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未来の楽譜 ―― いんちきオルガンと唄女神の歌い手 ――
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『学び舎に集まる全ての徒 いつか来るその日の為に
励み 歩み 先を行く
立ち止まることなかれ 振り向くことなかれ
其の名を唄女神の楽譜へ刻むまで』
夜空のように、黒に近い紺碧のセーラーカラーが彩る冬は同色の紺、夏は白地の制服。
校章は乳白色をしたカメオのブローチやネクタイピンにあしらわれ、入学と同時に支給される銀の懐中時計にそれから三年間過ごす学級が刻印されていた。
ピカピカの黒や茶色の真新しい革靴が踊るように蔓薔薇絡みつく洒落たデザインの校門を潜っていく。
まるで御伽噺のお城か、巨大な劇場の体を成す校舎はレンガの外壁で囲まれた秘密の苑。
湖を抱く深い森も、巨大な硝子曲天井の温室さえもすっぽりとそこに収めている。
幾何学模様を描くタイルの路を楽しげな声が通っていく。
が、何事も例外はある。
例えば、今、ここで立ち尽くす女生徒とか。
「聞いてない……」
聞いてない。何でも良いから一曲、入学式の日に披露する習慣なんて、断じて聞いていない。
マリネット・フローウェル。めでたく先月、十五才になったばかり。
くすんだ銀髪をおさげ髪に結って、色気のない地味な茶色のリボンを結んでいる。
明るいところで見れば晴れた空の色をしているとわかる瞳も、今はうな垂れた所為で前髪が影を落として目どころか顔全体が暗い。
制服は確かにここの学校のものだが、誰かのお下がりなのか所々、ほつれていたり。
膝が隠れるくらいまであるワンピースの裾がプリーツになっているここの制服は、今の季節は紺色。だから目立たないのでギリギリセーフだが、インクの染みらしいものがついていたりする。
靴は履き古して柔らかく足に馴染んだショートブーツ。
「最悪……どうしろってのよ……」
嗚呼、終わった。マリネット、通称マリーと呼ばれる少女は心の中でそう呟いて打ちひしがれていた。
「奨学生に楽器なんて用意できるわけないじゃない……」
よれたお下がりの制服の胸元で校章が浮かぶカメオだけが真新しく灰色に笑っている。
(何コレいじめ? 奨学生いじめなの?)
そんなわけありゃしない。だが、そう思ってしまいたくなる今のこの絶望感。
肩から掛けた鞄のショルダーをぎゅっと無意識に握る。
「あ……」
「え?」
ぼけっと突っ立ていたのが悪かったのか、それとも陰気が呼び寄せるものなのか。
振り返った時にはすでに遅し。
「ひゃ!」
「きゃあっ」
視界が黒で染まって、次に憎らしいくらい蒼い空を映し、トドメはお尻に感じた衝撃と痛み。
「痛っ……たぁ……」
「も、申し訳ございません。あの、大丈夫でしょうか?」
お腹あたりに掛かった重さが飛び退く勢いで無くなって、その口調から悪気の欠片もない事故だったのだと判明する。
怒れやしない。
仕方ない事だと言おうとして顔を上げたマリネットは、ぽかんと口を開けて固まってしまう。
緑の黒髪と言うべきサラサラ艶々の長い髪、姫カットと呼ばれるそれが似合う顔立ちは可愛らしさと美しさが見事に両立していて、初雪のような白い肌は日に焼けた事など皆無なのではないかという程に白い。
心配げに下がった弓形の眉、大きな丸い瞳、淡い花のような唇。
(めまいがしそう)
まさしく可憐。その言葉がぴったりだ。
「あの」
「は! あ、いや、大丈夫! えっと、大丈夫? そっち」
わたわたと挙動不審意味不明な言葉しか出てこなかったが、どうやら美少女の方は気にしないでいてくれたらしい。
「はい。……本当に、申し訳ありません。お恥ずかしながら、路に迷ってしまって……」
恥じらいほんのりと頬を染める様に、何故か同性だというのにどぎまぎしつつ、マリネットは立ち上がり、正座と呼ばれる東の国で一般的な座り方でマリネットを見上げている相手に手を差し伸べた。
「私は大丈夫。丈夫なのが取り得だから。えっと……」
「あ。あの、失礼致しました。……御哉季千早と申します。お見知りおき下さい」
そっと流れるような所作で両手を軽くタイルについて、頭を下げる。それだけで気品が漂うとか、怖い。
内心、戦き顔が引きつりそうになるも、ここで名乗り返さねば女が廃る。
「マリネット・フローウェル。路に迷ったって事は、あなたも新入生でしょ? 良かったら、入学式の講堂まで一緒にどうかな」
「……宜しいのですか?」
花咲くような笑顔で両手を合わせ喜ぶその様子に、マリネットはちょっぴりの敗北感と、引き換えのようにがっしりつかまれた心臓に口許を緩める。
「勿論。同級生なんだし」
「では、お願い致します。フローウェル様」
「マリーで良いよ。友達は皆そう呼ぶし」
一瞬、千早が目を瞠る。それから、淡雪を溶かすような表情を浮かべてマリネットが差し伸べた手を取り立ち上がった。
「じゃあ、行こう」
「はい……」
ゆらりと揺れる振袖はマリネットの制服と同色で、よく見ればそれは東風にアレンジがなされている学院の制服らしかった。
(コルセットみたいのは……帯って言うんだっけ?)
