3-12 醜聞
いつも通り、アタイはちょうど朝8時に教室に到着した。いつも通り、細木が机の上で寝ていて、扉を開けた音で目を覚ました彼がこちらに寝ぼけまなこを向けるのも、いつも通りだった。アタイはいつも通り「おはよう」と言った。
「お……おはようございます」
だが、いつもと違って細木の挨拶はぎこちなかった。いつも通りなら「はよーっす」と気さくに返してくるんだが……まあ、そんな日もあるだろう。
アタイはいつも通り鞄の中から小説を取り出し、挟んでいたしおりを頼りに読んでる途中のページを開いた。
8時10分を過ぎた辺りから、いつも通りB組の生徒が続々と教室に入ってくる。
「お、おはよう……」「おっはよー」「……おはようございます」「おはー」
だが、いつもと違って同級生約半数の挨拶に、細木と似たぎこちなさがあった。挨拶だけでなく、彼等から妙な視線を向けられている気がする。違和感の正体を確かめるべく、アタイは近くの笹木さんに声をかけた。
「ねえ……何か皆の様子おかしくない?」
「そりゃあ、裏サイトにあんなものがアップされたからね。大丈夫、私は信じてないよ」
笹木さんは励ますかのような口ぶりだったが、彼女の言わんとすることを理解できなかった。ただ、裏サイトという単語にただならぬものを感じた。
「裏サイトって何?」
「えっ!? 知らないの。もしかして誰からも招待を受けてなかった?」
「招待? ごめん何の話」
アタイがそう言った直後、笹木さんは自分のスマホを慌てた様子で操作した。すると、アタイのスマホにメールが届いた。基本的に友人とのやり取りはFINEで済ませているため、電子メールが送られてくるのは何だか新鮮だった。
「そのメールのリンク先に行って、会員登録して。そして、今一番盛り上がってるスレッドを見て。それで全部分かる」
笹木さんの神妙さに危機感を覚え、アタイは言われた通り『ヤギコーSNS』への会員登録を済ませた。そして、サイトトップに表示された文字列に全身の毛が逆立った。
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「なあ……アノ噂は本当なのか?」
俺と信長、細木君、そして何故かいるエルフ先輩の4人で卓を囲んだ昼食の最中、同じクラスの高橋君が下卑た笑みを浮かべつつ尋ねてきた。
「ほら、田中って十字架と仲良いだろ? だから真相を知ってるんじゃないかって」
「その話はやめろ」
何の話かと俺が問い返す前に、細木君が露骨に不快感を露わにした。
「な……なんだよ……細木も気になってしょうがねえんだ――」
「黙れ!」
細木君は蹴飛ばすように椅子から立ち上がり怒声を上げた。普段から短気気味な細木君ではあるが、今日はいつにも増して気が短かった。
「なんだよ……いい子ぶってんじゃねえぞ……」
明確な敵意を向けられ、高橋君の表情が険しくなった。流れる空気が棘々しい。
俺は2人の間に割って入った。
「二人とも落ち着け。周りにいい迷惑だ」
周囲を大げさに見回すことで、教室内の生徒達に注目されていることを彼等に気付かせる。
やがて2人の臨戦態勢は解かれ、細木君は椅子に座りなおし、高橋君は背を向けた。周囲の視線も霧散し、教室内に平常の空気が戻った。
「ケッ……つまんねーの」
そう吐き捨て、高橋君は俺達から離れていった。細木君が何か言いかけたが、俺は手で止めろと制した。不満げな表情の細木君。俺は彼を宥めつつ、何があったのか尋ねた。
「十字架さんが戻る前に、ちゃちゃっと見てくれ」
すると、細木君は自分のスマートフォンを差し出してきた。スマートフォンを受け取り、そこに表示されてたものに目を通す。信長とエルフ先輩も背後から画面を覗いた。
それは酷い内容だった。
ヤギコーSNSには、昨日学校に来た十字架さんの母親、十字架レイナとAV女優『マリア』の比較画像が大量に投稿されていた。比較画像は複数の人間が投稿しており、誰の画像が一番GOODを稼げるかという競走ゲームのような状態と化していた。
画像だけでなく、レイナとマリアが同一人物であると推理を披露する者、マリアの経歴を書き込む者、悪質な投稿だと批判する者、もっとやれと煽る者など、ヤギコーSNSは混迷を極めていた。
さらに話題は娘の十字架聖奈にまで飛び火し、彼女もAVにスカウトされたのではないか、もう出演済みではないのか、枕営業で点数操作をして学年主席をもぎ取ったのではないかと、心無い議論が繰り広げられていた。
他人の醜聞は甘い蜜だ。
扇情的な見出しを香りに、内容の過激さ甘みにした、麻薬にも似た蜜。蜜の成分に十字架聖奈という学年主席が含まれているならば、その香りと甘さは極上だろう。そして甘い香りに引き寄せられた蟻が、一度蜜を舐めればその味の虜となり、しかも蟻は良かれと思って蜜の場所を仲間に知らせる。そして仲間がまた他の仲間を呼び、それが繰り返されることでネズミ算式に蟻は増え続けていく。
厄介なのは、蟻達が増えれば増えるほど、蜜がより香り高く、甘さも濃厚になっていくところだろう。十字架親子から生み出された蜜は改良が……いや、改悪が積み重ねられ、いまや刺激臭が放たれていた。
「……最悪だ」
途中で見るのを止め、俺はスマートフォンを細木君に返した。これを十字架さんが見たら深く傷つくだろう。いや、今朝からどこか様子がおかしかった為、もう知っているのかもしれない。
