世界の境界
「その本には何も書くことが出来ないんですよ」
とミリーさんは何か得意げに説明を始めた。
まあ確かにペンで文字を書くにしても描きにくそうだし、絵の具を乗せようものなら滲んで下に移っていってしまいそうだ。
「そうみたいですね」
「だからこうするんです」
そう言うとどこからともなく取り出したのは銀色の鋏。見事に磨き上げられていてまるで宝石のようにも見える。それを左手に持つと本のページを掴んでサクサクと切り始めた。
やがて本から一枚のページ、布が切り取られるとそれを机の上に置き、そこへまた見事な金属光沢のある糸が巻きつけられた糸巻きのようなものを置いた。
ミリーさんは外を指さした。
「外は既に満ち溢れているように感じます。それはきっと紛い物かもしれませんし、それとも本物なのかもしれません」
「・・・・はぁ」
「ですが、ここから先の話は貴女にとって凄く大切な事。そして、これから与えられるのは使命でも運命でもありません」
「貴女にとって当たり前のことです」
それが合図だったのかもしれない。糸巻きから糸が自動的に飛び出すと、布の上を伝い、見事で綺麗な模様を映し出した。
「どうですか?綺麗ですか?」
「そうですね、とても美しいと思います」
これには嘘偽りはない。私は描かれた模様を見て、指で感じ、美しいと思った。
「ですが、それは貴女にとって。私にとっては割と普遍的な模様です」
「どういうことですか?」
「何も特別な物ではない。ということです」
「ですが人は特別な物に憧れを抱きます」
憧れは人の行動の原動力になりえる。というのは何となくわかる。けれど、大抵の場合、憧れはいつでもショーケースの中に置いてあるもので、手が届きそうで届かない。目の前にあるのにも関わらず、それを手に入れることが出来ないからこそ、それを持っている人の事を見つめるしかない。
だからこそ、手に入らない憧れを目のまえにして誰もがこう思う。
「相手は自分と同じ人なのに、どうし・・・」
と考えた時、ミリーさんは私の口に指を付けた。
「相手は自分と同じ人。ではないです」
まあ、確かに言いたいことは何となくわかる。けれど、私が言いたいことはそうではないのだけれど。
「相手は自分と違う人です。だから同じことが出来なくても、同じものに憧れなくても、本当はそれでいいんです」
すっと指を布に戻した。
「これ、さっき貴女は美しいと表現した。ですが私はそうでもないと言いました。けれど世界中を探したらこの〝美しさに共感〟してくれる人はきっとどこかに居ると思います」
「じゃあ、それこそ同じ人ってことですか?」
「そうじゃありません。多分感性の問題でしょうね。それが似ているということで同じだという話ではありません」
ミリーさんは少しだけ笑うと机の上に置いてあった私の煙草の箱から1本取り出し、そして火を付けて吸い始め、ため息をつくように紫煙を吐き出す。
「あなたはきっと期待しているのだと思います。きっとこれから何かが始まるかもしれないと」
「・・・」
「そうです。その通りです。ここから始まります。境界領域を超えて違う世界に行ってもらいます」
細長いペンを取り出しその先端をくるくると回してキャップのようなものを外すと中から銀色の裁縫針のようなものが出てきた。そしてさっき使った糸巻きから糸を引き出すと
見事な手つきで針に糸を通して刺繍の施された先ほどの布を手に取り、これまた手際よく縫い始めた。
「何を作っているのだろうか」
心の中でそう思いながらその手の先を見つめた。
「思い出したい物。というよりも思い出さなければいけない事。忘れてしまっていること。それはその人の心の中にあります」
とミリーさんは言った。
「けれど、心の中には意識的に到達することが出来ません。頑張っても出来ないのです。だからこそ、これが必要なのです」
出来上がったのはミトンのようなもの。きちんと手の甲の部分に刺繍が来るように施されていて、しかも左手用に見える。
「あなたは左利きでしたよね?」
「・・・そうですけど」
「はめてみてください」
言われるがまま私は左手を出来たばかりのミトンの中に突っ込んだ。シルクのような高そうな布ではあるが当然薄っぺらい。けれどなぜだろうか、どこか温かみを感じる。
しばらくじっとしているとだんだんと感じるものが出てきた。
これはなんだろうか・・・。
・・・?
脈動?
心臓の鼓動。血液の流れ。そういう感覚が徐々にミトンから感じられてきた。と思っていたら少しづつ、少しづつミトンは、次第に私の手の大きさにぴったりなサイズに変化していく。
「出来ましたね」
ミリーさんはそう言うと私の手からミトンを外し机の上に置くと何を思ったのかマッチ箱を取り出した。中からマッチ棒を取り出し、擦って火を付けるとミトンに近づける。
不思議なことにミトンは煙も火も出ずに本当に静かに燃え始める。
やがて布が燃え尽きる頃、机の上に有るものが残された。
「すごい・・・」
金の糸で作られた刺繍だけが机の上に浮き上がる様に燃え残り、それをミリーさんが慎重に指でつかむと私の方を見る。
「左手を差し出してください。あ、少しだけ熱いかもしれません」
私はゆっくりと言われるがままに左手を差しすと、ミリーさんは手の甲にその刺繍を乗せた。
乗せられた瞬間、熱さを感じたがそれは一瞬だけ。しばらくすると私の体温と同じになり、刺繍は私の手の甲に馴染むように落ち着いた。
左手の手首から5本の指先まで。見事な刺繍が施される。金色の入れ墨を入れたような感じ。不思議な感覚だった。まじまじとその左手を見つめているとミリーさんがそっとささやいて来た。
「さて、これであなたは私の手を取れます」
すっとミリーさんは私の方へ手を伸ばした。