3.レース売りの姉弟と新しい世界
街の出入り口である壁門で、
「仲良し三兄弟が、市を終えてイージストに帰りまーす」
そう言ってにっこり笑ったラーラさん。あまりにも堂々と言っていたので、門番さんはその言葉を微塵にも疑わなかった。
「幼い弟もいて大変だな。気を付けて」
門番さんに弟認定された私は、それなりに少年の変装ができていたみたい。けれど、幼いって私のこと、よね。門番さんには私の見た目がいくつに見えたのだろう。
「そうそう、さっきレジスに邪魔されて言いそびれたんだけどね」
門を抜けてしばらくして、ラーラさんが思い出したように話し出した。
「ジーナちゃんが立ち去ったあと、変な男がやって来てね。ジーナちゃんと何を話していたんだとしつこく聞いてきたわけ」
心配していた通り、やはりあのときの私の行動がおかしいと監視者が会話の確認を……でも、私の不審な行動はマウリツィア母様に報告されなかったみたいだから、私との会話を黙っていてくれたのだろう。
「あまりにも威圧的でムカついたから、焦らしまくった挙句に欲しい物の値段交渉してたんだって言い切ったの」
予想通り、黙ってくれていた。確かに私がラーラさんに詰め寄った行動が値段交渉、に見えたかもしれない。監視者もマウリツィア母様も、私が手持ちのお金がないのを知っているから、ラーラさんの言葉に納得したのだ。
「話さないでいてくださりありがとうございます。助かりました」
「でね、そのやり取りの直後にあの迷子の子が親連れて改めてお礼を言いに来てね、その嫌味な男見てあの子泣き出したのよ。子供を泣かせたと周囲が騒ぎ出して決まりが悪くなったその男が逃げようとするからね、周りを巻き込んで呼び止めて謝らせて、その子が泣き止むまで引きとめちゃった……しっかし、あの子ウソ泣きが上手ね。レジス、あの子にウソ泣きさせてたでしょ」
「子供の遊びだからいいだろう」
涼しい顔でのレジスさんの言葉に驚く。監視者は私の後を付けたくて苛々して仕方がなかったから、あの子を怖がらせてしまったに違いないと思ったのだけれど。
「え? ウソ泣き、だったのですか?」
「親を捜しているときに、あの子の得意技がすぐに涙が出せる事だと言ったから、次に会った時にそれを見せてくれと約束しただけだ。俺は何もしていないぞ。あれは他愛ない子供の悪戯で、俺との約束を守っただけだからな」
ラーラさんやレジスさん、あの迷子の子が監視者にそんなことをしたのであれば、私の不審な行動を監視者はマウリツィア母様に報告できなかったのだ。市でラーラさんたちと別れた後の私の行動を、見ることができなかったのだから。
今日こうやって館の誰の目にも止まらず街から逃げ出せたのは、この二人のお陰だ。
「本当にありがとうございます」
いくら言っても足りない感謝を、二人に述べた。
こうしてイージストに向かう馬車は賑やかなまま移動を続け、日が沈むころ『宿』と小さな看板が掲げられている建物の前で止まった。
「今日はこの宿屋に泊まるわよ。ジーナちゃんには悪いけど、節約のため全員同室。大丈夫、レジスに悪戯はさせないから安心して。じゃ、レジスは馬車を預けてきてちょうだい。荷物もヨロシク」
宿屋に着くなりラーラさんが流暢に指示を出した後、レジスさんを残して荷袋を抱えた私と手ぶらのラーラさんは馬車を降りた。
「レジスさんっていたずら好きなんですか」
「そういう意味じゃあないんだけど」
レジスさんがいたずらをする姿が想像できなくて、こっそりラーラさんに聞いてみたら苦笑いされた。それでは一体どういう意味なのだろうと私が考えている間に、ラーラさんが宿の受付の人と会話して二階の部屋に案内された。ベッドが三つ並んでいて、足側に小さなテーブルとイスがセットされている部屋。そして宿の人はラーラさんにシーツを一枚渡して退室していた。
「私が真ん中のベッドで寝るから、安心してね」
