ、ともありました。

 その手紙を受け取った夜、私は自分に何か出来ることは無いだろうかと考えました。年端もいかない自分のような弱小士官が、軍令部以下海軍上層部に要望をぶつけても望みが叶うことは無いことは分かりきっていました。それでも、もし出来たならば――Kを自艦の料理長に迎え、Aとともに艦艇を指揮し、兄と同じ艦隊を動かしたい。

 私はその強い決意を持ったまま、皇暦二五九六年三月に海軍学校を卒業しました。私は兄と同様に海軍学校士官科の首席でした。性別が違えば大々的に取り上げられることは無かったのでしょうが、私は「初」と冠した栄誉を多く貰ってしまったために、卒業したての頃はたくさんの新聞社に取材を受けました。最初の頃は嫌な思いよりも褒められることへの嬉しさが勝っていましたが、帝国軍人として働きたい意思が次第に強くなっていき、四月半ばからは嫌々彼らの取材に答えていたような気がします。


 帝国海軍が海軍学校を開設して以来、「海軍学校ヲ首席トシテ卒業セシ者ハ、之ヲ中尉トスルコトヲ得」とありましたので、私は少尉ではなく中尉としてその軍人生活を始めました。

 十八歳の中尉で、しかも女。これほど屈辱的なことはない、と私のことをよく思わない乗組員は多くいました。話をしているうちに打ち解けることもありましたが、私の味方をしてくれる人はほとんどいませんでした。最初の頃は「女だから」の一言で理不尽な仕事を押しつけられていたのを覚えています。そうして、いつしかAやKといった理解者との文通が心の支えになっていました。

 そんな頃に、私の評価を一変させる事態が起きました。艦長以下の士官を集めて行われた作戦会議の中で提案した私の案が採用され、そして、それによって私の乗っていた艦が大勝利を挙げることが出来たのです。他の士官はあの会議の場で私の案をひどく貶していましたが、いざ作戦が成功すると彼らは手のひらを見事に返してくれました。

 私は作戦が成功しても自慢して回りませんでしたので、「俺が作戦を立てた」と豪語する尉官や佐官が出てきてしまったのですが、艦長が乗組員全員を集めて私のことを作戦立案の張本人として紹介すると、それまで私のことを敵視していた尉官らも私のことを高評価してくれました。その件で私は大尉に昇進し、また、尉官としては珍しく「みぞれ」という駆逐艦を与えられることになりました。

 自艦を持つ。そんな夢が叶い、私は嬉しさのあまりAやKに何通も手紙を送ってしまいました。Kは「おめでとう」と褒めてくれたのですが、Aからは年賀葉書に「自慢しすぎ」と送りつけられてしまいました。

 初めて持った駆逐艦の仲間は優しい心の持ち主ばかりでした。私は二十歳でしたから、年齢的にいえば乗組員の大半は年上――つまり「先輩」に当たるわけで、始めの頃は彼らの姓に「先輩」をつけて呼んでいたのですが、ほとんどの乗組員からすぐに止めるよう言われ、私は乗艦一週間にして年上の男性の姓を呼び捨てて呼ぶことになりました。戸惑いもありましたが、彼らは私を「姉御」と親しみを込めて呼ぶようになり、尊称付けを廃した結果、私は強固な信頼関係を築くことに成功しました。

 私は大東洋という大海原での戦争が始まる皇暦二六〇一年までの間に多くの巡洋艦と駆逐艦に乗り、駆逐艦の一部では艦長も務めましたが、いずれの演習や実戦においても兄と同じ艦隊になることはありませんでした。

 帝国海軍が大陸の覇者に奇襲攻撃を仕掛けるまでに、兄は大佐、私は中佐、Aは少佐になっていました。Kは菓子職人としても一流の料理人としても有名になっていて、料理本を手掛けるほどにまで大成していました。



