5-17 ぼくを生んでくれてありがとう。
キラ先生は車で家まで送ると申し出てくれたが、おれはそれを丁重に断った。
遠慮したのではない。なんだか明るい太陽の下を歩いて帰りたい気分だった。
すると今度は田中が地下鉄の駅まで送ると言ってきた。女じゃねえから不要だと断ろうと思ったが、やっぱり送って貰うことにした。
家を出る前、熱中症対策にと田中が麦茶入りの水筒を渡してきた。ペットボトルじゃなくて水筒を渡すあたり、随分家庭的な奴だと笑った。
外に出ると、むあっとした熱気がおれ達を襲った。日差しがまるで鋭いナイフのように肌を刺してくる。道路のアスファルト上に、もやもやとした陽炎が見えた。首都は40度を超えるらしい。どこの砂漠だろうか。
こちらの地域はそこまで気温が上昇することはないが、その代わりに湿度が高く、体感温度は気温以上だ。おれ達は時折水筒で水分補給をしながら、地下鉄を目指す。やっぱり車で送って貰えばよかったと、歩きながらちょっと後悔した。
「田中は明日の花火大会来るか?」
地下鉄までの距離が半分ほど縮まった辺りで、おれは隣を歩く田中に尋ねた。
「人混みが苦手だから、毎年行ってないです」
田中が手で額の汗を拭いながら言った。
「そうじゃなくてよ、演劇部の誰かから聞いてねえか? 演劇部は毎年花火大会を一緒に過ごすってな」
「いや? 聞いてないです」
「じゃあ田中も一緒に行こうぜ」
しかし、余り田中は乗り気じゃない様子だった。
「ああ、彼女がいるなら無理に誘わねえよ」
演劇部の部員も、恋人と2人きりで過ごしたい者は参加を辞退している。
「分かってて言ってますよね」
「まあな」
田中が不満げに口を尖らせた。からかい甲斐のある奴だ。
「人混みが嫌っつーなら大丈夫ってな。穴場があんだ。そこなら結構空いてるってな」
「……本当ですか?」
「ああ。約束する。なあ田中。頼む。来てくれねえか?」
「そこまで言われると、流石に断れないです」
ようやく田中は首を縦に振ってくれた。
「よし。じゃあ明日17時に、ヤギコー前集合な」
「ヤギコー前? 山羊山から花火見えるんですか?」
「言ったろ。穴場があるって」
「それに17時集合って、ちょっと早過ぎません? 花火大会19時からですよね」
「ま、色々準備があんだよ」
花火大会について話している内に、いつの間にか地下鉄に到着していた。地下鉄の入り口を潜ると、ヒンヤリとした空気が頬を撫でる。外とは大違いだ。
おれは券売機で300円の切符を購入した。電子看板を見ると、次の地下鉄到着まで後10分ほどの猶予があった。
「田中……今日はあんがとな。色々と吹っ切れた」
不意に、口から感謝の言葉が漏れた。
「つーかさ、キラ先生ってカッケエなオイ。おれもああいった落ち着いた大人になりてえよ」
おれの言葉を受けて、田中は照れくさそうに頭を手で抑えた。頭痛めてる系イケメンのポーズだ。
「でも父さんああ見えて結構駄目駄目だよ。浪費癖酷いし、家事全般さっぱりだし」
「おれの親より遥かにマシだっての」
つい、語調が荒くなる。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃあ……」
田中は申し訳なさそうに、右手で首を抑えた。首痛めてる系イケメンのポーズだ。天然であざといなコイツ。
「分かってるって。別に怒ってる訳じゃねえから、気にすんなって」
おれはケタケタと笑った。本当にからかい甲斐のある奴だ。
「おれさ……1つ夢ができた」
おれは笑うのを止め、姿勢を正す。
「夢っつーか、目標ってな。キラ先生に、摂食障害を治すのなら、目標があった方がいいって言われてな」
「どんな目標ですか」
田中が神妙な眼差しを送ってくる。
「すげえ俳優になる」
おれは両手を大きく広げて言った。
「バンバンテレビに出て、超有名になって、おれのことを知らねえ奴なんて居ねえレベルになる。世界の隅々にまでおれの名前を轟かせてやる」
そこまで有名になれば、きっとどこかにいるおれのオヤジオフクロにも、おれの名前が届くだろう。
「でな、親を探して3千里みてえな企画で、おれと両親が再開すんだよ。そしておれは言ってやるんだ」
大きく息を吸い込んでから、おれは情感たっぷりに詞を紡ぐ。
「ぼくを生んでくれてありがとう」
そして――
「おれを捨てててくれてありがとう」
そして最後に、皮肉をたっぷり込めてこう結ぶ。
「おかげでおれは幸せです……ってな」
「……カッケエなオイ」
田中は悪魔の様な笑顔を浮かべながら、おれの口癖を真似て言った。
きっとおれ自身も、田中と似たような笑顔を浮かべているのだろうと思った。
***
「ただいま」
