第六話
教室に戻り、午後の授業が始まった。
しかし綾香は、その間もずっと後ろの黒川が気になっていた。
そして、この何とももやもやする気持ちが、この男のせいであると感じていた。
(こ、この人のせいで、私の平穏な毎日がっ)
自分も人には言えない事情を持つ綾香であるのに、何故か怒りを感じる。
そして、授業が終わり、放課後になり、部活に行く時間になった。
そこにこっそりと、隣の絵理が、話しかけてくる。
「綾ちゃん、ねえねえ」
「どうしたの? えっちゃん」
徐に、絵理は耳元で、綾香に言う。
「もしかして~、一目惚れとか? 黒川君に」
「…………へっ!? な、何がっ? え、違うよっ」
まったく違う、と思いながら、綾香は否定する。
「そかなー? なーんか意識してない?」
「そ、それは、ほ、ほら、前にちょっと合ったって」
「あれ? 見た事があったって言ってなかった?」
「はぅ! あ、ほら、部活行かないとっ」
絵理は、こういう事には鼻が利く。だが、それは間違いであると、綾香は分かっている。
「なあ、間渡、弓道場まで連れてってくれよ」
遠くから、黒川の声が聞こえる。
(もうっ、一人で行ってよぅ)
「ほらー、教えてあげなよー。で、後から聞かせてね? あ、黒川くーん! 綾ちゃん、今行くってー!」
「だから、違うって……うーっ」
黒川は、教室の出入り口付近で、綾香を待っているようだった。
同じ弓道部に入るという事なら、今ではこのクラスでは、唯一となった部員の、綾香が教えるしか無いのは分かる。
綾香は、渋々黒川を弓道場まで連れて行くことにした。
「はぁ……こっちです」
「ああ、頼む」
そして綾香は、黒川を下駄箱の所まで連れて行きながら嘆く。
「……あなたのせいで、勘違いされました」
「ん? 何が?」
どうやら黒川は、気付いていないし、気にもしていないようであった。
「はぁ……少し、普通の話をしましょう」
綾香は、気を取り直して、別の話をすることにした。
「ああ、今はその方が助かる」
黒川も、それに同意する。
「……じゃあ、あなたは、何故弓道部に?」
「いや、それは言っただろ? 前にやってたからだよ」
「本当ですか?」
「そこは本当だ」
(そこは? ってことは……)
やはり、この黒川は、色々嘘を付いているようである。
だが、綾香には、正直に話してくれるようでもある。
「でも、弓道部に入っても、すぐには弓は引けませんよ?」
「知ってる。でも実績があれば、すぐに射場には立てるはずだけど」
「部長厳しいですから。射法が認められなければ、延々と巻藁です」
「ゴム弓は懐かしいな。やっぱそこからかな?」
どうやら、黒川が弓道の事を知っているのは、本当のようである。
「そうだと思います。それで、黒川君は、弓とか、矢とか、かけとか、持ってるんですか?」
「いや、今は無い。最初は借りるしか無いかな」
「かけは、貸してもらえないはずなので、買うしかないです」
「ふーん」
話をしていると、弓道場に着いた。
しかし、すぐに練習が始まるわけでは無い。
道場の手入れから始まり、安土を整備し、それから練習を行う。
的は、前日に終わり前に下級生が作る。
「あら、誰、その子」
「あ、部長。男子の入部希望者です」
ここの弓道部の女子の部長、緑菜穂が、こちらに気が付き綾香に聞いて来る。
才色兼備。
彼女の為に、その言葉があるような、女性であった。
この前の中間模試でも、この高校で、総合点数が3位だったらしい。
長身で、セミロングの黒髪を揺らしている彼女の手には弓がある。
彼女が着ている弓道衣は、そんな彼女を更に引き立てていた。
「ああ、そうなの? それは助かるわね。部長は……」
その菜穂は、弓道場の中に行き、男子の部長を探す。
ここの学校の弓道部は、射が認められないうちは、道場に入る事すら許されない。
それだけ、道場は神聖な場所なのである。
「同じなんだな……」
「え?」
「いや、別に」
弓道場を見ながら、黒川が呟いていた。
(同じ……? どういう事なんだろ)
そこに、男子部長の、小林真也がやって来た。
「お前が入部希望者か!? この時期に珍しいな!」
「あ、この人、今日転校してきたんです」
綾香は、黒川の事を説明する。そして説明しながら、何故私が、とも思う。
この小林は、ここの弓道部の男子部長である。そして、代々なのか、男子部長が、ここの弓道部を女子もまとめて面倒を見る事になっていた。
小柄な部長であり、とても上級生には見えないような容姿なのだが、その小さな体の何処から出るのだろう、と思うような、威圧感のある大きな声を持っている。
そしてその幼い顔立ちからは、凡その検討もつかない性格をしていた。
いまどき珍しく、上下関係にも大事にしている人物であり、言葉遣いからマナー等までも叱られる事も多々あった。
だが、それは自分に対してでもあり、厳しい反面、ちゃんと努力すると、それはそれで、認めてくれる。
そして、その小林に認められないと、道場にすら入れてもらえない。
「黒川彰人です。今日転校してきました。弓道は、前にもやってた事があります。ですので、ここでも弓道をしたいです。今日から、よろしくお願いします」
黒川は、しっかりと挨拶をした。
綾香は、何故だか安堵してしまった。
