第二十五話・執念
「あざー先ぱ〜い、いますか〜?」
薄暗い廊下に、男の声が響き渡る。重々しい威圧感のある、西洋風の装飾が施された廊下をズカズカと歩いて行く。
「あざー先輩?」
「……騒々しい。何の用だ」
ふと、声がして、男は立ち止まった。声が発せられたのは、たった今素通りしたばかり扉の奥らしい。
「先輩いたんスかぁ? もっと早く返事してくださいよ〜」
男は間の抜けた口調で文句を言いつつ、その扉の前に戻る。
「入りますよ」
「ああ」
ギイィ……と重厚な音をたてて扉を開けと、廊下よりも暗く、陰気な空間が男の視界に広がった。暗闇の奥に白い光が灯っており、その光に顔を照らされている人物がいた。
「先輩。まぁた、部屋まっくらにしてんスか。目ぇ悪くなりますよ?」
「……すでに十分、俺の視力は低下しきっている。ガキのころからな」
先輩と呼ばれた男は、自分の顔にかけている分厚いメガネを指さして言った。そのレンズの内側にある鋭い両眼は、白い光の発信源――コンピューターの画面に向けられたままである。
「それで、何の用だと聞いているんだ。早く答えろ、俊」
「そうそう! ちょいと、困ったことがあるんスよ〜」
刻同俊は首に下げたアクセサリーをいじりながら中の男に近寄って行く。
「前に見つけた犬に、逃げられちまいましてね」
「……あの、ハクとかいう大型犬か」
「そう! あの、でっかくて俊敏なヤツ! 名前覚えててくれてたんスか?」
「黒茶色っぽい犬のくせに、『ハク』なんて名前だからな」
「オレ、ネーミングセンス結構いいでしょ」
男の込めた皮肉にも気付かず、俊は得意げに胸を張る。
「せっかく、素質のある上玉だったのにさ。恩を忘れて逃げやがった」
「人の飼い犬をさらっておいて、何が恩義だ」
「う……それは、しょうがないっしょ。つか、あれ命令したのあざー先輩じゃないッスか!」
「その呼び方はやめろ」
男は大きく息をつき、ようやくパソコンの画面から俊へと視線を移した。
「勝手にさらってもいい、とは言っていない。飼い主を上手く言いくるめて、もらい受ければいいんだ」
「そんなかったるい……じゃなくて器用なことオレには無理ッスよ。あのババァ、人の話なんか絶対聞かないってタイプだから」
「お前もな」
再び、パソコンの方へ向き直る。
「せ、せんぱ〜い! まだ話終わってないッスよ!?」
「……」
男は無言でキーボードを操作する。一応、最後まで聞いといてはやるか、というような態度だ。
「それで、ハクが逃げ出した理由なんスけど……。たぶん、ウチの学校の生徒が関わってると思う」
「……」
「ちょっと……まぁ、ありまして、ハクにある女子を襲わせたんです。そしたら返り討ちにあって保健所送り。で、今は元の家に帰ったって……」
「何が言いたい」
「その女子の名前、調べてもらいませんか? 俺が調教したハクを返り討ちにしやがった、あの一年のクソ女に復讐したんで」
あの、猟奇的な瞳で俊は笑った。
「……顔は覚えているか?」
「そりゃもちろん。ちょっと俺好みの可愛い子だったんで」
「ストーキングをしたいのか」
「リベンジをしたいです」
「フッ」
男はかすかに笑みを浮かべる。そしてしばらくの間パソコンを操作し、画面に直人達の通う高校の生徒名簿を映しだした。
「一年の女子だな? 今画像を検索している」
「相変わらず手際がいいッスねー。情報化社会においてメチャクチャ有利な才能じゃないッスか」
「お前が言うと嫌味に聞こえる」
結子の顔が画面に映し出されるまでに、五分もかからなかった。
「……ここ?」
「そう。ここの服が安くてお洒落なのよね」
直人と結子は休日を利用してショッピングをしていた。無論、丈二と光助はいない。というよりもこの二人が直人をけしかけたのである。
「僕、服はあんまり興味ないんだけどな……」
「ひとり暮らしするんだったら、安い服屋をおさえとくのは当然でしょ」
「そ、そうだね」
直人の心臓はずっと高鳴りっぱなしだ。光助達によって仕組まれたとはいえ、結子とデートのような行動ができるのだから。
「積里君?」
「あ、ゴメン、平崎さん。ちょっと先に外出てるね」
収まらない興奮を鎮めるために、直人は結子を残して店の外に出る。
「ふ〜……。光助さんも丈二君も、明らかに僕のことからかってるよ〜。いや、嬉しいけどさ……」
ブツブツと考えごとをしていたせいか、直人の足は自然にその場をうろついている。しかし突然、その足取りが止まった。なにかにぶつかったのだ。
「……おい、ナニぶつかってきてんだ」
「え?」
考え事を中断し、恐る恐るぶつかった「なにか」を見上げる。
「謝りもしねぇつもりか? おい」
「ひ、ひぃっ!?」
それの正体は、いかにも強面の、表稼業ではないタイプの大男だった。