第八話
「お、終わりましたけど」
〝残滓〟が消滅するのを確認した綾香は、黒川に声を掛ける。
「じゃ、こっちも解除すっか。俺の近くに来てくれ」
「え?」
「そこだと、少し離れてる。誰かに見られると、あんたはまずいんだろ?」
確かに、〝残滓〟の発生した場所と、今黒川が居る場所とは、少し離れている。
綾香が”闇影忘却”をかけた場所は、ただ、そこに居た黒川の場所にかけただけであり、〝残滓〟との位置関係を考えてかけた場所では無かった。
「見られるって、どう言う事です?」
「これを解除する時、俺から離れてるとさ、物とかならまだ良いんだけどさ、人とかだと、突然そこに現れたように見えるからな。でも今、俺がいるここは、あんたの魔術が効いてるだろ?」
なるほど、と綾香は納得する。
綾香が使う、”闇影忘却”は、あくまで人の気を逸らすだけの物である。
それは効果が切れる所を見られていたとしても、見た人は、気が付かなかった、と思うだけである。
綾香が黒川の側に行き、そして、黒川が、パチっと指を鳴らすと、ふわりと風が吹いた。
「解除したぞ」
「……え? 解除って、そんなやり方なの……?」
「俺はな。で、こっちのこれは、どう解除するんだ?」
「あ、えーっと。我その力解放す。”解除”」
見た目は何も起こらないが、綾香には、解除した事が分かる。
「ふーん。解除するにも詠唱いるんだ」
「……うっ!」
痛いところを突かれた綾香。
解除には、ある程度魔術師として熟練していれば、詠唱は破棄できる。
だが、綾香はまだまだ未熟であり、詠唱が必要であった。
「これはっ……ほ、本当は要らないんですっ。今日は、たまたま……」
「ま、いいけど」
「……くぅ」
黒川は魔術師では無いと言うが、魔術の事は少し知っているようであり、先程もそれと思わしき術を行使した。
だから、綾香は術を解除する為に、自分が詠唱した事で、魔術師として未熟な部分を見せてしまったと、恥ずかしくなっていた。
「つ、次、行くわっ!」
綾香は、逃げるようにその場を去る。
「ん? どうしたんだ? えらく急ぐんだな」
そう言いながら、黒川もその後を付いていく。
「まだ、付いて来るのっ?」
「まだ、聞き足りん」
未だ付いてくる黒川に対し、少し苛立ちを感じる綾香。
言葉も少し乱暴になっていた。
「何をっ?」
「さっきの〝残滓〟とやらの事をだ」
「くぅう、この〝残滓〟の事はっ、間渡家の領分なのっ!」
「そうなのか? んじゃ、他のやつが手を出したらまずいのか?」
そんな話は聞いていない綾香。
そもそも〝残滓〟を消滅させる事が、間渡家の領分だという決まりも無い。怒りに任せて、半端な事を言っただけである。
「そ、それは……うーっ……」
前を歩きつつ、綾香は言葉に詰まる。
「違うんだな……」
「で、でも、あなたは魔術師じゃないんでしょっ?」
「そうだ、と俺自身は思っている」
綾香の怒りは感じていないのか、気にしていないのか、黒川は、淡々と答えていた。
「で、〝残滓〟とやらなんだが、この前は、なんか龍の顔だったよな」
「あっ。そ、それは……」
それは、綾香にもまだよく分かっていない事である。
〝残滓〟が、肥大化を続けると、何かの形を模す。
これまで二度、〝残滓〟が肥大化を続け、形を模した物は、よく分からない小さな動物であった。
だが、それも霧状であり、そしてあそこまで大きくなかった。
しかもあの時は、霧状であった物が、固体化していた。
「〝残滓〟が、固体化するだなんて、聞いてないんだもんっ」
「誰から聞いたんだ?」
「お父さんから、だけど……」
「あんたの父親は?」
「……そこ、聞く? 今、この街には、魔術師は私だけなの」
「……そうか……悪かった」
今まで前を向いて歩いていた綾香は、その言葉を聞いて、後ろから付いてくる黒川を、ちらっと見た。
今、綾香の父が不在なのを聞いて、黒川は謝った。
どうやら、綾香の父が亡くなったとでも思ったのだろう。
実際、綾香の父は音信不通ではあるが、綾香も、そして綾香の母である沙智子も、父が亡くなったとは思っていない。
いつか必ず戻ってくると、信じている。
「で、話を戻すが、じゃあ、あんたは、あんな風な固体化は初めてだったのか」
「う。そうだけど……」
「そうか……。もしかしたら……、でも、そうだと……面倒だなこれ……あいつめ」
黒川は、ぶつぶつ呟いている。
それを聞きつつ、綾香も自分が聞きたい事を全然聞いていない事に気が付く。
「そう言えば、私まだ、全然聞いてなかった。さっきのあれは、魔術……?」
「ん? ああ、さっきの術か。……魔術、とは言われていなかったなぁ。こっちで言葉だと、確か、”聖光法術”ってなるかな。あっちじゃ、”聖光法術”って呼んでたけど」
「せいこぅほじゅつ……? あんすみ……あど?」
綾香は、名前もよく分からなければ、あっちとか、こっちとか言われても、何の事だかさっぱりである。