「艦長! 軍令部より入電です!」

 まだ夜が明けないうちに、海洋上を移動していたグアマニア攻略部隊の一、私が乗艦していた「師走」の艦内に大きな声が響きました。私は仮眠をとっていましたが、その一報を受けて制服を着、艦橋へ向かいました。

「――帝国海軍は哇布ワイハにてアメリゴと、陸軍はマレイにてブリティンと交戦に入れり――」

 それは、先の大戦の開幕を知らせる電報でした。アメリゴやブリティンといえば、当時の列強諸国の中でも覇者級の国家であり、既に開戦の可能性を電報で聞いては居ましたが、その二国を敵に回すのはやはり正気の沙汰ではないと思いました。しかしながら、艦長ともあろう人間が不戦を唱えれば軍令部に処されるのは言うまでもありません。私は帝国のために戦う他ないと決意し、規定の通り返答するよう指示を出しました。

『了解』

 哇布に赴いた帝国海軍空母機動部隊の旗艦「妙義みょうぎ」により発せられた電報は、安芸湾に停泊していた後に私が乗艦することになる「長州」でも受け取ることができました。

 私が艦長を務めていた「師走」含む攻略部隊は開戦同日にグアマニアへの空襲を実施し、その二日後にはこれを占領することに成功しました。  

 私は「師走」とともに、その後も緒戦に参加し、姉妹艦やネームシップが沈んだという報告を受けながら、翌年五月に鎮守府での修理を命ぜられるまで、冠する名の如く大東洋西部で暴れ回りました。そしてその修理の日、「師走」の属した駆逐隊は解散され、私は生き残った姉妹艦の艦長とともに中佐となりました。

 もっとも、軽巡級以上の艦長になれるのは大佐よりも上の佐官と将官だけであり、中佐昇進後に与えられたのは駆逐艦でした。私の昇進を多くの知り合いが喜んでくれましたが、胸の内は複雑でした。

 私は鎮守府で駆逐艦「霧雨きりさめ」に乗艦し、大東洋東方へと舵を切りました。鎮守府付近で見た臣民の疲弊している姿は忘れることが出来ません。あれを見て、皇国の勝利によるこの戦争の終結を早期に実現しなければ、という衝動に駆られたのを覚えています。

 しかし、皇国の戦勝記録はそう長く続きませんでした。鎮守府を出て二週間。二六〇二年の六月初め、ミードウェイア海戦に臨む空母四隻を始めとした艦艇の護衛任務を終え、ミードウェイア海域から離脱している最中。突如として入った電報に私は衝撃を受けました。

「帝国海軍は空母四隻が轟沈、他被害艦多数……」

 大本営はこれを大勝と表現しましたが、現実は悲惨なものでした。屈辱的な大敗を喫したことは臣民に対してはひた隠しにされましたが、軍関係者にはすぐに知れ渡り、私含め多くの艦長がいよいよ浮かれてはいられない状況になってきたと認識し始めました。

 もっとも、この頃の帝国海軍はミードウェイアでの海戦を除けば依然として勝利を重ねていました。その海戦のひと月後にはアメリゴ植民地だったフィリピア全土を占領し、アメリゴ本土への空襲にも成功しています。ゆえに私達軍人としても自信の喪失といったものはそれほど大きくありませんでした。

 しかし、ミードウェイアから約二ヶ月後に起きたガダンカナンの戦いによって遂に攻守が交代してしまいました。同時期に帝国海軍はソロモニアで三度にわたって海戦を繰り広げましたが、ついにこれを放棄することを決断します。

 私が乗艦した「霧雨」もソロモニア海戦に参加しました。今となっては幸運艦と評される「霧雨」ですが、言い方を変えれば多くの艦艇を看取ったり見捨てたりしてきたわけであり、心理的負担は大きいものがありました。

