第一話・積里 直人
『もしもし。あのぉ……ここ、相談室で合ってますか?』
その中年女性は、受話器の向こうにいる人物におずおずと話しかけた。
『はい。悩み相談室です』
答えたのは、若い男の声だった。しかし、その声からは若々しさが感じられず、代わりに”渋み”にも似た重さがあった。
『あの……悩みがあって電話したんですけど……その……悩みの内容って、どんな内容でもいいんですか?』
『ええ。どのような悩みでも結構です』
『お金は無料、とチラシに書いてありましたけど……』
『その通りです。あくまでもボランティアですので、相談料などは一切必要ありません』
しばらくためらった後、女性は決心して己が悩みを打ち明けだした。
『実は……』
「うん、わかってるよ。それじゃあバイバイ」
買ったばかりの携帯電話を閉じて、積里 直人はふっと息をついた。高校に入学すると同時に一人暮らしを始めたおかげで、毎日のように母親から電話がかかってくる。
「ナオー、電話終わったかぁ?」
一緒に帰る約束をしていた友人が声をかけてくる。母親との会話を友達に聞かれたくない、という思春期特有の想いを汲んで少し離れたところで待機していたのだ。
「終わったよー。待たせてゴメンね」
直人は急いで友人のもとへ走る。平均より少し背が低く、しゃれっ気のない短髪や大きな丸い目のせいで中学生のような外見だ。(実際につい先月までは中学生だったのだが、同年代と比べると幼く見える)
「おばさん、なんだって?」
「ちゃんとゴミ出しに行ってるかとか、カップ麺ばかり食べてないかとか……いつもと同じことをしつっこく言われた」
「ハハハ。そりゃあ当然だろ、親として」
小学校からの直人の親友である栄 和仁は笑いながら髪をかきあげる。こちらは背が高くスラッとしており、中学時代はバスケ部のエースとして活躍していた。
「かず君は、高校でもバスケやるの?」
「もちろんだろ。それで推薦取ったんだから。……ナオ、お前もバスケ入るか?」
「む、ムリだよっ!」
「ハハハ。冗談だよ。高校からいきなり始めてどうにかなるもんじゃねぇからな」
直人は比較的運動が苦手なタイプであった。
「バスケって難しいんだよねぇ……。色んな事やらなきゃなんないんだもん」
「そうそう。一応ポジションによって役割はあるけどよ、ボールを奪う、相手のガードをすりぬける、狙ったところにパスを出す……色んな技術の才能が必要だからな」
「才能、かぁ……」
僕の才能って、なんだろう? 直人はそう考えながら歩いた。が、ほんの数歩でその思考は中断された。ある人物の姿を捉えたからだ。
二人よりいくらか前を歩いている、同級生の女子。中学から同じクラスだったので名前は知っている。平崎 結子だ。中学2年まではソフト部のエースピッチャーとして活躍していたが、秋大会を期になぜか突然退部していた。それまでは短くしていた髪も、今は背中の半分を覆うほどに伸びている。
(一人で帰ってるのかな? なにか探し物してるみたいだけど……)
「……オ、ナオ、聞いてるか?」
「え、あっゴメン、聞いてなかった……」
和仁に声をかけられ、直人は結子から視線を外した。
「オレ、今日バイトあるからこっちの道行くな。そんじゃまた明日」
「あ、うん。バイバイ」
和仁が角の向こうに消えるのを見送り、直人は視線を戻した。
「……あれ?」
いつの間にか、結子はいなくなっていた。道は直線で、右は河原、左は人の身長ほどの高さがある石垣になっている。
「どこ行ったんだろ……? まさか、この石垣を登って上に行ったってことはないよね」
しばらくキョロキョロとあたりを見回すが、どこにも気配はない。やがて、後ろの方から他の生徒達がやってきたため探索を打ち切って再び歩きだした。
「あ、しまった」
アパートのすぐ近くまで帰って来たとき、直人は誰にともなくつぶやいた。
「図書館の場所、確認しなきゃならないんだった」
直人は、いわゆる”本の虫”というやつである。ヒマさえあれば本を開き、時間の許す限り読み続ける。そのため無料で本が読める図書館は生活の上で欠かせない存在だった。しばらく考えた後、直人はアパートへは帰らず来た道を戻り始めた。図書館へ向かうコースだ。
「えっと……こっち、だよね」
簡易版の地図を見ながら図書館を目指す。直人は方向音痴ではないが、ここ数年で急激に都市発展してきたこの町は道路や建物が複雑に入り組んでおり、結局道のりにして20分の所を38分かけてようやく目的の建物を発見できた。
「やっと見つけたぁ。ちょっと中のぞいてみようかな」
と、目的地へ一歩踏み出した時――。
「ワンッ!」
「うわっ!?」
犬だ。茶色い毛の、獰猛な顔つきをした大型犬が建物の陰から現れた。
「グルルルル……」
犬は直人を見据え、低く唸り声をあげる。下手に近付くと飛びかかってきそうだ。
「な、なんだよ。なにもしないからサ。大人しくしててよぉ……」
視線を犬に固定し、出来るだけ静かに足をあげて前進する。
一歩、二歩……。三歩目で、犬が動いた。
「ガルルルルッ!」
「うわっうわああ!」
ガッシリとした4つ足がアスファルトを蹴り、牙をむいて直人を襲った。