何を安心するのかわからなかったけれど頷いて応え、私は窓側のベッドがいいと伝えてベッドに腰かける。
「あ、こっち座って」
ジーナさんが手招きしてから指したのはイスだった。
「イスに?」
「髪を切り揃えましょ。で、女の子に戻りましょうね。危ないから動いちゃダメよ」
私を強制的に椅子に座らせて、ラーラさんが私の首周りに宿の人から渡されたシーツを巻く。そしてどこからかハサミとクシを取り出して、私の髪を切り始めた。
「ねえ、ジーナちゃん。この宿からなら、戻ろうと思えばあの街に戻れるわ」
ちゃき、というハサミの音の合間にラーラさんが静かに話し出した。
「もちろん、ジーナちゃんの意志が固まっているのなら、ちゃんとイージストまで送り届けるわよ。でもね、教えてほしいの。ジーナちゃんはどうして家を、あの街を離れることにしたの?」
「それは……」
どこまで詳細を話していいものかを悩み、口ごもりながら身元がわからないように簡潔に事情の説明を始めた。
生母が亡くなり、数年後父が再婚した義母が義姉を連れて家に来たこと。父は私を愛してくれているけれど、仕事で家を空けていることが多かったこと。義母は義姉だけを愛し、私を嫌っていること。結婚の話を持ち込まれたけれど、その相手のことを決して好きになれそうにないこと。義母は嫌っているだけではなく亡き生母と私を憎んでいると知ったこと。結婚してしまったら実家には足を踏み入れることが二度とできないだけではなく、世間から隔離されてしまう未来しかないということ。
「そっか。じゃあ、家に戻る気は」
「ありません」
「ジーナちゃんの好きな相手がイージストにいるの?」
「いいえ、そういうわけではないです」
「なんだ。イージストへ行くことに必死だからそうなのかなと思ったんだけど。じゃあ、好きな人はいるの?」
「好き?」
聞かれて首を傾げる。
思い巡らせて、結論はわからないだった。好きという感情がどんなものなのか私にはわからない。
「お父様のことを好きとか、そういうのはわかりますけど、結婚したいと思う好きというのは私には」
「よぉし、こんなものかな」
尻すぼまりな私の言葉を遮り、ラーラさんが私に手鏡を渡してくれた。出来上がりを見て驚く。先程までのざんばら髪からは想像もつかない、後ろは短いけれどサイドは丸みのある、綺麗にカットされた髪型だった。
「ラーラさん、凄いですっ」
「ありがと。で、ジーナちゃん、今いくつ?」
「十六です。もうすぐ十七になります」
「五つ下の十六、ねぇ。女性は十五から結婚できるけれど、その歳では恋に恋する年頃よね」
「恋に、恋する?」
「そうよぉ。そうそう、わからないことはこのラーラお姉様に何でも聞いてね。答えてあげるから」
茶目っ気たっぷりにウインクしてからラーラさんが私の首周りに巻いていたシーツを、切った髪が散らないように丸めながら外した。
お姉様と言われて思いついてしまうのはパーシャ姉様だ。ラーラさんにパーシャ姉様の時と同じように、聞く?
「……なんでも、聞いてもいいんですか?」
「ジーナちゃん若いんだから、知らないことがいっぱいあるでしょう。年下のジーナちゃんが年上の私にわからないことがあったら聞くのは普通で、私は年下の可愛いジーナちゃんの面倒をみたいのよ。私は頼りになるわよ……って、ジーナちゃんっどうしたのっ?」
「姉さん、ジーナを泣かすなよ。まさか、変な髪型にしたんじゃないだろうな」
馬車を預けてきたレジスさんがいつの間にか戸口に立っていて、ラーラさんに文句を言った。口ぶりから、宿に着いてすぐに私の髪をラーラさんが切ることをレジスさんは知っていたみたい。
それにしてもなぜラーラさんが悲鳴に近い声をあげたのかがわからない。レジスさんは『泣かすな』と言った。
泣かすな、誰を……私を?
自分の頬に触れれば、温かい液体が伝って落ちていた。
……私は、泣いている?