エルフ先輩は今すぐ削除と規制をしてくると言い残し、教室から飛び出ていった。
だが、その程度じゃあ、もうどうにもならないだろう。もうレイナ=マリアはヤギコーSNS内での共通認識となっていた。このままだと、十字架さんが潰されてしまうかもしれない。
俺はこの状態を打破すべく、何かできる事はないか頭を回す。
「言いたいことがあるならハッキリ口にしいや!」
そこに、燃え盛る火炎のような十字架さんの怒鳴り声。怒りを露わにする彼女の前には、高橋君を含めた4人が席に座っていた。
「そんなに怒んなよ。アレが事実かどうか噂してただけじゃん」
「だからアレって何やの?」
「だからアレは、アレだよ」
「コソコソ噂話とか男の癖にキショイわ」
「オレ達が何を話してもオレ達の勝手だろ。これでも一応気を遣ってやってるんだぜ」
「どこがや! 頭湧いとるんか?」
「うっせーなヒスってんじゃねーよ。やっぱAV女優の娘なんだな?」
その言葉にクラス全員が息を呑んだ。俺は席から立ち上がり十字架さんを背後に庇う。
「高橋君。ちょっと外に行こうか」
口調は優しく、だが威圧的な声を出す。顎で外を指し、言葉以外でも教室から出ていけとメッセージを送る。
「……な、何だよ。オメーもいい子ぶるなよ。気になってんだろ?」
「まずは教室を出よう。話はそれからだ」
「んだよ恐い顔して……言っとくが、先に絡んできたのは十字架の方だからな」
「ソッチがコソコソと見てくるからやろ!」
十字架さんもかなりの興奮状態だった。まずは2人を引き離して冷静さを取り戻させないと、血を見るほどの大喧嘩に発展する危険性がある。だが一足遅かった。
周りの責めるような目つきに絶えかねたのか、高橋君は逆上し暴言を喚き散らす。
「んだよ! 違うなら違うってハッキリ言えばいいだろ! 皆も気になってしょうがない癖に。AV女優の娘だと思ってるくせに。オレだけ悪者にしてんじゃねえぞ!」
「そうやで」
十字架さんの、呻き声にも似た小さな呟き。
「そうやで……アタイの母親はAV女優や」
怒りも否定もせず、十字架さんは光を失った瞳で肯定した。
自棄になった彼女を見て、胸がズキリと強く痛んだ。
俺は十字架さんを宥めようと手を伸ばした。だが――
「近付くなこの変態!」
伸ばした手の甲を思いっきり引掻かれてしまった。肌が少し裂け、そこから血が滲み出る。
「この際だからハッキリさせとくわ。噂のとおり、アタイはAV女優『マリア』の娘や。それが学年主席の正体。満足?」
十字架さんの自虐的な告白に、俺を含め、クラスメイト一同は黙っていることしかできなかった。そしてそれが十字架さんの逆鱗に触れてしまったらしく、彼女は傍にある机を蹴り飛ばし暴れ始めた。
「何なんや! 何で黙るん! 何か言えや何か言えや何か言えや何か言えや何か言えや! 何で黙ったままなんや! 穢れた女だと思ってんやろ! それならそうとハッキリ口にすればええ! 貫通済みの中古品ってハッキリ言えばええやろ!」
「じゅ、十字架さん落ち着いて! そんなこと誰も思って――」
「変態は黙れっつってんだよおおおおオオオオオ゛オ゛!!」
まるでバックドラフト。その剣幕と拒絶に怯んでしまい、俺は押し黙ることしかできなかった。
「嫌いや嫌いや! 皆大嫌いや! 何も分からん! 何も分からん! 誰も分からん何にも分からん! 何でアタイはこんななん? 何でオカンはあんななん? 何で? 何で? 何で何で何で何で何で! あんなんが親じゃなければ、こんなことにならんのに。何でアタイは普通の家に生まれなかったん? 何で? 何で? 嫌いや! AV嫌いや! それを見る男も嫌いや。白い目で見る女も嫌いや。作るんも売るんも出るんも嫌いや。嫌いや嫌いや嫌いや嫌いや大っ嫌いや! あんなアバズレ大っ嫌いや! あんなんがオカンなんて最悪や! 同じ血が流れているなんて穢らわしい。血の繋がりなんてクソやクソクソ! 家族なんざ要らん! 皆消えてしまえ!」
目を背けたくなるほどの痛々しい叫びが、俺の身体から自由を奪う。
何とかしてあげたいのに何もできない。何をしてあげればいいのか、何て声をかければいいのか分からない。
己の無力さが情けなく、忌々しい。
スパアン!!
そこに渇いた破裂音が一発鳴った。
泣き叫び錯乱する十字架さんを止めたのは、アルビノの少女、江口杉子による渾身の平手打ちだった。
「何するん――」
罵声を浴びせようとした十字架さんだったが、目の前に立つ白兎を見て言葉を失った。
江口さんは親の敵を見るかのような目で十字架さん睨んだかと思えば、家族を失った遺族のように声を押し殺して泣いていた。
充血してさらに紅さを増した真紅の瞳が揺れていて、血涙を流していると錯覚してしまうほどだった。
泣き叫んでいたのは十字架さんで、暴力を振るったのは江口さんの筈なのだが、大粒の涙を流す江口さんを見ていると、どちらが加害者でどちらが被害者なのか、よく分からなくなってくる。
やがて、江口さんは無言で教室を出て行った。
「……一体何なんや!」
江口さんに続き、十字架さんもまた教室を飛び出した。
2人が消えてから長い間、クラスは沈黙の海に溺れていた。
ようやく我に返った俺は、2人を探すべく学校中を駆け回った。
だが、彼女達の姿を見つけることはできなかった。




