第四十八話・意地 対 狂気
「おっと、まだボール持ってたよな」
ナカの奇襲で床に落とされた結子のバッグに、俊はゆっくりと近付く。
「やっ、やめろ!」
体勢を立て直した結子が急いでバッグに手を伸ばすが、俊の手が早かった。
「ハハハ、残念。……あったあった、小汚いボールがあと二つ」
結子のバッグの中を俊の手が乱暴にまさぐる。その行為に結子は嫌悪感を覚えつつも、それ以上動けなかった。すぐ後ろにナカの気配を感じたからだ。
「ブアゥッ!」
「ハハッよしよしよぉ〜し、いいぞ、ナカ!」
振り向かなくともハッキリと存在がわかるほど、ナカは結子に接近していた。
(マズい……どうする?)
これまでの犬――ハクやハツと比べると、ナカの体格はかなり小さい。しかし、机やイスといった障害物の設置された室内では、その体の小ささが逆に有利となる。
「おっ、アンタも一応リップクリームぐらいは学校に持って行ってんのな」
「触るな!」
「……ハイハイ」
俊は無造作にバッグを放り投げる。そして、視線は再び結子に向いた。
「さて、どうする? 頑張ってここから逃げ出すか?」
出口は二つ。扉と、先ほどナカが飛び込んできた窓だ。しかし、どちらに向かって走っても、すぐに追いつかれるだろう。
(さっき落とされたボールを拾うか……素手で犬を倒すか)
ボールは結子の手から落ちた後数メートル転がり、貸出カウンターの下で止まっていた。閲覧席にいる結子からは二メートルほど離れている。
「そうだ、いいこと思いついた。アンタ、こっち側に来な」
俊は本棚の間へと入って行く。照明をつけていないため、本棚の周りは暗い。
(ダメ。狭いところで挟み撃ちされたら逃げ場がない!)
「ナカッ!」
「ヴァウ!」
ナカが飛びあがって机の上に乗り、さらに結子へ飛びかかる。
「くっ……」
やむを得ず結子は本棚の間に逃げる。だが、俊のいるところではなく、その一つ隣のスペースに逃げ込んだ。
「おいおい、面倒な手間をかけさせるなっての。どっちみち追い詰められるだけだしよぉ」
俊が本棚の後ろに回り込んで近づいてくる。さらに、出口のある方向にはナカが立ちふさがっており、想定していた最悪の状況となった。
(一か八か、犬に向かって突撃するしかない)
いかに凶暴とはいえ、まったく歯が立たないわけではない。多少の怪我を覚悟して走れば突破は可能だろう。しかし、ナカを突破しても、そこから逃げられる保証はない。ボールを拾うにしても距離がありすぎる。
(それとも、素手であの男を倒すか……。ダメだ。その隙に後ろから犬が来る)
「観念しな。大人しくしてりゃあこっちも乱暴はしねぇからよ」
その声に、下卑た笑いが込められている。結子は足の先から全身に悪寒が走るのを感じた。
「さぁて、そんじゃあ楽しませてもらおうかな」
「ふざけるなっ!」
出来るだけ重そうな本を掴み、ナカに向かって投げつけた。
「ギャッ!」
ナカはページの隙間から埃をまき散らす本をかわし、逆に結子へ飛びかかる。しかし、結子はすでに走り出していた。
「このっ!」
「ギャゥオ!」
ナカを跳ねのけ、急いでボールを拾いに走る。
「あっ、待て!」
(間に会った!)
カウンターの下にあるボールに手をかけ、拾い上げようとした瞬間――。
「ツアァッ……!」
鋭い痛みが足を襲う。以前、学校でハクにつけられたものとは比較にならないほどの痛みと血が、結子の左ふくらはぎから吹き出した。
「グルルルルゥ……」
ナカの口、牙の間から血が滴る。全身の赤い毛に血の色が混じり、まるで血染めの狂犬のようだ。少なくとも結子にはそう見えた。
(痛……ッ!)
「ハァハッハッハ! いいぞ、いいぞぉナカ!」
俊が高らかに笑い声をあげた。ナカと同様、狂気に満ちた目を輝かせている。
「アハッ、アハ、アッハァァ……。い〜い感じじゃあねぇかよ〜。理想的な展開だぜ」
「やめ、やめて……」
結子は顔を上げることもせず、懇願するようにつぶやくばかりだった。
「あ? 聞こえねぇよ」
「やめ、て……」
「聞こえねぇっての!」
笑いながら俊は結子に近付く。ねずみを捕まえた猫のように、わざと時間をかけて結子に迫っていく。
「……」
「なぁおい、平崎サン? さっきまでの威勢はどうした?」
うずくまる結子のそばに立ち、見下しの言葉を浴びせる。
「痛いか? ん?」
そう言いながら、右手をゆっくりと差し出す。その右手は大きく広げられ、結子の右太ももをつかんだ。
「ハハッ、なぁ……」
その瞬間、結子の左足が動いていた。俊が近付くのを待ち、その顔を思い切り蹴りあげたのだ。
「うげぁ!?」
「この……変態野郎!」
「グァウ!」
ナカが瞬時に反応する。血のついた歯が剥きだされると同時に、口の中へボールが放り込まれた。
「ブバァ……」
足をかまれながらも、結子はしっかりとボールを掴んでいた。うずくまっていたのはそれを隠すためだったのだ。
「ウ……ツゥ」
歯をくいしばって左足の痛みをこらえつつ、結子は窓の外へ飛び出した。