第三十五話・埋まらなかった溝
油断したつもりはなかった。最後まで、全力で勝負していたはずだった。それなのに……人の心は、無意識のうちに気が緩んでしまうのであった。
『ストライークッ!』
最終回、ツーアウト。最後のバッターをツーストライクにまで追い込んだ。
『OK! 大丈夫!』
明石みどりはボールを投げ返しながら、マウンド上の親友を励ます。
『ラスト一球、キッチリ決めよう!』
『わかった。みどり』
炎天下の中を一人で投げ続け、結子の体は疲労している。しかし、みどりの励ましが闘争心をかき立てていた。
三年生が引退し、正式なレギュラーとして最初の公式試合である。「絶対に勝つ」と監督やチームメートに宣言してようやくこぎつけたレギュラーの座。ここで負けてしまっては全ての信頼を失ってしまう。
(大丈夫。このバッターの苦手なポイントは把握している。外角の低め。そこに投げさせれば勝てる!)
指先でサインを送る。そのサインを見て、結子は力強くうなずいた。
(……少し球威が落ちてきてるけど、この一球を決めれば勝利。結子ならきっとやってくれる)
結子の上体が低く沈んだ。長い腕を振るい、勝負を分ける最後の一球が放たれた。
(よしっ! 相変わらず抜群のコントロール、そしてこの球速なら大丈夫!)
渾身のストレートをしっかりと受け止めるべく、みどりはミットを構える手に力を込める。しかし、その手にボールは飛び込んでこなかった。
カアァァァァン……。そんな音が、どこか遠くで鳴り響いたような気がした。
『……え?』
一瞬、完全に反応が遅れた。フルスイングされたバットがボールをはじき返したことに気付かなかった。
『――り! みどり! バックホームッ!』
焦った声が聞こえて我に返った時には、すでにランナーが目の前に迫ってきていた。
『はっ!』
野手から帰ってきたボールを受け取り、ランナーにタッチをしようとする。しかし、全ては遅かった。
『ホームイン!』
相手側のベンチが大歓声をあげる。よく見ると、ホームを走り抜けたランナーは一人ではなく、二人いた。
(最終回で一点差、そしてホームインが二人……?)
それらが示す結果を、みどりは認めたくなかった。完全に勝利を手にしたと思っていた。だが、現実はゆっくりとみどりの心に侵食していった。
(逆転された……? 私の、リードミス?)
『みどり』
気がつくと目の前に結子が立っていた。いつもの快活な笑顔が消え、今にも泣きそうな顔だった。
『ごめん。私、打たれちゃった……』
(……うるさい)
みどりは何も聞きたくなかった。
(どうして打たれたの? 私のリードが間違っていたの? 結子の球が甘かったの?)
つい一瞬前の状況を必死に思い出しながら、どうにか整理をつけようとする。しかし、考えれば考えるほど混乱は広がった。
(私の配球リードと、結子のコントロールがあれば勝てる。勝てるって、ずっと信じてきたのに……。結子となら、絶対に勝つって宣言して……)
『みどり……』
『うるさいっ!』
試合後の整列も忘れて、みどりは涙をぶちまけた。
『ごめんって、何で謝るの!? 結子はただリードに従っただけじゃないっ!』
チームメート達が何事かと集まってくるが、涙は止まらない。
『勝てるハズだったのに、勝ったと確信したのに! アンタと、アンタと一緒なら……絶対に勝てると思ってたのに……』
最終回での逆転負け。優秀なキャッチャーとして通っていたみどりにとって、屈辱とも言える敗北だった。必勝を確信していただけに、崩壊は早かった。
『こんな……こんなのって、アンタに会わなかったら……』
そして、みどりは言ってしまった。これまでの青春、全てを否定する言葉を。
『アンタなんかに会わなければよかったッ!』
そして翌日から、結子とみどりは練習に来なくなった。試合の負け自体よりも、友情と信頼の断絶が原因であることは誰の目にも明らかだった。
監督やチームメート達は決して二人を責めなかった。敗北の原因があるのは二人だけではないと、誰もが自覚していた。しかし、二人の深い心の傷に触れることは敬遠せざるをえなかった。二人が自分たちで解決するしかないと見守ることに決めたのだ。
だが、溝は埋まらないまま、つらい思い出から逃げるようにみどりは転校して行った。
「みどり……」
「……ああ、そうだった」
今、みどりは結子を見ていない。その冷めた視線は和仁に向けられていた。
「思い出した。あなた、バスケ部のキャプテンだったわね」
「えっ俺?」
和仁の方はみどりのことを知らなかった。声をかけられて、ようやくどこかで見た顔だと思いだしたぐらいだ。直人も同じだ。
「エースピッチャーの結子は有名だったけど、私はそうでもなかったからね」
「おいおい、どうなってんだ?」
状況を飲み込めない丈二が間の抜けた声をあげる。その背後に、音もなくハツが忍び寄っていた。