第五話・平崎 結子
『三番レフト、岩田さん』
最終回裏、2対1。ツーアウト1、2塁。
(あと一人……あと一人抑えれば勝てるっ!)
汗が全身から吹き出し、ユニフォームの中はびしょぬれになる。秋になっても衰えることを知らない太陽の熱が、マウンドに立つ華奢なソフトピッチャーの体力を容赦なく奪っていく。
『あと一人。しまっていこーっ!』
キャッチャーの明石が両手をあげてチームに換気を促す。その声が、ピッチャーの疲労をわずかながらごまかしてくれる。
(ここまで来たんだ……絶対に負けられない。)
明石の出すサインを見、第一球を放る。
『ストライークッ!』
絶妙なコントロールのインハイ。少しでもボールがズレれば長打になりかねない。
『OKゆいこ! 球、走ってるよ!』
ボールを返しながら明石は笑って見せる。小学校からの親友は、いつも結子の支えとなってくれていた。
(大丈夫……っ! サインの通りにキッチリ投げれば勝てる……っ!)
結子は明石の配給リードを信頼していた。コントロールだけが持ち味の結子が二年間レギュラーでいられたのは、明石の頭脳的なリードがあってのことだった。
(絶対、大丈夫!)
体を沈め、腕を弓のようにしならせて第二球を投げる。キャッチャーミットめがけて、真っすぐにボールは走った。そして……。
「ゆいこーっ! 早く起きなさいってば!」
「ん……ん〜……」
すぐ耳元でジリリリ、と不愉快な音が響く。目覚まし時計が己の職務をまっとうしているようだ。
(久々に、あの夢見ちゃった……)
急激に気候が暖かくなってきたせいか、はたまた夢のせいなのか知らないが、全身にうっすらと汗がにじんでいる。
「シャワー浴びる時間は……ギリギリありそうね」
生真面目な目ざまし時計を鎮め、手早く着替えを用意してバスルームに飛び込む。
『偏才のこと、しゃべっちゃったけど別にいいよね? 秘密にしてるわけじゃないし、私達が勝手にそう呼んでるだけだし』
『知られたところで何も問題はないだろ。ただ、仕事のことは一応秘密にしといた方がいいんじゃね?』
『ボスのこともな。聞き間違いだとか何とか言って、上手くごまかしといてくり』
『……って、ボスのことしゃべったのあんたたちだよねぇ……』
そんな会話を交わして、昨日の集会はお開きとなった。
「あーあ、一番近いからって、あそこで手当するんじゃなかった。後で隠ぺいするぐらいなら最初っから聞こえるように会話するなっての」
シャワーを終え、大急ぎで朝食をとる。まだ遅刻の心配がある時間ではないが、結子にはやるべきことがあったのだ。
「いってきまーす」
「ねーちゃん、もう行くのー?」
「高校生は忙しいのよ」
小学生の弟の頭を小突き、玄関を後にする。
「さてと、仕事仕事」
そう言って、結子は狭い路地裏へと姿を消す。
結子が学校近くの大通りに現れたのは、それから20分後だった。
「やれやれ……今日も収穫なし、かぁ……。やっぱりこの仕事、光助の手を借りた方がよかったかな」
ブツブツ言いながら、仕事を終えて学校へ向かう。その。
「あ、あの……」
「ッ!」
突然、背後から声をかけるものがいた。
「おはよう。平崎さん」
「お、おはよう。積里君……」
お互いに予定外の再会である。
(やっば〜。さっきの独り言、聞かれてないわよね……?)
「平崎さんって、いつもこのぐらいの時間に登校するの?」
焦る結子に対し、直人は違う意味でドキドキしながら質問する。
「ま、まぁ、大体毎日このぐらいの時間ね」
「へぇ。そうなんだ」
(やった。聞かれてなかった……)
(やった。もしかしたら毎朝会えるかも……)
それぞれの理由から、二人はごく自然に笑みをこぼした。
「ぼ、僕も、この時間に来るようにしてるんだけど……その、もしよかったら……」
直人は顔を赤らめながら話を切り出す。直人なりに、好きな異性と仲良くなれるチャンスを活かそうと努力しているのである。
が、当の結子はまったくそのことに気付かず、別の思考をしていた。
(今、ボスのこととか聞かれると面倒ね。ジョーと同じクラスらしいから、アイツに押し付けよっと。とりあえず今は話題を他のことに集中させて……)
「あ、あの……もしよかったら、明日から」
「明日から一緒に学校行く?」
「え?」
あまりにストレートに望みが叶ったため、直人は反応が遅れた。
(え? そう言う話じゃなかったっけ?)
叶えた結子も一瞬戸惑う。
「いいの?」
「うん」
(やったぁーっ!)
心の中で大喜びする直人。一方、結子はホッとしたのも束の間、別の問題に気付いた。
(って、一緒に登校する約束しちゃったら、明日から朝の仕事が出来ないじゃんっ!)
こればっかりは自分で解決するしかない。よく考えもせずに話を合わせてしまった自分を呪う結子であった。