第1話:男子校ラグビー部、白い病院の世界へ
おれの高校生活の中心は、ラグビーだった。 放課後のグラウンドに響く怒号と、泥と汗の匂い。決して強いチームではなかったけれど、タックルを繰り返すたびに、自分なりに身体も心も成長してきたという確信があった。激しい痛みに耐えることには慣れていたし、自分の身体の強さには自信を持っていた。 だからこそ、3年生の夏の頃、身体に走った奇妙な違和感を、最初はただの筋肉痛か夏バテだろうと甘く見ていた。 しかし、いくら寝ても体調が優れない。ラグビーの練習すらまともにこなせなくなったおれは、重い腰を上げて近くの個人医院へと向かった。 町医者の引き出しから出された注射器で、血液検査を受ける。数日後、返ってきた言葉は、18歳の耳にはあまりに現実味がなかった。「うちじゃ、原因がわからない。すぐに大きな病院へ行ってくれ」 渡された一枚の紹介状を握りしめ、おれは街の総合病院の門を叩いた。 そこには血液専門の医師がいた。白衣を着たその医師の、あまりに冷静で高度な知識による診察は淡々と進み、おれの予想をはるかに超えるスピードで、あっさりと病名が告げられた。――手術が必要だ。 目の前が真っ白になる、ということはなかった。ラグビーの激しいコンタクトの中で磨かれたおれの観察眼が、今は妙に冷徹に、この現実を計算し始めた。 これから秋に向けて就職面接が控えている。男として自立するために、自動車免許の取得だって絶対に外せない。こなさなくてはいけない大切なイベントが、おれの目の前には山積みだった。幸いにも、医師の診断によれば今すぐ命に関わるような緊急性はないという。「先生、卒業するまで待ってもらえませんか」 おれの願いを聞き入れた医師と相談した結果、すべての予定を終えた高校卒業後の3月、桜が咲く直前のその時期に、おれは入院と手術を行うことに決まった。おれは自分の身体に小さな爆弾を抱えたまま、高校生活最後の冬を駆け抜けることになる。 時は1998年。高校を出たばかりの自分は、まだ携帯電話など持っていなかった。そして、あの白い世界の廊下で、おれは彼女と出会うことになる。
3月になり、高校の卒業式を終えてから数日が経った。 同級生たちがそれぞれの新しい進路や、これから始まる自由な大学生活に胸を躍らせている中、おれが向かうのはきらびやかなキャンパスではなく、無機質な総合病院だった。「じゃあ、行こうか」母がそう言って助手席のおれを促し、静かに車のエンジンをかけた。窓の外には、少しずつ春の気配を帯びてきた街の景色が流れていく。おれは昔から、人一倍怖がりな一面があった。ラグビーで鍛えた身体を持っていても、これから自分の身に起きる『手術』という未知の恐怖に対しては、どうしようもないほど無力だった。車内を流れるカーステレオの音楽も、どこか遠くのことのように聞こえていた。母の前で男としてのプライドから必死に平気なフリをしていたけれど、おれの心の中は、底知れない不安と怖さだけでいっぱいだった。 病院に着き、母に連れられるまま、重い自動ドアをくぐって入院病棟へと進む。一歩足を踏み入れた瞬間、鼻を突いたのはあの独特の消毒液の匂いだった。静まり返った廊下と、バタバタと忙しそうに行き交うナース服の女性たち。そこはまさに、おれにとって完全に未知の、圧倒的なアウェイの世界だった。 ナースステーションの前で待っていると、おれの入院生活をサポートしてくれる、最初の担当の看護師さんが現れた。――その瞬間、おれの心の中で、別の意味で小さな衝撃が走った。 そこに立っていたのは、お世辞にもタイプとは言えない、ふくよかな体型のベテラン看護師さんだった。「厚川と申します、退院まで担当させていただくことになるのでよろしくお願いします」とハキハキと自己紹介してくれた。 「こちらこそよろしくお願いします」と言い返した。 不謹慎だとは分かっている。手術を前にして、命を預けるプロに向かって抱く感想ではないことも自覚していた。けれど、18歳の多感な年頃の男としては、やはり心のどこかで「ドラマに出てくるような美人の看護師さんが担当だったらいいな」と、ふんわりとした、ささやかな期待を抱いてしまっていたのだ。 その淡い妄想は、彼女が「はい、じゃあ畑山君、こちらの病室ね」と事務的でハキハキとした声をあげた瞬間に、木っ端微塵に打ち砕かれた。現実はそう甘くない。おれの密かな期待は見事に裏切られ、代わりに待っていたのは、これから始まる手術へのリアルな恐怖と、ベッドの上にぽつんと取り残される退屈な時間だった。
入院してから数日が経った。 大部屋病室のベッドの上で過ごす時間は、想像を絶するほど退屈だった。まだスマホもSNSもない1998年、お見舞いでもらった雑誌を読み尽くしてしまえば、あとは天井の模様を眺めるか、テレビカードの残量を気にしながら小さなブラウン管テレビを見るくらいしかやることがない。時間が泥のように重く、ゆっくりと流れていくのを感じていた。 そんな退屈な日常のなかで、当然、身体の生理現象はやってくる。 おれはベッドから這い出し、パジャマ姿のまま、静まり返ったリノリウムの廊下を歩いてトイレへと向かった。用を済ませ、部屋に戻ろうと共同の洗面所の近くを通りかかった、その時だった。 ――ピリッとした、奇妙な視線を感じた。「ん……?」 違和感に気づき、さりげなく視線を泳がせる。少し離れた廊下の先から、一人の若い看護師がおれの方をじっと見つめているような気がした。いや、まさかな。自意識過剰だ、おれの勘違いだろう。 そう自分に言い聞かせようとしたが、男としての本能が、一瞬のうちに彼女の容姿のすべてを脳裏に焼き付けていた。 ナース服の上からでもはっきりとわかる、スラっとした抜群のモデル体型。少し離れた位置にいるせいで顔の細かいパーツまでははっきりと見えなかったけれど、その立ち姿だけで、息を呑むような「美人」だということだけは一秒で理解できた。 お世辞にもタイプとは言えない最初のベテラン看護師さんにがっかりしていたおれの心の中に、突如として激しい胸の高鳴りが湧き上がってきた。 どうしよう。完全に動揺していた。 ラグビーの試合で激しいタックルに飛び込むときは一瞬の迷いもないのに、その綺麗な看護師の視線を前にした途端、おれの両手両足の動きは目に見えてぎこちなくなっていった。格好悪い姿を見せたくない。だけど、このまま真っ直ぐ歩みを勧めれば、確実に彼女と至近距離ですれ違うことになる。 年頃のプライドとパニックが限界に達したおれは、彼女の正面から逃げるように、左側にある共同の洗面所へと滑り込んだ。 蛇口をひねり、冷たい水で手を洗う。ジャーという水の音が、バクバクとうるさいおれの心臓の音をかき消して欲しかった。鏡に映るおれの顔は、明らかにきょどっていた。 これでやり過ごせたはずだ。おれは小さく息を吐いた。 ――しかし、水の音の向こうから、スッ、スッ、と規則正しいナースシューズの足音が、おれに向かって確実に近づいてくるのが聞こえた。