白いコルセットのような帯は背後でリボンのようになっていて、膝丈までのプリーツスカートは足首までの伸びている。靴も、革靴ではなく走れはしないだろう東風のもの。たしか草履か雪駄か。マリネットにはいまいち見分けが付かない。
行こう、と握って引いた手はすべすべして傷など皆無。
対して自分の手は、と考えて、少し手をつないだのが恥ずかしくなる。タコやマメ、あかぎれが普通にある手だ。
(……少し、気をつけようかな。ハンドケア)
絹のような千早の手に触れながらそう思い、マリネットは講堂への路を急いだ。
『この学院には【音楽】に関わる複数の専攻課程が存在しています。皆さん一人ひとりが、それぞれの進むべき路を見つけ、やがて巣立った先で女神の楽譜へとその名を刻まれる事を切に願います』
硝子曲天井の温室と瓜二つの講堂には、新入生たちが集められそれぞれの立ち位置で、中央の壇上を見上げていた。正確には、浮かぶ立体幻映像の映像を。
拡声器となっている音響石から流れる女性の声は学院の理事長。白髪だが、年寄りではなく年は三十代に入ったくらい。少しきつめの容貌は自然と姿勢を正したくなるもので、いわゆる妖艶女教官めいた雰囲気である。
(……顔って試験で加味されないよね?)
やたら周囲がきらきらしいのは気のせいだろうか。気分は白鳥の群れに紛れた雀か鴉だ。
「こんなに沢山の方々を見たの、初めてです」
「あー。そういえば東の方って家庭教師で個別学習が増えてるんだっけ?」
「ええ。父様のご紹介で同じ年の方とも会うには逢うのですが……」
それ、見合いなんじゃないかな。そう思ったが、とりあえずは言わない。
それよりも何より、今そこに迫っている危機をどうにかしなければ。
女教官もとい、理事長の挨拶を終え、いよいよ吊るし上げ……ではなく、一曲披露という難題が待ち受けているわけで。
「あの方、どうして壇上に上がるのでしょう……」
「! え。もしかして、千早さん知らない?」
何がでしょうか? と小首を傾げる様子がそれを肯定する。
「入学式で何でもいいから一曲披露、って話」
「そうなのですか? それは、どう致しましょう……」
「そうだよね、流石にいきなりじゃ」
「どれを披露するのが良いのでしょうか……長い曲は他の方もおりますし」
裏切り者ぉぉぉぉぉぉぉぉお! と口には出さず心の中で叫ぶ。人生はなんと無情なのか。
「マリー様……いえ、マリーさんはどのようなものになさるのです?」
仰々しい言い方を改め、恐らくは精一杯くだけた呼び方で、千早がほんのり恥ずかしげにそう尋ねてくる。
「あ、あー。それは、その……えっと……」
言えない。全然思いつかない、用意してない、なんて。
「わ、私は、そう、だね……ええと…………ちょっと、人酔いしたみたいだから、外で空気吸ってくる。すぐ、戻るから」
「あ」
追わないでね。そう言って、這い出るようによろよろと講堂から抜け出して、蒼い空に似合わぬ溜め息をつく。
「無理だって。何、あの人の量……」
今出てきた講堂を振り返る。数百ではない。少なくても自分を含め千人はいる新入生をすっぽり包み込む講堂で、その中心で何をしろって?