 特に第三次ソロモニア海戦においては、御召艦でもあった戦艦「高野こうや」への雷撃処分の命令が下りました。「霧雨」と同様に幸運艦と言われる「旋風つむじかぜ」とこれを遂行する予定でしたが、結局は攻撃ではなく放棄という形になりました。

 ソロモニアを撤退し、年が変わった頃から、「霧雨」の主任務は輸送護衛に変わりました。ガダンカナン撤退作戦にも参加しましたが、敵艦とも敵偵察機とも遭遇することがありませんでした。

 その後、西方鎮守府で改修を行って、「霧雨」は再びソロモニアの海へ戻りました。私はそれまで同様に輸送作戦を遂行しましたが、作戦中に沈んだ艦もありました。

 そうしていよいよ戦力の消耗が見え始めてきた八月のはじめ。輸送任務中、闇夜のベララ湾で海戦が勃発しました。夜戦の始まりは乗組員の大きな声と先頭艦の爆発音でした。

「敵襲! 敵襲! 同作戦遂行中の駆逐艦少なくとも二隻が炎上中!」

 この日の輸送任務に参加していた艦艇はいずれもレーダーを搭載していなかったため、敵の奇襲に対応することは不可能に近かったのです。「霧雨」は単縦陣編成艦隊の最後尾につけて敵軍の警戒にあたっていましたが、敵軍が魚雷を発射したことは、同作戦に参加した駆逐艦が炎上するまで気づくことができませんでした。一報の直後、「霧雨」の前にいた艦も爆発。ついに自艦を除いて同作戦実行艦は仕掛け花火のように爆発してしまいました。

 操縦士はすぐさま私に指示を求めました。

「艦長、指示を!」

面舵おもかじ!」

「「面舵!」」

『敵の次なる目標はまごうことなく【霧雨】である。我が艦のみ生存し、もはやこの不利な戦況を打開するすべはない。よって、我らはこれを退く』

 私は記録にそのように記しました。敵を見抜くことのできる装備が皆無であり、これ以上、南洋海上での輸送作戦中に艦艇を失うわけにはいかなかったのです。面舵を取った後、私は魚雷の発射を命じました。計八本を発射しましたが、どれも不発でした。

 海戦を終えて泊地に戻ると、駆逐隊が組み替えられました。同じ頃、ベララベイラ島へ敵軍が上陸作戦を決行したとの一報が入りました。敵は拠点の壊滅よりも補給路の破壊を目論んでいたのです。それは帝国軍に衝撃を走らせました。

 これを阻止するべく「霧雨」は他駆逐艦三隻とともに補給作戦を実施しました。その夜、敵軍の接近がありましたが、電波探知器によってベララ湾での悪夢の再来を防ぐことに成功。輸送部隊の一部は撃沈または座礁してしまいましたが、駆逐艦四隻は揚陸に成功しました。

 しかしながら、二年の間に着々と力を増強していた新大陸の猛者の前に帝国軍は苦戦を強いられ、敵の奇抜な作戦のために南洋諸島では撤退や転進が多く行われました。その中で、ベララベイラ付近において再び海戦が起きましたが、一部艦艇が沈んだのみで、一方的な敗北というわけではなく、むしろ今回は撤退の対象部隊全員の輸送に成功するということで、大きな戦果を挙げることとなりました。

 撤退作戦が終わって十一月を迎えるやいなや、敵軍は帝国軍の転進地へ上陸を決行しました。この際にも海戦が勃発しており、「霧雨」は敵艦隊を最初に発見したのですが、艦隊司令官の稚拙な指揮の結果、敵への攻撃は発見時刻から三十分近く遅れての開始となりました。そういった中で混乱が起き、帝国軍と大陸軍双方で衝突事故が起きてしまいました。私が指揮した「霧雨」は、被弾した旗艦と衝突しかけるほどで、夜戦の遂行が危うくなるほど兵も艦艇も疲弊している実態が浮き彫りになりました。