ここで変な挨拶をするような人だと、その時点で小林は『お前みたいなやつはいらん!』と追い返す事もあったからである。
そして、小林はその日は不機嫌になる。
黒川の挨拶を聞いた小林は、それには、納得したようである。
「前やってたのか。じゃあ、まず玄関の掃除しろ。後で皆に紹介するぞ」
とりあえず、第一関門は通過した黒川であった。
その後、綾香は黒川と別れ、道場の掃除をした。
綾香は、今は認められ、道場に入る事が出来る。
道場に入る前、神棚に手を合わせてから、一礼して入る。
そして、道場の清掃をし、練習に移った。
まずは基礎体力作り、そして巻藁での射の訓練。そして、最後に少しだけ道場で的に向かわせてもらえる。
基本、部活の最初から、道場で的に向かえるのは、二年生以上である。
もちろん基礎体力作りもしているが、多くの時間を道場で練習できる。
しかしほとんどの一年生は違う。
練習の半分以上は基礎体力作り、見取り稽古、そして、矢取りなどの雑用をやらされる。
しかし女子はともかく、男子は部員も少ない。
この小林の厳しさもあるのだろうが、この高校の弓道部の男子は、とても少ない人数であった。
(初めは、もっと居たんだけどなぁ……)
入って一ヶ月程度で、半分以上が辞めていった。
その期間では、弓にすら触らせてもらえない。
ゴム弓と言う、簡易的な練習器具で、射法を練習し、それを小林に見てもらい、それで問題が無いようであれば、ようやく弓を使って、巻藁で練習が出来る。
巻藁とは、藁に向かって実際の弓矢で練習をする物である。
その距離は、凄く近い。
だから、ゴム弓で練習した通りにやれば、外す事はまず無い。
そして、その巻藁での射法を、小林から試験を受け、それで問題無ければ、それでようやく道場で的に向かわせてもらえるのである。
理由は、それだけ弓道とは危険な物であるからである。
間違って、全然違う所に矢を飛ばすような人間には、実際に弓を引かせる訳にはいかない。
別の高校では、それで怪我をした人物も実際に居ると言う。
しかし、それまでの期間がとても長い。その為、弓矢にすら触れない事で辞めていく人も多かった。
だが綾香は、それまでも、それ以上に危険な”聖光弓一線”の魔術を使っていた。
射法はともかく、その理由には納得し、続けていた。
そして、今は一年のゴム弓の練習を小林と緑が見ていた。
「おい! お前! 引分けの時、足が崩れてるぞ! もっと胸張れ! まだ、離れんな!」
相変わらず厳しい小林である。
そして、黒川の番が来たようである。
綾香は、自分の練習もしながら、そちらを見てみる。
「前やってたって、言っていたな。じゃあ、やって見ろ!」
そして、黒川がゴム弓を引く。
それはとても綺麗な射法であった。
胴作りもしっかりしており、引き分けの際もブレがない。会の状態でも、しっかりとその状態が維持されている。
それを確認してから、小林が「離れ!」と言う。
パシン、とゴム弓の音がした。黒川は、その後も、しっかりと残心もしている。
「へぇ。良いんじゃないの、小林君」
緑が感嘆して言う。
「ほう。良いな、お前。前もやってたって言ってたな。どれくらいやってたんだ?」
小林も、珍しく褒めている。
「うーん、三年くらいですかね?」
「じゃあ、もう、的にもやってたんだな」
「ええ。一応」
ふむ、と小林は考え、次に、巻藁の練習もさせるようであった。
(え! も、もう!?)
綾香はそれを見て驚く。
どうやら、人数が居ない分、男子の道具は余っていたようである。
「お前、何キロやってた?」
「前は、うーん、十七キロですね」
黒川が、小林の問いに答える。
(十七……!? おもっ)
綾香は、自分の練習をしつつ、その言葉を聞いている。
見えはするが、普通なら小林の声くらいしか聞こえない距離であるのだが、今綾香は魔術を行使して聞いていた。
「重いな。あったか?」
「うん、確か先輩の残してた物が」
「弦の整備がされてないよな。おい、十五キロでも良いか?」
「ええ、構いません」
そして、緑が弓を持ってきた。
十五キロの弓は、女子からすると、かなり重いほうである。
男子でも、慣れた人がその重さを使う。
それ以上となると、射法が崩れてしまうので、使う人は少ない。
緑が、黒川に弓を渡す。
黒川は、弓を受け取り、巻藁の前でゆっくりと、足踏みをする。
この足踏みは、射法において、基本の動作であり、最初に行う、大事な基本動作である。
そして、ゴム弓の時と変わり無い、綺麗な射法で、黒川は巻藁に矢を穿つ。
(き、綺麗な射……)
「へぇ、綺麗な射。凄いね、黒川君」
「ふーん、良いな。お前、弓道衣は持ってるか?」
(え? も、もう道場!? 早すぎっ)
道場に上がる為に、必要な衣服の事を聞いている小林。
男子は部員が少ない為、個人戦ならいいが、団体戦は人数がぎりぎりであった。
だからなのか、黒川の射法を認めた小林は、既に道場で練習をさせようとしている。
「あ、道衣は、今は無いんですよ。今度買って来ます」
「そうか」
そんな、やりとりが、綾香に聞こえていた。
その後、正式に部員全員に、小林から黒川を紹介され、そして部活が終わった。
その後に、黒川から、何かを言われるのではないかと思っていた綾香であったが、黒川は、そのまま帰宅したようであった。