起
南太平洋、ニュージーランドの北西およそ800キロ沖。
そこは「海の墓場」とも呼ばれ、無数の沈没船が眠る、探査船にとって鬼門とも言える海域だった。
しかし、この日も国際海洋機構(IMO)の新鋭探査船ケリブルスは、波の合間を縫うようにして航行していた。
「ソナー反応、再確認を。…この密度、間違いない。何かが“いる”。」
艦橋でモニターに釘付けになっていた若きソナー技師アディル・ハーンが、息を呑んだ。
彼の前に映し出されていたのは、常識を逸脱した巨大な“熱源”と動く“影”。
それは、地質活動でも海底火山でもない――生物の“心音”だった。
「でかいな……。こんな反応、前例がないぞ。」
艦長のメリッサ・カヴァナーは腕を組み、眉間に深いしわを刻んだ。歳の割に老けたと言われるのはこの癖のせいだろう。
IMOは、気候変動に伴う深海域の異常調査のため、特別チームを派遣していた。
その一環として、この《ケリブルス》もこの海域に送り込まれた。だが、彼らの使命は今や“未知への遭遇”へと変わりつつあった。
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数時間後。
ケリブルスから海中に投入された調査艇の《シグマ3》が、反応の中心部へと向けて出発した。乗り込んだのは、機関士のヨアヒム・ストラウスと生物学者のアイナ・サトウ。
前回の観測では、深度1800メートル付近に“軟体動物のような”特異な動きが観測された。
「イカかタコか、それとも――」
アイナは、自分の言葉に途中で蓋をした。
仮にそれが古代生物の生き残りだとしても、こんな規模は聞いたことがない。
探査艇が目標深度に達したその時、照明の先に“それ”は現れた。
「……見える? この動き……脚? 何本あるの!?」
「八本以上あるように見えるが……巻きついている? 岩に? いや、これは……沈没船か!?」
照明が照らしたのは、沈没した大型船に絡みつく、赤黒い粘膜のような“触手”。
その一本が、不意にゆっくりと、だが確実に《シグマ3》へと動いた。
「離脱する! 全速後進!」
ヨアヒムが叫んだが遅かった。
探査艇はまるで玩具のように、その巨大な何かの“脚”によって持ち上げられた。
次の瞬間、通信がノイズに塗れた。
《……ィナ……これは、やば……ッ!……触れた……熱い……生きて……っ……》
艦橋の全員が顔を青ざめた。
ソナーが示す“それ”は、船を呑み込んだ直後、深海の闇へと再び沈んでいった。
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数日後、《ケリブルス》は国際回線を通じて、IMO本部へ緊急信号を発信した。
即座に「深海脅威存在対策委員会」が設置される。
データは全て送信された。
映像には、確かにそれが映っていた。
半透明の巨大な頭部、皺だらけの軟体に無数の傷。
まるで深海そのものが創り上げた“怨霊”のような存在。
コードネームが与えられた。
メガオクトパス
同時に、国連軍と共同で対処チームが結成される。IMOの現地指揮官として再任されたメリッサは、記者会見でこう語った。
「これは生物ではない。“災害”であり、“神話”です。我々はこれまで神話を笑ってきた。しかし――今、海の底からそれが這い上がろうとしています。」
⸻
一方、深海。
暗黒に沈む《シグマ3》の残骸。
その近くで、何かがうごめいた。
巨大な目が、じっと水面を見上げていた。
それは、記憶していた。
「光」と「音」と「金属」の“味”を。
そして、再び――海が、ざわつき始める