 その海戦を残った艦艇はラバールの泊地に戻って補修を受けました。その最中に泊地のあるラバールは空襲に遭い、沈没艦こそなかったものの帝国海軍としては大きな被害となりました。

 修理が完了すると、すぐに私は輸送任務を与えられました。いつもどおり遂行しましたが、途中で舵が故障する事態が発生。大きな問題なく航行できたのは本当に不幸中の幸いでした。

 修理直後に修理。何か悪いことが起きているかもしれないと思われたようで、「霧雨」は本土への帰投を命じられました。その途中、輸送船団が敵軍の攻撃に遭ったとの知らせを受け、「霧雨」は救難作戦を実施。入れ替わるように来た駆逐艦に後処理を任せ、輸送船が積んでいた爆雷を載せて「霧雨」は本土へ向けて再度舵を切りました。



 西方鎮守府へ帰還すると、すぐに「霧雨」の本格的な修理が始まりました。一方の私は、ベララベイラでの一連の出来事や輸送船の救助に対する姿勢が讃えられ、ついに戦艦を動かすことも夢ではない「大佐」へと昇進することになりました。

 戦況の悪化とともに文通をしている暇もなくなっていたので、西方鎮守府に立ち寄ると同時に、私は兄やA、Kの状況について鎮守府の事務官に質問することにしました。事務官は私を応接室に通すと、「調べてきます」と大きな返事をして、それから一時間近くも書庫に篭って資料探しに翻弄していました。

 書庫から出てくると、彼は私の対面に座って資料数枚を提示しました。

「皆さん生存されていますよ。お兄さんは中将に昇進、Aさんは中佐、Kさんはお兄さんが乗られている戦艦の料理長です」

「兄さん――いえ、兄が乗っている艦艇はご存知ですか?」

「超()級戦艦『紀伊』です」

 超弩級戦艦は開戦以前に就役したものも多数ありましたが、なかでも「紀伊型」は群を抜いて巨大なものでありました。もっとも「紀伊」は、その姉妹艦「尾張」とともに私が乗艦した戦艦に比べれば、終戦まで日の目をみることは多くありませんでしたが。

 当時の私は電報や会話を通してそういった情報を得ていただけで、実物を見たことがありませんでした。敵軍はいち早く大艦巨砲主義を棄て航空戦重視に切り替えていましたが、我が帝国海軍はまだまだ大艦に巨砲を載っければ敵を粉砕できると思っていました。それがゆえ、さらに戦局は悪化の一途を辿っていくのです。

 ただ、当時の私が大艦巨砲主義者だったことは事実です。兄もAもKも同じでしょう。みんな、海軍学校を出た当時はそういった時代でした。巨大戦艦の建造をやめていくことで軍縮を図ろうという条約が締結された、まさにその当時だったのです。そんな時代、超弩級戦艦の艦長を務めるとなれば、それはそれは誇らしいことこの上ない話でした。

 兄や友人の昇進や近況話を聞いた後、私はいよいよ同じく超弩級戦艦である「長州」へ乗るよう指示を受けました。その戦艦は軍縮条約で名が挙げられるほどの帝国海軍きっての歴戦艦で、海軍といえばその戦艦を挙げる臣民も多くいました。

 そんな誇らしい艦艇に乗った日、私は色々なことを回想していたのを覚えています。これまでの歩みや戦いの中で沈んでいった艦艇にいた同業者を思い浮かべ、その死をひどく悔やみ、戦意の火が消えないようにしました。

 夜になると、艦長自ら盛大な歓迎会を開催してくださいました。私はそこで久しぶりにAの姿を見ることが出来ました。中佐となったAは、かつてのようにはしゃぐことは少なく、一方で頼れる温かい上官といった雰囲気がありました。あまり食料もありませんでしたから、「歓迎会」と言っても質素なものでしたが、かつてああだこうだ言い合った友人に会えたことの喜びは大きいものでした。