おれは自宅の玄関扉を開けつつそう言った。当たり前に「おかえり」は返ってこない。
「ゲロみてえ」
ただいま、なんて下らねえ台詞を吐いたことが気恥ずかしくて、おれは言い訳のように呪詛を吐いた。
リビングの電気を点けて、リモコンでテレビの電源を入れた。寂しさを紛らわすために、音量を上げる。
おれはポケットに手を入れて、スマホを取り出そうとしたが、そこにスマホは無かった。
そうだそうだ。田中にいきなり拉致られたから、スマホは家の中に置きっぱなしだったんだ。おれは田中が拉致しに現れた時の魔王コスチュームを思い出し、小さく笑った。
おれはスマホを取りに、寝室へ向かう。スマホはベッドの上に投げられていた。だが、充電が切れたのか、タッチしても画面は暗転したままだった。おれはスマホと充電機を一緒にリビングへ持って行った。
おれはソファーに寝転がり、充電しながらスマホを操作する。大量の不在着信があり、発信元は全て音無空。コエエっての。メッセージをやり取りするアプリ「FINE」には、直接話したい、と一言だけ来ていた。
おれは空に電話をかけた。基本的に連絡はFINEで済ませていたため、電話で直接話すのは新鮮な気分だ。
「もしもし!」
瞬速で空が電話に出た。だからコエエっての。
「何の用だ?」
「その……モモくんが心配で……あのね、ジロくんが凄く真面目な顔で尋ねてきたから、思わずモモくんの住所を教えちゃったんだけど……それで……あの、あのあの、あのね。モモくん何かあった?」
「攫われた」
「攫ッ!? どどどどどいういうこと!?」
「田中が急に家に現れてよ。無理矢理拉致られた。あいつの家に連れていかれちまったぜ」
「FU●K!! あのサノバ豚ビッチ。モモくんの桃に何てことを……チンコもいでやる」
さすがに勘違いが酷くなってきたため、おれは田中きらめきメンタルクリニックで診療を受けていたことを白状した。そして、おれが摂食障害を患っていることも伝えた。空には言っておかなくちゃならねえと思った。
「ゴメンな。折角作ってくれた弁当食べれなくて」
「ううん。モモくんが悪いんじゃない。モモくんは何も悪くない」
そう言ってくれたことが、本当に救いだった。
「なあ空……アンタまだおれのことが好きなのか?」
「えっ!? う、うん。好きだよ」
「異性として?」
「異性としても」
おれは不思議だった。手酷く振った空が、どうして今もおれのことを好きなのか? どうして空は、どうしようもないおれを好きでいてくれるのか? おれは尋ねた。すると空はゆっくりと告げる。
「モモくんは、ぼくのことを助けてくれた、ヒーローなの」
おれに空を助けた記憶は無い。そもそも、可愛いおれがヒーローなんて柄じゃない。空は、おれのことを誰かと勘違いしているんじゃねえか?
「モモくん。小っちゃい頃ドラマに出てたよね。イジメに立ち向かう役で。モモくんは知らないと思うけど、ぼくはイジメに屈しないモモくんを見て、凄く勇気を貰ったの」
空の言葉が、徐々に熱を帯びていく。
「それは所詮ドラマのお話なのかもだけど、モモくんの健気な姿が、ぼくにイジメに立ち向かう勇気を与えてくれたの。ぼくにとって、モモくんはヒーローなの。辛いことがあっても、モモくんを想うことで乗り越えることができたの。同い年に凄い人がいるって思ったの。だから自分の呼び方を『ぼく』にして、形だけでもモモくんに近付こうって思ったの。小学生の頃から、モモくんはぼくの憧れなの。そしてそれは今も変わらない。だから、モモくんがぼくのことを好きじゃなくても、ぼくはモモくんのことが大好きなの」
ポタリと涙が零れた。今日泣くのは何度目だっての……
「空」
「うん?」
「ありがとう」
かつてのおれの演技が、誰かの力になっているなんて、思いもしなかった。
もしかしたら空以外の人間にも、力を与えていたのだろうか?
無駄じゃなかった。
かつておれがしてきたことは、何もかもが無駄という訳では無かった。
その事実が、例えようもない位に嬉しい。
おれは感謝した。
おれを虐待し続けた両親に、おれは初めて感謝の念を抱いた。
勿論、おれに働いた数々の仕打ちは許せない。許せる訳がない。
でも、その仕打ちが巡りに巡って、おれと音無空と引き合わせてくれたことに、おれはほんのちょっぴりだけ、両親に心から感謝することができた。
だから、だからこそ必ず言ってやる。いつか絶対に、絶対に面と向かって言ってやる。
首を洗って待ってろよ。ゲロオヤジ。ゲロオフクロ。
感謝と呪いを込めて、心の底からこの言葉を送ってやるってな。
――第伍幕 ぼくを生んでくれてありがとう。おれを捨ててくれてありがとう。 完




