第十七話・九断 光助
『光ちゃん、そしたらウチは出かけて来ます』
家政婦の陽子が一階から声をかけてくる。高校に入学したばかりの光助はため息をつきながら、わざわざ階段を降りて行く。
『ちゃん付けはやめぇて言いよるやろ? もうガキやねっちゃかい』
『なん言いよっと。ウチかい見りゃあまだまだ子どもよ』
平均よりも一回り、いや二回りは大きな体をゆするように、陽子は笑う。
『高校入ってん、光ちゃんなんて呼ばれとったらハジぃわ。ただでさえクラスん内で浮いちょるとに』
『言葉ん訛りをウチんせいにしてんダメやかいね。光ちゃんが自分で、勝手にウチのマネをしだしたこつ、忘れたんね?』
光助は母親を幼くして亡くした。父親もあまり家には居つかず、家政婦の陽子に育てられてきたのだ。
『ヨーコがこげなしゃべり方しょっかい、自然に刷り込まれたっちゃ』
わざと嫌がるような表情で反論するが、それも陽子は笑ってスルーする。
『あらあら、はよ行かんと遅刻すっわ。そんじゃ、もう行くかいね』
ドアの向こうに陽子の大きな体が消えるのを見送り、光助は二階へ引き上げる。
『ったく、ガキん頃ん話ばっかし持ち出すっちゃかい……』
自分の部屋に戻ると、開け放した窓から一匹の猫――ケリーが入ってくるところだった。
『おう、ケリー。どげんした? メシにゃあまだちっと早えど?』
『にゃぁ……』
ケリーは窓の桟に立ったまま、光助の方をじっと見ている。
『外んなんかおっとけ?』
窓から外を覗く光助の目に、一台の車が映った。この穏やかな街並みに似合わない、高級な乗用車だ。
『……よだきぃな。帰ってきやったけ』
眉をひそめ、素早く窓を閉める。
『ケリー。アレが来る前ん、家でっぞ』
『にゃあ』
一人と一匹は階段を駆け下り、裏口から家の外へ出る。「アレ」と呼ばれた男が玄関のドアを開けたのはその直後だった。
今から二年前の、春の日の出来事である。
「ケリーに猫道を案内してもらったんだけど、どこにもいなかったのよね」
結子はハンカチで汗を拭きながら報告する。この部屋は日射しがいい割には通気性が悪く、室温が少し高くなってる。
「見落としたんじゃねぇの?」
「ううん。似たような奴ならいたんだけどさ、話に聞いてたのと全然性格が違うの」
「ボスに依頼した人物が描いたイメージと、おりゃらが描いたイメージが違うとるかもしらんな。もっかい確認してみっけ」
などと言いながら、光助は受付カウンターに置かれた備品のメモ用紙を指さす。
「にゃ」
ケリーが素早くカウンターへ走って飛び乗り、メモ用紙を一枚取って戻ってくる。一切言葉を発せずとも、光助とケリーの間ではコミュニケーションが取れているようだ。
「あ、あの〜」
直人が声をかける。
「ねこみち、ってなんですか?」
「猫道ってのは、そのまんま、猫が通る道のことよ」
猫――特にノラ猫は、人間のつくった仕切りを無視して歩く。普通の人間なら通らないような細い路地や、垣根に開いた穴などを自由に通り抜けることで、目的の場所へ最短距離で向かったり人の入らない空間へ出入りすることが出来るのだ。その時に通る抜け道が猫道と呼ばれるのである。
「あ、そういえば僕も子どものころ、学校帰りに近道とか探したなぁ……。人の家の庭を走り抜けたりとか……」
「あーやっぱり直人もやった? あれは男の子ならみんなやることだよな。塀の上歩いて怒られたりとか、なぁ!」
「誰が一番便利な近道を見つけられるか、競争とかした?」
「したした!」
丈二も目を輝かせる。
「そこ、少年時代に戻らない。てか高1ってまだ子どもだし」
結子が呆れた声でツッコミを入れる。
「本物の猫が使う猫道はそげなもんやねぇわ。極端な例やと、車で一時間かかる距離を二十分で着けっぞ」
「えっ徒歩で!?」
「にゃあ」
ケリーが得意そうに胸を張る……ことはできないので、代わりに光助が胸を張った。
「それで……その猫道を使って、何を探してるの?」
「犬よ」
「犬?」
「茶色の大型犬が逃げ出して、困っているって相談があったんだって。それで私達が探してあげようってことになったの」
大型犬と言えば、直人にも心当たりがある。
「あの、昨日ここの前であった凶暴な犬みたいなやつ?」
「外見はそうなんだけど……。話によると、一か所にじっとしてるのが好きな大人しい性格で、人に襲いかかることなんてないってさ」
なら、違う。直人は記憶を探ってみるが、該当するような犬は他に見当たらなかった。
「ケリーの知ってる猫道を通って、町中の路地裏なんかを見て回ったんだけど……」
「やっぱし、もう一遍ボスに確認するのがよかろう」
「にぃ」
賛成、と言うかのようにケリーは両目をつむった。