死ぬ。あの壇上は死刑執行の断頭台か。
「……休めるところ……」
くらくらする現実に、本気で具合が悪くなって人が来なそうな木陰を探すべく、生きる屍のように緩慢な動作で歩き出す。
講堂の横に広がった森へ踏み込んで少しだけ進む。表の道から声が遠のく程度、奥へ。
緑の葉が光に透ける木漏れ日と、湿った腐葉土の香りに気分も段々と落ち着いて、木々がまばらになった天然広場を見つけて座り込む。足を投げ出し、背を木の幹に預けて空を見上げ、どうしよう、と。どうしようもない事を考える。
「いくら考えたって、無いものは無いし、あの観衆に耐えるとか無理だし」
(千早さんは、凄いな)
蝶よ花よといった風なのに。やらないとかやれない、なんて微塵も考えていないようだった。
「駄目だなぁ……私」
思わず苦笑と一緒にそんな言葉が零れて、乾いた笑いが空気に溶けた。
肩掛け鞄を開けて、紙束を取り出しそこに書かれているものをじっと親の敵みたいに睨み付けて、溜め息をつく。それを仕舞おうとした矢先、声が一つ。
「ふぅん。手書きの楽譜かぁ」
「うわあああああ!」
口から心臓が飛び出しそうになるほど驚いて飛び上がる。
いきなり落ちた声は、高音と低音の中間。聞き様によってアルト、事によってはテノール。女性的とも男性的とも言えない中性的な声音で、マリネットは一瞬だけ「あ、良い声」となってしまったが、それは刹那にも満たない空白だった。
「やだなぁ、そんなに驚くことないじゃない」
「だ、だ、だだ誰!」
「僕? 知りたいなら、君の名前をまず教えてよ」
腰を越す長い髪と長身。男子の制服だから、学院の生徒なのだろう。
結わえていない長い髪は風に揺れ、光に透けて不思議な色合いを見せた。夕陽の赤、木の幹のような茶色、黄昏の金色。揺ら揺らゆらめく楓琥珀の髪。
すっとし整った造作は右前髪が長くて半分隠れているが、それでも息を呑む。
長い睫が縁取っている切れ長の瞳は蕩けるような飴色で、口許に浮かぶ笑みはどこか無邪気な子供じみていた。
「ね。君の名は?」
「ま……マリネット」
「マリネット、か。ふむふむ。うーん?」
じろじろと不躾なくらいの視線に、居心地が悪くなりマリネットは身じろぐ。
「ん。とりあえず、いっか。ねぇ、それ歌ってよ」
「は?」
ニヤリと悪巧みするような笑みを口許に浮かべ、とんでもない事をさも当然の様に要求する青年は、更にマリネットの顔を覗き込む。
「どうしたの? もしかして、書いたのに駄作過ぎて歌うの恥ずかしい? あ、わかった。恋歌書いたのに失恋したとか」
「書いたのは子守唄! 勝手に失恋させるな! 始まるどころか出会ってもいないのに」
「それはそれで、悲しいね」
よっ、と声をこぼしたかと思ったら青年はマリネットの袖を摘まみ、座り込んだ。
「さぁ、歌ってよ」
「何で座ったの」
「子守唄なんでしょ。立ったまま寝たら倒れて怪我しちゃう」
え。つまり眠らせて当然と?
引き上げられるハードルにマリネットの顔がひきつる。
「ほら、早く」
催促に袖を引っ張られ、青年をみれば、歌うまで絶対放しそうになかった。
(厄日…………それでこいつは疫病神よ)
手にした楽譜が握り締め過ぎて、シワが寄る。
「ここで僕に歌えないで、あっちでやれるのー?」
「ぐっ」
たかが一人の前で歌えないで、講堂の全員の前で歌えるのかと、そう言われて。
(引き下がれるわけない……)
胸の動悸を鎮めるように、楽譜と両手を当てて、大きく息を吸って吐く。
(大丈夫。子守唄は、安らげるように、穏やかに)
歌を捧げる相手に、慈しむ心を。
風が梢を揺らすように、眠りの始まりに誘うように。
「―― さぁ 瞳を閉じて 声を聴いて
自由な世界の鍵をあげる
星の歌と踊り 風と遊戯
あなたの路を照らしましょう
さぁ どんな夢を往きましょう
たくさんの扉 好きなもの全て
全てがあなたを待ち望む」
歌い出して少し、マリネットの片袖が軽くなる。
そっと視線を遣れば、青年が木の幹に寄りかかり、気持ち良さそうに瞳を閉じていた。
(やった! 眠った?)
