お前もか
――などと思っていたのは甘かったようだ。
シェリルさん自身が日常抱えている事柄というものは、僕が想像していた以上に大量であるということがわかった。
僕としては愚痴を一気に吐き出して貰えればシェリルさんはまた明日からバリバリと仕事をこなすだろうと思っていた。ところが時間が立つに連れて視界の端に写っていた部下がそわそわし始め、シェリルさんに直接見えない角度からしきりにこちらを窺うのだ。
よくよく考えてみれば当然の話しなのだが、前々から調整していたのであればいざしらず、突発的にシェリルさんのスケジュールを一日ぽっかり空けて問題が無いわけが無い。
「そ、そういえばシェリルさん、こんなに長居していて大丈夫なんですか?」
「どうせ今日は陳情が上がってくるのを処理するだけだから、それくらい待たせておけば良いのよ。それより今は――」
そう言ってシェリルさんの話は再び愚痴に舞い戻る。視界の端に写っている部下の表情が一瞬期待に輝いたが、それは叶わず諦めに近い表情に変わってしまった。……これは中々に手強いな。
それにしても陳情か。確かにこの異界都市には多くの新たな利権が各所に転がっている。当然この利権に何とか絡みたいと考えるものは相当な数に登るだろう。
……あれ? でも、領主の元まで上がってくるものって考えると、当然のことながら事前に選別はされているよな? そう考えると重要度は高い案件なのではなかろうか? いや、シェリルさん自身そこは理解しているだろうから、その上で待たせると言い放っているわけか。
まいったなぁ。
結局、その後シェリルさんがスッキリした顔をしてソファーから立ち上がるまでには昼までの数時間を要した。意外と早く終わった気もするが、特に意見がほしいわけではなくただ単に吐き出したかっただけなのだろう。そこはシェリルさんが抱えている孤独を深く印象づけた。
「うーん、さすがにそろそろ帰らないとマズいわね。昼からの案件は、さすがにすっぽかせる仕事じゃないし」
そう言ってのんびりと背伸びをしながらも、その表情はいつもの真剣なものに切り替わりつつあった。午前中に会えなかった人ごめんなさい。
「馬車のところまで移動する時間も考えると結構急がないといけないですね」
「ああ、今日は大丈夫よ。今日は勢いで来たから家の前に乗り付けちゃったし」
「は?」
えっと、この人は何を言っているんだ?
にこりと笑うシェリルさんの様子に非常に嫌な予感がしたので、窓を開いて外を確認する。外から心地よいであろう風が入ってきたが、それが全く気にならないような状況が視界に飛び込んでくる。
視線の先には乗り付けられた、いつもより一際豪華な馬車とそれを警備する人員、そしてその馬車を遠巻きに眺めている周辺住民の姿があった。
周辺住民達の表情から最も読み取りやすい感情は困惑や不安。まあ、この区画にこんな豪華な馬車が入ってくる事自体が異常事態なのだろう。
「……そろそろ本格的にこの辺りに住みづらくなってきた気がしますよ」
「あら、ちょうど良いわね。私の屋敷の近くにちょうど良い物件があるんだけど、引っ越してみるのはどうかしら?」
シェリルさんは全くもって悪びれない様子でそう提案してきた。この様子だと半分くらいは本気で言っていそうだな。
「さすがにあの地区に居を構えられるほどのお金が持ち合わせていませんよ」
「費用は全額持つわよ?」
「もの凄く嫌な予感しかしないので、丁重にお断りします」
「あら、残念」
近くに住んでほしいというのは恐らく本音だろう。しかしシェリルさん自身も僕が首を立てに振るなどとは思っていないのか、そんな事を言いつつもその表情からは残念に思っているようには全く感じられない。
「まあ良いわ。もし万が一気が向いたらいつでも言ってね。すぐに空けさせるから。さ、帰るわよ」
「は!」
シェリルさんは手をひらひらさせながら部下に支持を出し始める。部下もようやく仕事に戻れる事が嬉しかったのか、とても元気の良い返事を返してテキパキと行動を開始した。
シェリルさんの馬車を見送り終わった頃には、野次馬の数は更に増えてしまっていた。とはいえ半ば諦めに近い感覚かも知れないが、からの独特な視線にも慣れ始めていたのは幸いな事なのかどうか。
野次馬たちを無視するように家に戻り、そろそろ本気で引っ越しを考えないといけないか思案を始めた時、通信用の魔道具が呼び出し音を鳴らした。
はて、今日は何も予定していなかった気がするが?
ソファーから立ち上がり通信用魔道具へと手を伸ばす。そういえばモノクルに機能を統合し忘れていた事を思い出しつつ起動する。
「もしもし! バーナード、大変だ!」
通信を繋げるなり遠慮のない大音声が耳元で発生する。とっさに通信機から耳を遠ざけたので大事はないが、何も考えずに機能を統合していたら鼓膜がやられていたかもしれない。統合の際には音声の調整機能を付けることを心に刻みつけた。
しかし慌てているにもかかわらず、もしもしを忘れない辺りは決まり事を守ろうとする正確が現れていると言えるだろう。
「とりあえず耳が痛いからもう少し落ち着いて話してくれないかな」
「これが落ち着いていられるかよ! ランディスのやつが探索者トライアルに登録しちまった!」
……ランディス、お前もか。
ジークの声は変わらず大音量だが、さすがに子供達の事となると落ち着いてもいられないか。それにしても今日は朝からトラブル続きだな。
「ランディスとは、すぐには探索者登録をしない約束をしていたはずだけど」
「それは俺も当然知ってるぜ。だがランディスのやつに問いただしても、理由は言えないの一点張りで、挙句の果てには俺が悪いんだとか言い出しやがるし、わけがわかんねぇんだ」
先日ランディスの鍛錬に付き合った際には間違いなく嘘は言っていなかった。それに彼のようなタイプは一度決めたことはきちんと守ろうとするし、確かにこれまでは守っていた。……となると、その決心をもってしてもどうにもならない。そんな外的要因が発生したということなのだろうか?
外的要因か。……まさか、ね。
何にしても現状では、一度ランディスに会わない事には何もわからないな。
「とにかく一度そっちに向かうよ。ランディスはそこに居る?」
「ああ、とりあえず今は部屋に閉じこもっちまってるが、約束をしていたバーナードが来れば出てくるかもしれねえ」
「わかった」
ひとまず話が一区切り着いたので通信を切り、移動の準備を始める。ストレージを漁って魔道具を取り出していると、リビングにアリスが戻ってきて不思議そうな顔をしている。
「これから外出ですか?」
「ああ、ちょっとトラブルでね。ジークのところに行ってくる」
「私もご一緒しますか?」
「いや、ひとまずは僕だけでいいよ」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
アリスに見送られて家の外へ出た。ただし玄関のドアからではなく、二階のバルコニーから。そのまま屋根に登り、ジークの家まで一直線に屋根の上を駆け抜ける予定だ。
急いだからといって事態が好転する訳ではないが、明日が休眠日なので時間的な余裕を持っておきたかったからだ。
本来ならば屋根の上を疾走すると目立って仕方がないので本当に緊急時しか利用しなかった。しかし前回の第二十五層で手に入れた素材のお陰で、セオドールの開発したかくれんぼ君の量産が可能となった事で状況は大きく変わることとなった。
かくれんぼ君は物が物だけに、技術を開示する範囲には気をつけなければならないが、自分が使う分には問題はない。
屋根の上は障害物がないので移動手段としては非常に安全である。唯一気をつける必要があるとすれば、ツカモト流合気術の門下生くらいだろうな。




