第五十七話・致命的な現象
わかっていたはずだ。自分がやっていることは、鳴峰組に勝負を挑むということは、本来なら決してやってはいけないことだ、と。何かあれば自分だけの問題では済まされなくなる、というのもわかっているつもりだった。
「どうした? ずいぶんと静かなになったな」
ゆるりと、空を切るような声を字一が発した。声の中に嘲笑が含まれていることに気付き、丈二はへその力を込めて反論する。
「そっちこそ、妙に饒舌じゃあねーかよ」
「フフ。俺は、元彦のように人の感情を正確に読み取ることは出来ないが……。お前はわかりやすいな。実にストレートだ。ギャンブル向けじゃない」
「うるせぇ!」
精一杯声を張り上げるが、字一だけでなく、直人も感じていた。丈二は怒りで恐怖をごまかしていることに。
「さっさと始めるぞ! 先攻を決めるんだったな! ジャンケンか!?」
「俺はどっちでも構わない。お前が好きな方を選んでいい」
「なら……先攻だ!」
改めて並べ直したカードの一枚を選び、表にする。
「ほう。いきなりキングか」
「よしっ、最強だ!」
字一はしばらくテーブル上のカードを眺めた後、一枚を選択する。
「ここか……」
低くつぶやき、表返す。それは二番目に弱いカードである2だった。
「これで15ポイント先制ってことだよな?」
「ああ」
「よしっ! 幸先いいぜ!」
そう思っていたのは、丈二だけであった。直人も、当然字一も、今の結果が『幸先いい』と言えるようなものではないと理解していた。
プレッシャーを振り払おうとする丈二だけが、気付いていなかった。
一方、明石兄妹のアジトではもう一つの戦いが行われていた。沈黙の戦いが。
「……」
夜九時近くになっても、みどりはアジトの部屋から出ようとしない。ただ黙々と周囲の物品をダンボールにしまう作業をしている。アジトを引き払う準備をしているようだった。
ガシャガシャと物を動かす音が室内に響き、それは部屋の外まで届く。その音を聞きながら、結子はドアにもたれて黙り込んでいた。
「……みどり」
時折、ポツリと中に向かって声をかける。返事は当然ない。
昨日この場所でみどりに拒絶されて以来、結子の心はふさぎがちだった。夕方近くになってようやく気を取り直し、ケリーに明石兄妹の家まで案内してもらった。直人たちへの伝言をケリーに託し、学校から帰ってくるみどりを見つけたのが午後四時半である。
『みどり』
思い切って声をかけた。何と言われようが、決して折れない。そう決めたのだ。
『聞いて。私……』
みどりの反応は――なかった。目の前に立つ結子が視界に入らないかのように、平然と通り過ぎて玄関を開け、入って行った。
数分後、カバンを置いて身軽になったみどりが出てきた。結子は再度声をかけるが、やはり反応はなく、徹底して結子を無視し続けながらアジトへ向かう。結子も負けじと後を追いながら意志の疎通を図るが、視線を合わせることすら出来なかった。
『私、待ってる。みどりが答えてくれるまで、絶対にここから離れないからね!』
アジトに到着し、素早く部屋に入って中から鍵をかけたみどりに対して結子は叫んだ。それからずっと、結子は部屋の前でみどりを待ち続けている。
(ストーカーだと思われてもいい。でも、ずっとバッテリーを組んできたんだもん。感じるよ……。みどりも、このままじゃいけないって思ってること……)
悔いていた。二年前、みどりの悲しみを見通せず、唯一の希望であったソフトの試合で負けてしまったことを。
(あの時……あの、最後の一球。私は勝利を確信していて……ほんの少し、球がゆるんだ……。気を抜いたつもりはなかったのに、最後の最後で……!)
本当に結子の球が甘かったのか、それは定かではない。しかし、結子はそう思いこみ、激しい自責の念に駆られていた。
(謝りたい……でも、ちゃんとみどりと向き合ってからじゃないと、この想いは伝えきれない。言葉だけじゃ、届かない)
時計の短針が、九時を示した。
(おかしい……。何か、何かおかしいッ!)
カジノハウスの接客室では丈二が全身に汗をかいていた。薄暗く寒々とした部屋の中で、丈二の体は内側から燃焼するように火照っている。
「どうした? そっちの番だぞ」
「わかってる!」
プレッシャーによる緊張の次に丈二を襲ったのは、正体不明の不気味な感覚だった。ゲームの流れが異様な空気を発し、丈二の呼吸を苦しめている。
負けているわけではない。しかし、心は敗北に近い状態になっていた。
「11だ!」
「次は俺だな。……残念、12だ」
11+12、合計は23。
「これで終了。俺の合計ポイントは36だ」
「……54」
ポイントは丈二の方が18多い。だが、最後の一枚で儲けは決定されるのだ。
「最後の一枚は……1。変化なしだな」
その通り。最後のカードが1では、18かける1で18の儲けにしかならない。ニ千万が目標だと言うのにたったの十八万しか稼げないのだ。
(おかしい。今までならもっと一気に稼げたのに……)
時間ばかりが過ぎていき、一時間たって百万も稼げていない。勝っているのに儲けがない。それが、ギャンブラーにとって致命的な現象を呼ぶことを字一は知っていた。