……と思ったが。
「うん。まあまあだね」
目を閉じたまま、青年がにやっと笑う。
「ほら、続き」
「く……」
小憎らしい。そう思って歯噛みした時、名を呼ばれてマリネットは振り返った。
「マリネットさん?」
「あ。千早さん」
緑の間に艶やかな黒髪と白い雪のような肌が現れる。茂みを分けて紺色の東風アレンジの制服が姿を見せ、森の空気に元気を分け与えられたのか先ほどよりも明るい表情でマリネットに笑いかける。
「探しました。……こんな所で何を?」
黒い瞳が不思議そうに辺りを見回す。
「ちょっと休んでいたら、この人が」
「この人……」
「そう。この……って、え?」
目を離したのはそう長くなかった。というか、身動きした感じはしなかったのに、青年の姿はそこにない。
「今まで居たのに」
「と、それより、もうお式が終わってしまいますよ」
「え」
「早く早く。参りましょう」
手首をつかまれ引きずられるようにマリネットは森を後にする。
(……あれ? 何か、違和感?)
視線は掴まれた手に。けれど。
(気のせいか)
「ハーベルクラスト大陸中北部の街、バルカロール。主な収入源は観光……って言うだけの事はあるわね」
赤や黄色のレンガと漆喰が目立つ建物が並び、夕暮れを告げる鐘の音を合図に行き交う人々。家路へと急ぐ子供の一団や、夕食の支度を始める家々。カフェの時間が終わり、レストランへと様相とメニューを帰る店。
どこか心躍る雰囲気があるのだが、落ち着いた色調の石畳を歩くマリネットの隣で、読み上げられる観光本に応える声は暗い。
「そうだね。はぁ……」
おまけに溜め息つきだ。それは別に茜色に染まる街の雰囲気にうっとりしたわけでもない。
「さっきから溜め息が多いよ?」
「ごめん。でも、ちょっと」
あれから、戻っても結局式は終わっていた。ぞろぞろと各々が散会となって作り出すまさに人波に呑まれそうになりつつほうほうの体で学院の外に出て、マリネットはとりあえずこれから三年間お世話になる寮へと向かっている。
「元気出して。ほら、地図だとそろそろ見えるよ。寮」
「……そうだね。ありがと」
「ふふ。どういたしまして」
「でも、今更だけど千早さん、わざわざ付き合ってくれて……門限とか」
「平気平気。だって、同じ寮だから」
「え」
軽く片目を瞑って言われた言葉に、マリネットは目を丸くする。
こう言っては何だが、意外過ぎ。
「千早さんも寮なの?」
「そう」
「でも、えっと……何で」
「んー? そうね、色々理由ならあるけど……」
「あ。ごめん。つい」
出会ったばかりで踏み込みすぎたかと謝ろうとしたマリネットの唇に、そっと人差し指が添えられる。
「謝らなくていいよ。大した理由じゃないし」
思わずびっくりして黙るマリネットに、彼女は「よろしい」とおどけて胸を張った。
「そろそろ良い歳だし、自分の事は自分で、って思っただけ」
「いい歳って。同い歳でしょ」
「そうよ。だから、ほら、マリネットさんも」
「私はそういうわけじゃ」
奨学生で少しでも安い場所を選ぶのが当然というか。
「同じだよ。家に負担を掛けないってのも、結局自分のことは自分でって事なんだから」
面映い。屈託無くそう言われて何となく恥ずかしい。そんな気持ちから、マリネットの歩みが少し速くなる。
「あ。待って待って」
すぐに追いつかれ、また二人揃って寮を目指す。
(……それにしても、何か)
ちらりと横に目を向ける。茜に染まる街に、東風のアレンジがされた紺色の制服と艶々の黒髪がふわりとなびく様子は、同性でも見惚れそうになるほど綺麗だ。
(そう。綺麗。それはそうなんだけど……)
「早く着かないと。さっき貰った連絡紙に最近この街で変質者が……。マリネットさん?」
「へ? あ、何?」
黒い大きな瞳がこちらを見たと思ったら呼びかけられ、慌てて返事をした。
「多分あれがそうだと思うんだけど」
「え。変質者?」
「違う違う」
指差された方を見ると、それは大通りも終わりの場所。街と隣接する森の間に赤い屋根の二階建が見えた。
壁は街で良く見かけるレンガと漆喰。きっと空から見たらコの字型という少し変わった感じの洋館だ。
半円形の玄関ポーチに、誰かが立っている。
「あ、いらっしゃーい!」
こっちこっち! と明るい声が届く。
「君たちでしょ? 今年の入寮者最後のお二人さんって」