「ええっ! そんなに変だった?」
レジスさんの言葉を受けてどうしようとラーラさんは焦って私の髪を弄った。私は慌てて顔を振り否定する。
「ち、違います! ラーラさんのせいで、髪のことで泣いたわけじゃありませんっ」
「そう、なの?」
自分のせいではないと言われて明らかにほっとしたラーラさんに、泣きながらも笑顔を向けた。
「その、ずっと、家では言われてきたんです。年下は年上の言うことに従っていればいい。決して逆らうなって。年上に質問など不出来さの証明でしかないのだから絶対にするな、年上に頼るなって」
「な……っ」
二人は同時に息を飲んで、驚いたように目を見張った。
「だから私、叱られるのを覚悟してまでお義母様やお姉様にわからないことを質問する、なんてあまりしたことがなくて。聞くのは普通とか、面倒をみてあげたいとか、そんな言葉が嬉しくて、つい泣いてしまったみたいで。やだ、家では泣くことなんてそうそうなかったのに、なんか、私おかしいです」
涙を拭って鼻を啜る私を、ラーラさんとレジスさんが居心地が悪そうにしながら見ている。早くこの涙を止めないと二人に迷惑だと何度も目を擦る。
なのに、涙は止まらない。
どうしようと擦る動作が次第に荒くなってしまう。その手が、力強い手で捉えられて動きが封じられた。
「レ、ジス、さん?」
「そんな風に擦ると、瞼が腫れる」
「……そうね」
ラーラさんがハンカチで、押すように涙を拭いてくれた。
「ずっと我慢していたのね。ようやく泣けるようになったのだから泣いてもいいのよ。でも、擦っちゃダメ」
「今まで気を張っていて、その緊張が解けたから泣いてしまったんだろうな。ここには変な常識を押し付ける奴はいないから、家にいたときのように構える必要はない。よかったな、自由になって」
今度はレジスさんが微笑んで、私の目の涙を親指で拭ってくれた。
変な常識……自由? エイジェルス家から出た私は、マウリツィア母様から解放された。束縛するものは何もない。だから、自由。
「そうですね。私はいま自由、なんですね」
「ただ、自由ってとても魅力的だけど、大変よ。言うことやること全てにおいて自分で責任を取らなきゃいけないんだからね。でもジーナちゃんは家に戻る気は無いのよね」
無言で強く頷けば、ラーラさんさんは深く息を吐いた。
「確かに、そんな変な常識を教える家に戻る必要はないわね。ジーナちゃんの幸せはクリスタルディ家に任せなさい! とりあえずレジス、お前の胸をジーナちゃんに貸してあげて」
「え、俺?」
「ジーナちゃんは泣いているのよ。嫌な緊張感から解放はされたけれど、心細いと思うし人肌を貸してあげなさい」
「いや、それは姉さんがすればいいだろう」
「女っ気がないから協力してやろうという、心優しい姉の思いを無駄にして」
ちっ、とラーラさんが舌打ちした。
テンポのいい二人のやり取りに、思わず吹き出してしまう。そんな私を見て、二人は同時に頷いた。
「涙、止まったな」
「うん。ジーナちゃんは笑っている方がいいわね」
泣き顔も可愛いけどね、とラーラさんに付け加えられた。
真ん中のベッドではラーラさんが熟睡している。
夕食の席で、私が準備した服が男の子用の物しかないことを知ったラーラさんは
「女の子の服が一着もないってどういうことっ」
と騒ぎ、
「ああ、でもイージストに着くまでは色気がない方がいいわね」
と呟き、最終的にイージストに着いたら服を一緒に買いに行くことを約束させられた。
「狭くなるけど、寂しいなら一緒のベッドで寝てもいいのよ」
次いでそう言ってくれたけれど、私は昨日から家を出ることに緊張していたから疲れていたし、ラーラさんも疲れているのを知っているから丁重にお断りした。なのに、私は何故か頭は冴えていて眠ることができない。何度も寝がえりをうち、眠れそうもないので気分を変えるために窓を開けて外を見てみれば、満天の星。
「うわ……ぁ」
「眠れないのか」
ラーラさんを越えたベッドから声がした。レジスさんだ。窓を開けたので空気が流れ込み、目を覚ましてしまったのだろう。
「すみません、起こしてしまいましたね」
慌てて窓を閉める。
「いや、気にするな。俺も寝れなかったから。それにしても、星がそんなに珍しいか」
「自分の部屋の窓以外から星をみるのは久しぶりで」
街とは違う、余計な灯や建物も木々もなく遮るものがない星空。壮大で、輝く星々はお母様のジュエリーボックスを思い出させた。
「空に宝石が飾ってあるかのようでした。こんなに綺麗な夜空は初めてで、自分が狭い世界にいたんだなって思います」
私は住んでいた街しかしらない。しかも、その半分以上が館の中で自分の部屋だったから知らないことが多すぎる。
