第三十三話・ありふれたきっかけ
中学時代、直人はいたって「普通」の少年だった。成績や運動能力は平均よりもやや落ちる程度だったが、それなりの人数の友達を持ち、充実していたとは言えないが絶望もない、静かな生活を送っていた。
『ナオって、好きな女子とかいんの?』
中学一年のある日、友達の一人がそんな話を振ってきた。思春期らしい、ごくありふれた質問だった。
『一応いるけど教えない』
直人はいつもそう答えていた。しかし、本当の答えは「いない」である。ただ、そう正直に答えると「普通」でなくなるような気がして、言えなかった。
『えー、誰? もしかして波原? 三組の安部とか?』
『タメとは限らねーよ。もしかしたら先輩だったりして』
友人たちが口々に勝手な候補者の名前を挙げる。それも通過儀礼の一つに過ぎなかった。
「中学一年」という時期は人生の中で最も大人へなりたがる時期である。六年間もの小学生時代を終え、真新しい制服に身を包むことで急速に自分の成長を実感し、様々な可能性が増えることを喜ぶ。そして、恋人をつくろうという欲求もより強くなる。
『そういや、安部って誰かと付き合ってるらしいぞ』
『マジッ!? もしかしてナオ?』
『ち、違うよ』
そんな会話もあちこちで聞こえてくる。しかし、直人の心には、まだ誰かと恋仲になりたい、という思いは湧いていなかった。無論、異性に全く関心がなかったわけはない。自分が「彼氏」となって女性と接することをイメージ出来なかったのだ。
(僕もいつか、恋愛するようになるのかなぁ……)
時々はそう思う事もあったが、中学という新しい環境に慣れるのに精一杯な毎日だった。
しかし、ある日の体育の授業で直人は唐突に思い知らされた。恋愛はするものではなく「落ちる」ものなのだと。
『積里君、頑張ろうね』
ソフトボールの授業で同じチームになった平崎結子。容姿的に「かわいいな」とは思っていたが、この時点ではまだそれだけの感情だった。
『セカンド行ったぞー!』
直人が守備しているポジションへ強力なゴロが飛んでくる。直人は懸命にボールを追うが、捕球に失敗して後逸してしまった。
(しまった!)
『エラーだ! 逆転された!』
同じチームの誰かが叫び、その責めるような口調に直人は肩を落とした。元々運動は苦手な方だが、自分のエラーで逆転されてしまってはショックが大きい。
『大丈夫、大丈夫だって、積里君。今打ったバッターって野球部だし、しょうがないよ』
マウンドに立っていた結子がそう言いながら直人に近付いてくる。
『私も出来るだけ打たれないように頑張るからさ、積里君も失敗は気にしないで。苦手でもなんでもとにかく頑張っちゃおうよ!』
『あ……う、うん』
結子は笑って、肩に手を置いた。肩に伝わる手の暖かさ、すぐ近くで感じる息遣い、そして失敗した自分を責めない、エネルギーに満ちた笑顔。それらが一瞬にして直人少年を魅了した。
(平崎さん……)
ドラマティックとは言い難いごく普通の出来事だが、これがきっかけとなって直人の恋は始まったのだ。
『ナオって、好きな人いる?』
そう聞かれての答えは以前と同じだったが、そのニュアンスはわずかに違っていた。時が経つほどにその心は結子に傾いていった。
(いつか、チャンスがあれば平崎さんと……)
しかし、奥手な性格が災いし、その想いは伝えられなかった。クラスメートという関係のままで中学時代は流れ、あっという間に卒業を迎えたが、まだチャンスは終わっていない。高校になって二人の距離は急激に縮まっていった。
「平崎さん!」
「えっ、積里君?」
携帯の通話ボタンを押しかけた結子に直人は追いついた。
「どうしたの? 何か、逃げてるみたいだけど……」
「そうなのよ。なんとなくだけど、ヤバい気配がするの」
そう言って結子は背後を振り返る。直人もそれにならうが、追跡者の存在は確認できなかった。
「ヤバいって、この前の犬みたいな?」
「ズバリかも。今ジョーに連絡しようとしてたところなんだけど」
話し合いながらも足は止まらない。
「丈二君……そういえば」
「どうしたの?」
「さっき一緒に図書館に行ってたんだけど、途中で女の人を道案内するからって別れたんだ」
「女の人?」
「その道案内していった住所ってのが、確かこの近くだったような……」
一瞬だけ視界に入ったメモの記憶を引き出す。引っ越して来たばかりで何度も町の地図を見ていたことが幸いした。
「どっち?」
「たしか、向こう側だったと思う!」
珍しく直人が前に立ち、二人は丈二のもとへと向かっていく。その後を、音もなく俊とハツが追跡していく。
「おいおいおい、あのチビが合流しやがったぞ〜。しかも全然人気のないところに行きそうにねぇしよ〜ぉ」
さらにここに来て、俊にはミスがあった。丈二たちを誘導していく場所がどこなのか、みどりに聞いていなかったことだ。