近づくと、どうやら先輩のようだった。羊を連想しそうなふわふわほやほやした長閑な雰囲気を纏う、赤茶色の髪をしたお姉さんで、制服の上からピンクと黄色のチェックエプロンをつけている。
(う。私達最後なんだ……)
「すみません、遅くなって」
「あ! いいのよ~。それは全然気にしなくて。ただ、確認と歓迎の挨拶だから。ようこそ、グースベリー館へ! 私は二年のフィノラ・エルナード。女子部屋の寮長もやってるから、困ったことがあったら声を掛けてね」
フィノラは草原の緑色を宿した瞳で微笑んだ。
「マリネット・フローウェルです。よろしくお願いします」
「うふふ。よろしくね。さ、入って! お部屋に荷物届いてるから」
チョコレート色の両開き扉を開いてフィノラが促すまま広間へ足を踏み入れる。
綺麗に掃除されたフローリング、クリーム色にオレンジストライプと小花の壁紙。いくつか壁に掛かったフレームには風景や動物の写真が入っていた。
クラシックレトロ型の照明は明るいけどまどろむような心地良さがある。
正面奥に階段があり、中段で階段は左右二手に分かれて二階へ繋がっているらしかった。
「こっちよ」
「あ、はい」
見惚れてぼーっとしている場合ではなかったと、フィノラに呼ばれて我に返り少し駆け足で階段へ近づく。
「外から見たらわかると思うけど二階建てよ。あがってすぐは談話室になってるわ。で、右手側が女子部屋。左手側は男子部屋よ」
「あ。この寮って共用なんですね」
「そうよ。なんていうのかしら、寮っていうよりアパートメントみたいなものよね」
「確かに。まぁ、だからってどういう事も無いですし」
「そうそう。ふふ。良かった。受け入れてくれて。この前……去年ね、ここに男の子も住むって聞いたら物凄い勢いで拒否しちゃった子がいて」
ふぅっと仕方なさそうに片手を頬に当ててフィノラが溜め息をつく。
「別に一緒の部屋ってわけじゃないし、お部屋にはカギも掛けられるって言ったんだけど、聞く耳持たなくて……」
「それはまた極端な……」
「ええ。その子、結局は別の寮で空きが出たからそっちに移ったんだけど、と。フローウェルちゃんのはここね」
フィノラが真鍮製の鍵を差し出す。
「これがお部屋の鍵。女子部屋のマスターキーは私が持ってるけど、失くさないでね」
「はい。ありがとうございます」
「んふ。じゃ、一休みしたら一階の食堂に来てね」
鼻歌を歌いながら踵を返し、フィノラが去って、マリネットはふと気づいて辺りを見回した。
「あれ? 千早さん……」
いつの間にか姿が見えない。一緒に玄関まではいた筈なのに? と小首を傾げたが、ひとまず部屋の荷物を確認しようと鍵を鍵穴に差込み解除して、ドアを開ける。
小さく軋む音を立て、開いた先。白地にクリーム色のストライプが入った壁紙と大きな出窓があり、空色のカーテンが掛かっている。側には机とイス、その反対側にベッドがあって届いた荷物が近くにまとめられていた。
窓辺へ近づき、息を呑む。
黄昏の金色から茜へ、そして薄闇の紫へと森が染まっている。空と森が混ざり合う光景に窓を開ければ優しい風が頬を撫でて包み込むような森の香りを部屋へ運び入れた。
胸いっぱいに息を吸って、瞳を閉じる。森の中にいるかのような感覚に心が解れて肩の力が抜けた。
「よし。頑張ろう」
瞳を開けて言葉にする。窓を閉めて、荷解きをしながら部屋を見渡す。
「これ、一人で使うってわりと贅沢だよね」
二人部屋でもおかしくない広さだ。
「今度の休みまでに買い物リスト作っておこっと」
キッチン、お風呂とお手洗いは共用。その分、一部屋の面積は十分に取っているらしい。
クローゼットもあるので必要最低限の家具は揃っている。
あとは個人の趣味でという事らしい。
机の上に書き途中の楽譜の束を置いて解き終わった荷物に頷く。目覚まし時計として持ってきた卵型の時計は丁度夕食時を示していた。
「よし。行こう」
部屋を出てドアを閉めようと鍵を取り出してから、慌ててマリネットは部屋の中へ戻る。
ベッドの上に投げ出したショルダーバックの内ポケットへ手を入れて、小さなキーホルダーを取り出した。
それは自身の胸元にある宝飾とそっくりで、色は幻白色のように光で見せる色を変える。それを鍵につけてから、改めて部屋を出てドアに鍵を掛けた。