「ラーラさんに聞くことがいっぱいありそうです」
「……俺に聞いてもいいんだぞ。姉さんより一つ年下だがジーナよりは年上、だからな」
「はい、よろしくお願いします。私、あの市でお二人に出会えて、本当に良かったと思います。やはり、お二人に出会ったのは運命に違いないです」
私の言葉にレジスさんは数回瞬いた後、お顔を手で覆い。
「あんまり、そういうの大声で言うな。姉さんに聞かれると厄介だ。そろそろ横になれ。寝れなくても身体を横にすればそれだけで休まる」
「はい」
会話を長くしてしまうと、私達の声でラーラさんも起こしてしまう。もしかして今の声で起こしてしまったかも、と思ってベッドを覗きこんだけれどラーラさんは変わらず寝息をたてていたので安心した。
明日もレジスさんは馬車を操る係だ、とラーラさんが言っていたから眠れない私に付き合わせては申し訳ない。言われた通りベッドに戻って窓の外を見ながら横になった。
目を閉じてもさっき目にした輝く星が焼き付いている。
この星は本で読んだ……
考えているうちに眠気が襲ってきて、私は眠りについた。
街を出て十日後。
イージスト町、という案内看板を過ぎてから出会う人誰もが
「おかえり!」
「売れたかい?」
ラーラさんとレジスさんに笑顔でなにかしら声をかけていた。イージスト町人全員が身内同然、というのは本当のようだ。
「悪いけど先に馬車を返しに行かせてね。ちゃんと町長の所には連れて行くから。それと女の子の服ね!」
狭い町なのだから、探し人の名を教えてくれれば私を送り届けるとラーラさんやレジスさんは言ってくれていた。でも手紙の返事は一通も届いていないので、ヒラリーがこの町に必ずいるとは限らない。二人の目には、私は一人では何もできないくらい世間知らずに見えるのかもしれないし実際そうなのかもしれないけれど、これ以上二人に迷惑をかけられないので町長さんと話をして、一人でヒラリーの元に行くつもりだ。
家の数が減り、周辺は緑一色になり。ラーラさんの言うようにレジスさんは馬車を農園と思われる場所へと向けていた。
「レースで有名なイージストだけど、そのイージストにも農園はあるのよ。で、馬車はこの農園から借りたの」
なるほど、農園ならば資材運びや作物を運ばなければならないから馬や馬車があっても不思議ではない。「キーラー農園」と書かれたアーチを抜けてレジスさんが家の前に馬車を停めれば、蹄の音で来馬を知ったのか家の中から女性が出てきた。
「おかえりラーラ、レジス。どうだった?」
家から出てきた女性の声に聞き覚えがあった。五年以上会っていないけれど、聞き間違えるはずがない。
「ヒラリー?」
「……ロジーナ様っ」
ヒラリーだ。
ヒラリーが目の前にいる。そう思ったら涙がこぼれ落ちて、勝手に体が動いてヒラリーに駆け寄り抱きついていた。
「会いたかったっ」
涙がヒラリーの服を濡らしてしまっていることがわかっても、回した腕の力を弱めることはできなかった。ようやく会えた嬉しさと喜び、なにより。
「ロジーナ様」
私を私と認めてくれる安堵感。私を抱きしめ返してくれる温かさ。
「ロジーナ様、どうしてこちらに? こちらに来るなんて前回のお手紙にはひと言も、その髪も身なりも一体……いいえ、まずはお入りください。ラーラとレジスもどうぞ。お茶を淹れるわ」
質問を途中でやめたヒラリーは、私を抱き寄せたまま私たちを家の中に招き入れてくれた。
「ヒラリーのお茶、久しぶり」
カップから流れる湯煙を、ふうと息を吹いて流してから口に含む。
懐かしい味だ。いつも私に淹れてくれていて、心も体も温まるお茶。本当にヒラリーに会えたのだと実感し、そして懐かしさを感じて目に涙がたまる。
「というわけで、ジーナちゃんをイージストに連れてきたわけ。ジーナちゃんってば私達の身の安全や迷惑を考えて、身元は言わないし探し人の名前も頑なに言わなかったから、ヒラリーさんがジーナちゃんの探し人で私たちの方がびっくりよ。とにかく探す相手の名前を聞き出そうってレジスとずっと頑張っていたのに」
鼻を啜って言葉が上手く出ない私に代わり、私が説明した身の上話とその後の出来事を加えてラーラさんがヒラリーに話してくれた。
「やはり私の手紙はロジーナ様のお手元に一通も届かなかったのですね。それに、早急に結婚させようとするほどマウリツィア様はロジーナ様のことを憎んでおられたのですね」
後悔した様子のヒラリー。聞けばヒラリーは私の手紙に返事を毎回書いてくれていたのだという。そして、やはりその手紙はマウリツィア母様が処分していたようだ。
