第二十二話・助っ人?
「積里君……っ!?」
「ひ、平崎さん! 危ないっ!」
「グァアウッ!」
一瞬、結子が視線をそらした隙に、犬が襲い掛かってきた。
「このっ……ッ!」
アゴが割れんばかりに大きく開かれた犬の口から、鋭い牙がのぞく。結子は運動部で鍛えた反射神経のおかげでかろうじて噛みつきを回避できたが、その牙の切っ先が、わずかに腕をかすめた。
「いっつ……」
じん、と焼けるような痛みが結子の腕に走る。傷自体は小さいが、そこからじわじわとしみ出てくる鮮血が、強烈な痛みを自覚させていた。
(なによ、こんな傷なんて、部活やってた頃はしょっちゅうだったじゃない! この程度で痛がってる場合じゃないッ!)
「平崎さん、この犬は……」
状況を飲み込みきれていない直人をよそに、今の衝撃で落とした石を探す。だが、その時間は与えられなかった。
「ガァ!」
間髪をいれずに再び犬の口が開かれる。そう結子が認識したと同時に、犬の体は宙に飛んでいた。
(距離が近すぎる!)
脳内のアドレナリンが高まったせいか、牙の近づいてくる様子が、まるでスローモションのようにゆっくりと感じられる。自分の体を動かす事も出来ないまま、獣の臭いを発する口が近付くのを待つだけになっていた。
(ヤバ……)
視界の大部分が、赤黒い闇に覆われる。いや、完全な闇ではない。白い突起物が半円形状に並んでいる。その鋭い突起物がすぐ目の前に迫って来る。その時――。
「ギャウッ!」
急激に視界が開けた。一瞬、結子はなにが起こったのかわからず、茫然と立ち尽くす。
「グア、ギャアァウ!」
「うっ……こ、このっ」
犬がうつぶせに地面に倒れている。その背中に直人がしがみつき、必死に抑えつけていた。
「積里君!」
「ひらっ、平崎さん……逃げてっ!」
全身の体重をかけて犬の動きを封じる。凶暴なエネルギーを地面に押さえつけながらも、直人の脳内は妙に静かだった。
(な、なんで僕、こんなことになってるの? 確か、タオルを取りに来ただけなのに……)
「グアゥ!」
(わわっ、暴れないでよ〜! お願いだから、落ち着いて〜!)
当然ながら、犬がその思考に従うわけがない。ますます激しく抵抗される。
(お願いお願いお願いっ! もう、やめて〜!)
どうやら、落ち着いていたわけではなく、衝撃が大きすぎて恐怖心がマヒしていただけのようだ。今ごろになって恐怖を感じ始めたらしく、その目にうっすらと涙が浮かんで来ている。
「ガアッ!」
「うわ!」
ついに、小柄な直人の体が振り落とされた。犬は素早く直人の腕から逃れ、体勢を立て直して結子を睨みつける。
「グルァアアアァァァッ!」
全身の毛を逆立て、怒りの様相を示している。四本の足がガッシリと地面を掴み、最後の一撃を放つべく牙を剥く。
「積里君、大丈夫?」
「う、うん……。今のところは」
本当に、「今のところは」である。次の攻撃に耐えられる保証はない。しかも、仮にしのいだところで反撃するチャンスがないのだ。
「……ボールさえあれば、アイツがどんなに動いても当てられるんだけど」
「も、持ってないよ……。ボールなんて」
動けない。どちらも、視線を犬に固定したまま動けない。再び沈黙があたりを包んだ。
「ガアァァァアアアァ!」
後ろ脚が、力強く大地を蹴りあげた。茶色の塊が自らの発した声と共に飛んで行く。その声の大きさゆえに、同時に発された別の声を、その場の誰もが聞き逃していた。
「ニャウッ!」
鋭く、高い声だ。そして同時に、白い塊が犬へ飛びかかった。
「ガァッ!?」
「け、ケリー!?」
いつの間にか現れていたケリーが、犬の背に飛び乗っていた。バランスを崩し、犬の突進はまたも不発に終わった。
「ガル……」
「にゃ!?」
だが、体重の軽いケリーは簡単に払い落されてしまう。ケリーは地面に落ちる直前に素早く体の向きをかえて無事着地するが、それ以上の攻撃をする意思はないらしくクルッと犬へ背を向けた。
「にゃっ!」
そのまま一目散に、ケリーは逃げて行く。
「ちょっ、なにしに来たの!?」
思わず結子は叫んだ。が、そのケリーが逃げて行く方向を見た時、大きく目を見開いた。
「よーしよし。ようやったな、ケリー」
「にゃう」
不敵な笑みを浮かべ、両手でケリーの体を抱き上げる人物――。
「光助さん!」
「光助!」
直人と結子が同時に声をあげる。特に結子は、その顔に安堵の表情を浮かべていた。
(やった……。光助なら、コイツを捕まえるのに適してる!)
「グアアアアッ!」
何度も攻撃を妨害されて怒りが頂点に達した犬は、光助の方を向き直って地面を蹴りあげる。しかし、一度地面を離れた後ろ脚は、宙に浮いたままになった。
「ガ……グア?」
よくよく見ると、その脚に糸が絡んでいる。先日、落下する丈二を受け止めたのと同じ透明の糸だ。
「ご苦労、ケリー。結子と坊主もよう頑張ったな」
光助は肩にケリーを乗せ、その手に掴んだ糸を引っ張った。