 Aの身の上話によれば、彼は私と同じように多くの駆逐艦を乗り回してきたようでした。一時は沈没寸前の状況に陥ったこともあったそうですが、彼の的確な指示によって船員は皆脱出。彼が指揮を執っていた駆逐艦も無事泊地で修理を受け、機能回復に漕ぎ着けたそうです。

 歓迎会が終わると、艦内はすぐに戦闘態勢に切り替わりました。現場にはピリピリとした雰囲気が居座り、ついさっきまでの楽しい歓迎会が嘘のようでした。艦内の様子についてAに聞くと、彼は顔を小刻みに揺らし、言葉を選ぶように「普通のことだ」と口にしました。一足早く戦艦に乗り込んだ彼の口から出た意味深長な言葉に、私はより一層身を引き締める必要があると感じました。

 私が乗艦して初めての大きな戦いは、翌年の六月中旬までほとんどありませんでした。しかし、いざ決戦だと覚悟して臨んだその海戦は、結果からいえば帝国海軍の壊滅的敗北に終わるものでした。こちらが百を越す航空機を失い、その上空母や戦艦、さらには給油艦と言った重要艦艇を失う一方、あちらは軽微な損傷程度で沈没艦を一隻も出さないで済むという結果だったのですから。

 ただ、さらなる悲劇が神無月の末にありました。海軍がボロボロに近い状態に追い詰められる海戦がまた起こったのです。今度は「長州」の乗組員にも死傷者が出ました。私は副艦長に死体の処理を命じられ、胸の張り裂ける思いで冥福を祈りつつ、ご遺体を今にも破けそうなボロボロの布で包んで最下階の安置室に移動させました。

 制海権を取られた海域を離脱した後、艦橋に戻った私に入ったのは、艦長室へ出向けという副艦長の命令でした。副艦長が一日中指揮を出していたことを不安に思った私は、彼に艦長がなぜ艦橋に来ないのか聞こうとしました。しかし、それを彼は受け流すばかりで結局は有耶無耶にされ、私は答えを得ることは出来ませんでした。

 艦長は一体何を考えているんだ、とモヤモヤしながら私は艦長室の扉を開けました。刹那、今までに感じたことのない重々しい雰囲気が私を襲いました。

「残念なお知らせだ」

 艦長の机の前に立った後、開口一番に発せられた言葉はそれでした。兄の先立ちが一瞬の脳裏を過り、唾がなかなか喉を通りませんでした。

「東村艦隊が『霧雨』を除いて――全滅した」

「……」

 兄の死の話ではない。だからといって胸を撫で下ろすことはありませんでした。駆逐艦「霧雨」の艦長を辞めてから既に七か月が過ぎていましたが、私の心の奥底には、一年以上も乗り回した艦艇に対するどうしても棄てることのできない愛着心が残っていたのです。それは家族に対する愛情にも似ていました。

「本当に済まない。本来、私はその艦隊の旗艦を任されていた。それなのに、私はそれを蹴ってしまった。私は後輩に死ぬことを命じたんだ……」

「あなたはそれがため、一日中執務室にこもっていたのですか?」

「ああ」

「――あなたが指揮取らないで、一体誰が指揮取るのですか!」

 私は机を思い切り叩き、思いを吐き捨てました。

「戦場じゃ誰だって死ぬことを覚悟しているんです。それを一番分かってるのは他ならぬあなたでしょう。後輩が死んだから、旗艦が沈んだから、――そんな理由で帝国の存亡を左右していいはずがない!」

 私は無我夢中で艦長の体を揺らしました。

「徹底抗戦しか、もう道は無いんです。敵の猛攻は凄まじい。もう帝国海軍は夜戦技術すら敵わなくなりつつある。泊地だってどんどん取られている。確かに、この艦に乗っている者たちは家族のようなものです。ですが、このような大事な時節に、自分の感情を持ち込んで艦隊を崩壊させないでください。あなた無しでこの船は回らないんですから」