「お別れの前に、もっとマウリツィア様のことを忠告しておくべきでした。けれどあの時は私も感情的になっていたので、自分と旦那様とエレノオラ様の話だけで留めてしまったのです」
マウリツィア母様の名前を出すだけで怒りが収まらなかったのだと話す。だから辞める理由も話せなかったのだと。
「マウリツィア様のことを嫌っているのは私の感情でしたから。あのような醜い感情はロジーナ様には相応しくないだろうと思っていたのです」
「ヒラリーはマウリツィア母様がエレノオラ母様を何故憎んでいるのかを知っているの?」
「はっきりとは知りません。ただ、マウリツィア様はライオネル様のことを異様なほど慕っていました」
結婚したのだからマウリツィア母様がお父様を慕っているのは当然だけれど。
「異様な、ほど?」
「ライオネル様を見つめる姿を見てそう感じたのですが、ライオネル様はエレノオラ様が亡くなった後すぐに商会を変えてお仕事に夢中になられました。マウリツィア様がいらしてからはなお一層に。ですから私にはマウリツィア様よりもエレノオラ様を愛しておられたように見受けられました。そのことが関係しているのではないかとは思うのですけれど。実際の所は私には」
申し訳なさそうな顔をしたヒラリーは、続けて自身の話をしてくれた。
故郷に戻った後イージストの実家に身を寄せてレース作りを手伝っていたヒラリーは、ある集会でキーラー農園園主と言葉を交わしたら気が合い、お互い独身だったので結婚したそうだ。そのことを手紙に記したけれど、私の手紙は変わらず実家に届けられている事から、マウリツィア母様がヒラリーの手紙を握り潰していると感じていたのだという。そしてヒラリーは私の手紙を全て取っておいてくれていた。
「ロジーナ様のお手紙を捨てるはずがないでしょう。お手紙が届くのを夫共々楽しみにしておりました」
幼かった文章が一通増えるごとに大人びていくことに喜び、寂しいという文章に哀しみ、会いたいという文字に自分たちも会いたいと話していた、と教えてくれた。
「ヒラリー、私……」
「なあ、さっきから思っているんだが」
ヒラリーの家に入ってからお茶を飲み、お菓子を食べるだけで一言も口を開いていなかったレジスさんが、私達の会話に片手を挙げて割入ってきた。そして私を見る。
「ジーナ。ロジーナ様って呼んだ方がいいのか?」
「……相変わらず空気が読めない男ね。それ、今の会話を遮ってまで聞くこと?」
ヒラリーが私のことをそう呼ぶので、レジスさんが私をどう呼べばいいのかわからなくなったらしい。けれど名を問われれば、私の答えは決まっている。
「ジーナでお願いします」
ロジーナという名前はエイジェルス家に置いてきたのだ。だから私はジーナだ。そしてジーナとして生きていく術を身に付けなければならないことを思い出した。これからは自分で自分の責任を全て取らなけばならないのだから。
「ヒラリー。お願いがあるのだけれど、私が身を寄せる場所を見つけるまで、こちらに置いてくれないかしら。できる限り早く自立できるように頑張るから、それで、その、家事も教えてほしいの」
一人で生きていくにも使用人がいた生活を送ってきたのだ。洗濯も料理も掃除も買い物も人並みにできる自信がない。ラーラさんやレジスさんと時間を共にして、イージストは自立する足場としていい場所のように思った。
そんな私のお願い事に、ヒラリーは目を丸くした。
「自立、ここから出ていく? そんな、とんでもないっ! この家にいればいいではないですかっ」
「ヒラリー?」
「ロジーナ様、いいえ、ジーナでしたね。ジーナのことは夫によく話していて、常々夫もジーナに会いたいと言っていました。是非この家に……いいえ、私の娘として、私がロジーナ様を一人前の女性にして差し上げます。ですから、ここに」
「母親は様付けで呼んだり差し上げます、なんて言わないわよ。それから名前、間違えてる」
ジーナでしょ、とラーラさんがヒラリーに笑う。けれど私は笑うどころではない。
「いいの? ヒラリー……私、ここにいても」
「私も夫も遅婚で子供は望めません。元より高年で子供を諦めていたのです。私達の子供となることを、むしろジーナが迷惑に思わなければの話になるけれど」
「ヒラリーがいいっ!」
ヒラリーの娘になることに何の抵抗もない。むしろ嬉しいくらいだ。
止まっていたはずの涙が、再び零れ落ちる。
「私、ヒラリーの傍にいたい。ヒラリーをお母さん、って呼びたい……っ」
正式な手続きがとれるわけではないから、傍目には『親子ごっこ』といわれるかもしれない。けれど、それでもいい。
自由になった私が自分で決めた一つ目はエイジェルス家と決別することだった。
そしてこれが自分で決めた二つ目。
「ヒラリーと、家族になりたいっ」