第十九話・刻同 俊
「俺の名前は刻同 俊。アンタ達は?」
男は片手で犬をなでながらそう名乗った。結子は一瞬、言葉を詰まらせる。
「おいおい、先輩の俺が先に名乗ったんだぜ? そっちも名乗り返すのが常識ってもんだろうがよ」
「……私達が聞きたいのは、その犬がアナタの飼い犬なのかってことだけ。名前はどうでもいいわ」
相手の雰囲気にのまれないよう、わざと口調を強める。具体的にハッキリとはしないが、正体不明の不気味さがこの男にはあった。
「さっき言ったろ? こいつは俺に従順で、言うことをなんでも聞いてくれるやつだって。たとえば……」
男――俊の視線が、震える直人を捉える。
「そこの一年ボーズの足に、思いっきり噛みつかせたりとか……な」
一瞬、猟奇的に歪んだ笑みを浮かべ、俊は犬の頭から手を放す。
「ワンッ!」
「うわ……っ!」
犬は、その場から動かずに吠えただけなのだが、直人には、今にも飛びかかって来るように感じられた。
「クク……ははは」
「……何が、したいのよ」
結子はひるまない。背中に隠し持った野球ボールをしっかりと握り直して身構える。
「別に。つーか、そっちの方から声かけて来たんだろ? 用が済んだんならとっとと学校行けばぁ?」
「……」
結子はそれ以上何も言わず、うなり声をあげる犬を観察する。
(――間違いないわね)
やがて、俊に見えないようにボールをバックにしまい、直人の方を振り向く。
「行こう。積里君」
「えっ」
「いいから」
そのまま、空き地の外へ出てようと歩き出した。直人も後に続く。
「あれ、本当に行っちゃうんだ。可愛い女の子に声かけられて、ちょっと嬉しかったんだけどな」
「それはどうも」
俊の方を見ずに言い返し、半ば早足で空き地を去って行った。
「ハク。お前、あの女になにかされたのか? 微妙に怯えてるぞ」
「グルル……」
結子たちの後ろ姿を見送り、俊は再び犬の頭に手を乗せる。
「なにかされたのか? 嫌なこと、痛いことを」
「ギャウゥ……」
問いかけられ、犬は頭を低く伏せた。
「そうか。あの女に痛いことされたのかぁ」
さきほどの猟奇的な輝きが、俊の目に戻ってきた。
「痛いことされて、そのままでいいのか? 自分に嫌なことをするやつには……」
犬の耳に口を近づけ、低い声でハッキリと言い聞かせる。
「し・か・え・し。しないとなあああぁぁ」
その声は、犬の脳内へ深く刻み込まれた。
「ひ、平崎さん。結局、あの犬は関係なかったの?」
「アイツ……。一度もあの犬を『自分の飼い犬だ』って言わなかったわね」
結子の表情は真剣そのものだ。
「ボスの話によると、目的の犬は左の後ろ脚に怪我の跡があるらしいの。この間はハッキリと見えなかったけど、今確認したらやっぱりあった」
「じゃあ、今の犬がっ!?」
「たぶんね」
歩きながら、結子は携帯を取り出す。
「ただ気になるのは、性格が全然違うってこと。大人しくて人見知りするって聞いてたんだけど……」
「あ、もしかして、さっきの人が本当の飼い主だとか!」
「だとしたら、普通にそう言えば済むじゃない。それに依頼者は一人暮らしの女性らしいわ」
光助に電話をかける。数回コールした後に、相手が出た。
『どんげした。見つかったけ?』
「うん。ほぼ間違いない。でも、やっぱり性格が違うのよ」
『本当に、そいつに間違いねぇけ?』
「ケリーに協力してもらって町中探したけど、該当するような犬は他にいなかったわ」
『ふむ。なら可能性は高いな。捕まえたんか?』
「それが、ちょっと面倒なことになってんのよ」
結子が光助に説明している間に、直人は同じことを丈二へ電話することにする。しばらくの間、二人は別々の相手に電話しながら歩くことになった。
「……ってことなんだけど」
『ふ〜ん。妙な男ねぇ……』
丈二は少し考え込むが、突然声を軽くして話題を変えた。
『ところでさ、直人』
「なに?」
『今、結子と一緒にいるんだよな』
「そうだけど……」
電話越しに、丈二の小さな笑い声が聞こえてくる。直人はそれを聞いて嫌な予感がした。
「そ、それで、一緒にいるから、何?」
『……よかったな。ハハハ』
「じょ、丈二君まで〜ッ!?」
「? 積里君、どうしたの」
いつの間にか電話を終えていた結子が、直人のことを不思議そうに見つめる。
『頑張れよ〜』
「な、ナニを!?」
「ねー積里君ってば。なんで顔が赤くなってんの?」
しばし、犬の問題を忘れる直人であった。