転
IMO所属の探査戦艦は、四国沖・土佐湾の海域に静かに浮かんでいた。艦内は緊迫した空気に包まれている。多くの乗組員たちはモニターと睨めっこをしながら、数日前から続く異常なソナー反応の正体を追っていた。
メリッサは艦橋にて報告に耳をそば立てている。現場総責任者となったからには、どのような情報も聞き漏らしてはならない。
手には、付箋に塗れた新造艦アガスティアのマニュアルが握られていた。
「再び接近中。深度およそ300メートル……移動速度、時速60ノット以上です」
通信室の一等技師マイケル・ユンが青ざめた顔で報告した。モニターに映るのは、海底から浮上する**“何か”**のシルエット。正体は依然不明だったが、それが自然のものではないという確信だけは、誰もが共有していた。
艦長のメリッサ眉間に深い皺を刻み、管制室の全体に号令を飛ばす。
「艦内全区画、非常警戒態勢。無人潜水艇〈アニマス〉を深度400まで投下。データ収集を急いで。もし接触があれば、ただちに浮上せよ」
部下たちは一斉に動き出した。《アガスティア》の甲板では、UUV(無人潜水艇)が次々と海中へと放たれていく。だが――その瞬間だった。
――ズドォンッ!
船体が大きく揺れた。艦内の照明が一瞬暗転し、警報が鳴り響く。赤いランプが回転し、警告アナウンスが繰り返される。
「艦体、右舷下部に衝撃あり! ハッチに圧力反応……これは、何かが、何かが船体に!」
「音響センサーに異常な共鳴波! ――これ、鳴き声です! 深海からの、咆哮だ!」
パニックに近い混乱が広がる中、メリッサはただ一点、艦の外部モニターに映し出された映像に目を奪われていた。
――そこに映っていたのは、黒々とした、無数の触手。
通常のダイオウイカやマダコのサイズを遥かに超える。胴体部分だけでも小型潜水艦に匹敵するほどの巨大な肉塊。その中心には、血のように赤黒く光る瞳が、一つ。
それは、まるで“人”を見ているかのように、知性すら感じさせる眼差しだった。
「……嘘でしょう。こんなものが、海に……」
その瞬間、UUV〈アニマス〉のカメラが最期の映像を送ってきた。
真っ暗な海中に、ゆらゆらと現れる巨大な輪郭。そして、突如としてカメラがノイズに包まれ――次の瞬間には、赤黒い触手が突撃してきて、映像は真っ白になった。
「〈アニマス〉との通信途絶! 沈黙しました!」
「メガオクトパス……っ!」
誰かがその名を口にした。未確認巨大軟体生物――メガオクトパス。かつて南極で目撃されたが、その存在は極秘とされ、公式には「未確認」のまま葬られたはずの海の怪物。その伝説が、今この瞬間、現実として迫ってきている。
《アガスティア》は即座に退避行動を開始した。だが、すでに遅かった。
――ゴゴゴゴ……
船底から奇妙な振動が伝わる。次の瞬間、海面から触手が噴き上がるように跳ね上がり、艦の甲板を叩き割った。鋼鉄製の甲板が紙のようにめくれ、警戒員たちが次々と海中に投げ出される。
「兵装班、応戦! 甲板に展開、主砲を起動しろ!」
メリッサの声が飛ぶが、触手の猛襲は止まらない。モニター越しに見たときよりも遥かに巨大な存在が、《アガスティア》の船体を包み込もうとしていた。
空は灰色に染まり、嵐が近づいていた。雷鳴とともに、海が泡立ち、波が艦を持ち上げる。そして、メガオクトパスの全貌がついに現れた。
――それは“神話”の怪物だった。
黒紫色の皮膚に覆われた胴体。直径30メートルを超える頭部には、吸盤が幾千と並び、一本一本の触手はクレーンのように海上を薙ぎ払っていく。吸盤の裏には鋭利な歯のような突起がびっしりと並び、生きた人間を貪る準備が整っていた。
メリッサは、喉の奥が凍りつくのを感じながら、必死に指令を叫ぶ。
「核電池を隔離しろ! 艦を放棄してでも、これ以上の犠牲は出すな! 離脱できる者は即座に脱出を!」
だが、その声はすでに、海と雷と怪物の咆哮の中にかき消されていた。
《アガスティア》の主砲がようやく火を噴く。1発、2発、命中。しかし、メガオクトパスは怯む様子すら見せず、触手で主砲を粉砕した。
「ダメだ……装甲が通らない! 規格外の強度だ!」
艦内に取り残された研究員たちは、逃げ惑いながらもデータを守ろうとした。メリッサもまた、胸に締め付けるような恐怖を抱えながら、母艦の中枢データを記録媒体に移していく。
「もし、私たちがここで消えても――この記録は、後世に残さねばならない」
その目には、冷静な炎が宿っていた。
そして、メガオクトパスの触手がブリッジにまで達したその瞬間、メリッサは最後の緊急信号を送信する。
――海に、神が現れた。
そのメッセージは、深夜の海を越え、遠くの衛星基地へと飛んでいった。