第四十一話・不信
『父さん!』
『お父さん!』
若い二人の声が男のナイフを止めた。
『字一……みどり……なんでここに居やがんだ』
明石字一と明石みどりの兄妹が駆けてくる。当時の兄・字一は高卒、妹・みどりは中学二年生だった。
『家にあったナイフがなくなっていたから、もしかしてと思って来たんだよ』
『ちっ……』
男は元彦の胸倉から手を離す。しかし、ナイフを収めようとはしない。
『父さん! ここで組の人間に手を出したら、余計マズイことになるよ!』
『黙ってろ字一! コイツがあの時見逃してくれりゃあこんなことにはならなかったんだよ! 悪いのはコイツだ!』
『お父さん!』
子ども二人の必死な抗議で、男はようやくナイフを懐にしまう。その目つきにはまだ憎悪の色が浮かんでいるものの、先ほどまでの酔いに任せた狂気は薄れていた。
『お父さん。さぁ、帰ろう?』
『ああ……わかったよ。クソッ』
みどりが男を連れて立ち去って行く。その後ろ姿を見送りつつ、字一は元彦に向き合った。
『アンタ……確か同じ高校にいたな。まさか鳴峰組の人間だったとは』
『こっちこそ……。明石さんに息子がいることは知らなかった』
『俺は組の人間になるつもりはないからな。アンタ達と違って、幹部の御曹司なんて身分じゃないんだ』
そう言う字一のメガネの奥の目に、男とよく似た憎悪の光が宿った。
(恨んでいるな……俺のことを)
自然に、元彦は字一の感情を読み取ってしまう。
(そういえば、組の中でも下っ端はかなり生活が苦しいと聞いている。それで、明石さんの家族は幹部の息子である俺を憎んでいるのか……)
『今更、文句を言ったって何も変わらないのはわかっている』
極力表情を隠した様子で、字一は言葉を続ける。
『親父が酒がらみで問題を起こしやすく、身分が低いのもわかってる。組を追放されたのは親父が一方的に悪いんだってこともわかってる。だから……』
怒りと悲しみ、そして屈辱の混じりあった声に変わった。
『今、ここで起こったことは誰にも言わないでくれ。このことが組に知られたら、今度こそ親父はタダじゃ済まされなくなる』
『……しかし』
鳴峰組に対して恨みを持った人物が、幹部の息子に向けてナイフを突き付けてきたのだ。当然ながら、元彦には報告の「義務」がある。
『親父は俺たちが押さえつける。もう二度とアンタたちに刃向かわないように説得するから、絶対に報告しないでくれ!』
(……コイツの言葉は本物だ。決してただのデマカセなんかじゃあない。本気であの男の怒りを鎮めようという覚悟も感じられる)
しかし――。
(でも、それで本当にあの男の怒りが消えるのか!? アイツは酒に酔うと何をするかわからないって理由で、組から重要な役割を与えられなかったんだ。もしもまた、酒に酔った勢いで襲ってきたら……)
不安は拭いきれない。さらに、自分や光助の父親たちの言葉が元彦の脳を強く揺さぶりだしていた。
(ああいった手合いには厳しく接してもらわないとね)
(お前はもっと器を磨かねばならん)
『……頼んだぞ。今回のことは誰にも言わないでくれ』
それだけを言い残して、字一も去って行った。
元彦の下した決断は――。
『信用、できない……』
それから数週間の間、誰にとってもつらい日々が続いた。元彦から報告を受けた鳴峰組は男を確保し、厳格な処分を果たした。明石家は父を失い、字一は入ったばかりの大学を中退して就職し、妹のみどりと母親を支えなければならなかった。しかし、明石家の事情を知る大人たちは、誰もが字一の存在を忌み嫌った。
『そげなこつがねぇ……。けん、悔やんでんしゃあねぇでしょ』
光助はそう言って元彦を励ました。しかし、それでも元彦の罪悪感は消えなかった。外を出歩くたびに、字一やみどりと出会いやしないかという思いが巡り、足がすくんだ。
『怖いんだ。自分がこんな才能を持っていたばかりに、一人の人間が消されたというその事実が。それに、直接「処分」に関わった組員達の血なまぐさい感情までもが、ストレートに伝わってくるんだ』
皮肉なことに、この一連の出来事がきっかけとなって元彦の才能はさらに研ぎ澄まされた。相手と顔を合わせなくとも、少し声を聞いただけで相手の感情を感じ取れるようになったのだ。
町中を歩いている時、すれ違う人々の生の感情が元彦に伝わって行く。時には嬉しい、楽しいといった感情も存在するが、裏稼業の人間として接する社会には、圧倒的な負の感情があふれていた。
『もう、誰にも会いたくない』
そんな思いがこみあげてくるのに時間はかからなかった。
『……そんげやったら、出来んこつもないですけん』
光助はそう言って、(ケリーの見つけた)誰も立ち入ることのないスペースを提供した。父親たちに知られないように準備を進め、二人が初めて出会ってから三か月後に、元彦は「鉄の部屋」に入ったのであった。