第二十三話・平和な男
「犬っちゅう生き物は肉体の構造上、舌を掴まれると身動きが出来ん。噛まれるのを覚悟の上で手を突っ込めば、素手でも捕まえられる」
「こんな奴に噛まれたらシャレにならないわよ」
光助は器用に糸を使い、犬の脚を縛っていく。初めのうち、犬は激しく抵抗し続けていたが、完全に脚を封じられるとおとなしくなった。
「腕に上着でもまとっておけば大事には至らんだろう」
「その上着も持ってないんだけど」
「きゃう……」
犬は力なく尻尾を振り、妙にしおらしくなっている。これが先ほど凶暴に襲いかかってきたのと同じ犬だとは思えない。
「保護団体かい抗議がきそうな格好やけん……現行犯逮捕ならしゃあないわな」
「あの、光助さんはなんでここに?」
「ケリーが教えてくれたとよ。結子が犬に襲われて非常に危険な状態だから、すぐに行って助けてやれ、と」
「え、そこまで詳しく!?」
「……までは、わからんかったが、とりあえず不穏な空気を感じたんで案内してもらった」
「にゃふ……」
そのケリーは、芝生の上に丸くなってあくびをしている。そして自分の仕事は終わった、とばかりに居眠りをはじめた。
「それで、なんでこん犬がここん来たとけ?」
「さぁ……私にもわからないわよ」
結子はハンカチで腕の止血をしながら答えた。
「あ〜あ、ヒドい目にあった……。変なバイ菌とか入ってなきゃいいけど」
「……ほ、保健室に行った方がいいんじゃない?」
直人は蚊の鳴くような声をあげる。改めて思い返すと、結子の傷の原因が自分にもあるということに気付いたからだ。自分が突然声をかけたばかりに、結子は隙をつかれたのだと。
「あ、あの……平崎さん」
「ん?」
「ごめん。僕が、その……いきなり出てきたりするから……」
まっすぐに、結子の目が見れない。
(……本当、この間から助けてもらったり、手伝うはずがお荷物になったり、僕って迷惑なヤツ……)
自分が恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、がっくりと肩を落としてうなだれてしまっている。
「や、やだぁ積里君! 何言ってるの?」
「え……」
「どっち道、私一人だけじゃもっと危なかったし。積里君は全然悪くないよ」
結子はそう言い、歯を見せて笑う。
「平崎さん……」
「助けてくれてありがとね。積里君」
直人はようやく顔をあげ、微笑む結子と目を合わせる。
『ありがとね。積里君』
その言葉が、笑顔と共に直人の心に焼きついた。
「平崎さん……」
「さぁて、おりゃあそろそろ教室ん戻ろかい」
光助がわざと大きな声で割り込んでくる。
「そん犬は保健所にでん連絡すればいいやろ。そのへんの手配はおりゃがしちょっちゃるわ」
「うん。お願い、光助」
「行くぞ、ケリー」
光助は脚の糸を緩め、犬が歩けるようにする。これ以上縛る必要がないほど犬は戦意を失くしていたのだ。もっとも、首輪代わりに巻いた糸は外さない。
ケリーも目を覚まし、その後をついて行く。
「……変な事件だね。犬が凶暴になったりおとなしくなったり……」
「そうね。……今朝の二年生――」
結子はあごに手を当て、今朝の記憶を引き出す。
「たしか、コクドウとか言ったっけ? アイツが絡んでいるんでしょうね、やっぱり」
「あ、あの人が犬をけしかけたっていうの?」
「そう考えるのが自然でしょ」
刻同俊――。あの男の奇妙な眼差しを思い出し、直人は再び背筋を震わせた。
「でも何のために?」
「そこまでは知らないわよ。後でジョーや光助たちと相談しなきゃ」
結子は校舎の外にかけられている時計を確認する。時刻はかなり授業時間に食い込んでいた。
「今からじゃ授業にも出られないわね。保健室いこっと」
「あ。そう言えば僕、丈二君のタオル取って来るように頼まれてたんだった」
「そんじゃ、こっそりタオル取って戻ってきてくれる? 一緒に保健室行こうよ」
結子から意外な提案が出た。
「えっ僕はべつに怪我してないけど……」
「ただ授業をサボったと思われるよりも、怪我した女の子を保健室に連れて行ったってことにした方がマシでしょ」
「それも……そう、かも」
「凶暴な野犬から女子を助けたって言ったら、ヒーローっぽいじゃん」
などと少し大袈裟に表現してみたりする。
「そこまではないけど……。じゃあ、すぐに取ってくるから」
「ったく、ジョーのやつもタオルぐらい自分で取りに来いっての。……そーいやアイツ、今回なにもしてないわね」
「いっくし!」
「どうした立国。風邪か?」
「いえ……なんでもないっす」
わざとおどけて教師に手を振る。
(誰かウワサしてんのか? っつーか、直人はなんで戻ってこないんだろ……。タオル取ってくるだけなのに)
なにが起こったのかも知らず、平和に授業を受ける丈二であった。