 ふと我に返ってすぐに、私は自分の犯した罪の重さを知りました。体の中の熱がどんどんと冷めていって、あれほど熟れた林檎のように赤かった私の顔は、みるみるうちに泥混じりの雪でも被ったのごとく青白くなっていきました。しかし、艦長はただゆっくりと頷くだけでした。

「ありがとう。こんな情けない爺に構ってくれて」

「――こんな時だからこそ、ですよ」

「そうか。では、用件は以上だ。下がりなさい」

「失礼しました」

 私は深々と頭を下げると、すぐに去りました。


 サイパニア、グアマニア、フィリピア、と帝国海軍は重要拠点を次々と奪われ、もはや空襲は日常茶飯事、卯月しがつが始まると同時に沖球ちゅうきゅう本島への敵軍侵攻も始まって、本土決戦も時間の問題となっていた皇暦二六〇五年四月六日。帝国海軍は少しでも沖球本島での戦闘を長引かせようと、敵軍艦隊との直接対決を始めました。

 でも、もう帝国海軍には燃料がありませんでした。突貫工事で作り上げた兵士しかいませんでした。そもそも戦うために必要不可欠な艦艇が不足していました。それでも彼らは戦いました。

 そして、帝国の威信をかけて建造された超弩級戦艦の象徴とも言うべき「紀伊」は、敵軍の多数の攻撃によって、その姿を海にくらませました。

 海戦の報告は直ちに伝えられました。受け取った交換手が内容を淡々と口にする裏で、艦橋はじめ艦内の至るところでは、大きな溜息が聞こえていました。それから数十分して、私は艦長室に呼ばれました。

「――これを、受け取りなさい」

 艦長が持っていた四つ折りの紙が意味するところはすぐに分かりました。ずっと以前から覚悟していたことでした。戦場にいる者ならば、いずれ遠い彼方で命を絶つ日が来るかもしれないということくらい分かりきっていたはずでした。

 しかしいざ受け取って開いてみると、感情の抑制なんてものは一瞬にして消えてなくなりました。掴んだ部分をクシャクシャにして、私はその紙面の多くを心に湧いた水滴で埋め尽くしました。泣くのが精一杯で声を出すことなど不可能に近いことでした。

 悲劇はなおも続きました。七月半ば、東方鎮守府がある街を襲った空襲で、「長州」の艦橋部が大規模に破壊されたのです。私は仮眠中で命こそ助かりましたが、艦長はじめ艦橋にいた九割以上が命を落とし、運悪くそこにはAも含まれていました。

 私はその現実を前にしても泣くことすらできませんでした。もうそんな気力はありませんでした。そんなことよりも、早くこの死体を安置室へ運ぼう。まるで私は機械のように心を失って、気がついた頃には人の散らかった艦橋部と破壊された司令部の整理をしていました。



 敗戦後、「長州」は大陸の猛者の手に渡り、そして今日、遠くビキニアの地で海の藻屑と成り果てました。核爆発の炎の中を耐え抜き、そして日を跨いで静かに沈んでゆく姿は、まるで帝国海軍を映し出す歴戦の戦士そのものでありました。

 私は「長州」の最後の艦長としてその勇姿を見届けました。私にこの地へ来ること、そして「長州」艦内の神社へ参拝することを許してくれた敵軍の重鎮達の配慮には頭が上がりません。

 A、私にはあなたの思いを汲んで生きていくことが出来ません。

 K、最後にもう一度あなたの手料理が食べたかったです。

 母さん、こんな親不孝な娘でごめんなさい。

 兄さん、私にとってあなたは最初にして最後の、たったひとりの教官です。もし天国で逢えたなら、かつての夏休みの夜みたいに、また他愛もない話をしましょう。


 我、生涯二十八ニシテ斯ク戦ヘリ。

 祖国ノ再興ヲ祈リ是ニ於イテ桜散ラス。

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