それを察したのか、黒川は前の言葉をもう一度言う。
「言ったよな。俺は別の世界から来たってさ。そっちの術って事だ」
「あ、えっ? じゃあやっぱり、それ本当……?」
「ああ、本当だ」
平然と黒川は言う。
普通なら、そんな事を言われても、成程、などと納得はしない。
だが綾香も又普通ではない、〝魔術師〟なのである。
父親から少し聞いていた。
平行世界は存在する、と。
パラレルワールド、とも、IFの世界とも、言われる世界。
そこには、この世界では考えられないような、大魔導師も存在すると聞いている。
そしてかつては、その世界を渡り歩く術を持った魔術師も存在していたと聞いている。
その魔術師が、この世界の魔術師かどうかは、定かでは無いらしい。
「じゃあ、黒川君は、異世界……の人?」
「うーん、そう言うと、また違うような……でも、まぁ、それでもいいや」
適当に答えを返されたので、綾香は口を尖らせて、更に問う。
「違うって、どう違うの? じゃあ魔術師じゃ無いって、魔力を知ってるのって――」
そう言いかけた綾香に、黒川が、指を向けて、言ってくる。
「待った。それ、光ってるけど、いいのか?」
「え? ……あっ! で、出ちゃってるっ」
羅針盤が、〝残滓〟の存在を示していた。
綾香は、質問の方に気が取られ、目が行っていなかった。
「えーっと、こっち。……うわっ、うーっ、また面倒っ」
「今度は何が?」
「うーっ、今、出てる場所、この先っぽいんだもん……」
綾香が見遣るその先は、諫見高校の柵を隔てた先であった。
今、綾香と黒川が居る場所は、諫見高校の、外側の道である。
そこは車は通らない。
人と、あとは自転車だけが通るような、散策道である。
そして、柵の前には小さな川もある。
「飛ぶ魔術とか無いのか?」
「……出来ないもん……」
ある事はあるらしい。
びゅんびゅんと、自由に空を飛べると言う訳では無いのだが、一瞬体を軽くする魔術がある事は、父から聞いていた。
しかし綾香は使えない。使い方も教わっていない。
「はぁ……回って、裏門から、こっそり入るしか無いかなぁ」
今まで、校内で〝残滓〟が顕現した事は、もちろんある。
だが、学校がやっている間なら未だしも、今は既に閉まっている。
そして、裏門まで少し距離がある場所である。
正門は近いが、綾香はそこはあまり使いたくない。
単に人通りが裏門より多いので、また魔術を行使しなければならないからである。
「俺、やろうか?」
「……えっ」
「”聖光法術”で、足場なら作れるかもしれんが」
(そうだ。この人、展望公園から飛び降りてたっけ……)
「どうする?」
「……うー、それって、どんな術?」
綾香が聞くと、黒川は、「ああ」、と返事をして、人差し指で、宙に円を描く。
すると、そこに綾香が見ても、分かる物ができた。
「ま、魔法陣……」
魔法陣は、結界を作る際などに、よく用いられる。
また、複雑な術を行使する際にも、術式の補佐として、準備をして使う事もある。
しかし、綾香は魔法陣は分かっても、描く事は出来ない。
だが、一つだけ綾香も魔法陣が入った物を使っている。
それが、今綾香の手にある、羅針盤である。
そして、黒川が今作った魔法陣は、綾香が見た事のある魔法陣と比べても、かなり複雑そうな物だった
。
「魔法陣とは言わんな。さっきも言ったが、これは”聖光法術式円陣”ってやつだ」
「……名前、長い……」
「こっちの言葉に無理やり当てはめたから、そうなる」
「えと、それでどうするの?」
「こうする」
黒川は、その青白く光る丸い法陣を、宙へ放り投げる。
すると、その法陣は、平起きされた状態で宙に止まった。
「えーっと……?」
「これ、乗れるけど」
「乗る? で、でも、それでも届かないし……」
「だから、こうする」
そして、黒川は、更に沢山の法陣をぽんぽん描いて、ぽいぽい投げ続けた。
綾香もようやく分かった。
これは、魔法陣、いや、聖光法術式円陣で作った、階段状の橋である。
青白く光った、それは、学校の柵の向こうまで続いていた。
「わっ、これなら簡単に向こうにいけそう」
「だろ?」
「……ちなみに、これ本当はなんて呼ぶの?」
「”聖光法術式円陣”だ」
「そっちの方が呼びやすいっ」
そして、今度は黒川が、先導をしようとした所で、綾香は気になってそれを止めた。
「ちょ、ちょっと待って。それ、もし途中で人に見られたら……」
「ん? ああ、うん。傍から見れば、宙に浮いているように見えるな」
「じゃあ、まずいんじゃ無いの?」
「ささっと行ってしまえば大丈夫だろ。ここ人通りも無いし」
「う、うーん……」
言葉通り、それを足場にさっと学校に入った黒川。
綾香もそれに続こうと、その”聖光法術式円陣”の階段の一段目を踏んでみる。
どうやら、綾香もちゃんと乗ることができそうである。
(と、途中で落ちないようにしないと……)
そして、恐々としながらも、綾香も無事それを渡りきったのだった。