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何の前触れもなく世界が停まった。
だが、エレンが動じることはなかった。
初めから予定通り。
もし、目標の人物がイレイザーズだと分かったら、相手が能力を使う前に勝負をつける。
今日を迎える前、ソウの提案した作戦は、先日の教訓を生かしたものだった。
メイが時間を停め、エレンの怪力で奇襲をする。
シンプルだが確実な答えだ。
「やっぱり、こうなりましたね」停止した時間の中、エレンの手を握っていたメイが言った。「できれば、外れて欲しい予想でしたが」
前回のループで、エレンたちが助けた人がイレイザーズになるのは、これで三回目。偶然と言うには出来過ぎている。それはつまり、この後、マヤの弟のシュウジがイレイザーズになる可能性が高まったということでもあった。
「マヤさん……」
「気持ちは分りますが、今は作戦に集中してください」
「そう、ですね」
メイの手を離し、イレイザーズの男の元へと歩を進めたエレンは拳をぎゅっと握り締める。
あれ? そう言えば、私、人をグーで叩くのって初めてかも?
元来、大人しい性格のエレンにとって、人を殴るという行為は強い抵抗があった。
そう考えると、呵責を覚える必要のない相手であることは救いだった。
「えい!」
右足と一緒に右手を突き出すというド素人丸出しの拳が男の脇腹に突き刺さる。
だが、エレンの怪力ならそれで十分だった。
車が衝突したような音が鳴り、くの字に曲がった男の体が宙を舞う。
そこで停止していた時間が再び動き出し、数十メートル先のプールに特大の水柱が上がった。
「うわっ、えげつねえ……」紙くずのように吹き飛ばされた男を見ながらソウが言った。「あれ、生きてる? 死んじゃってない?」
「敵の心配なんてしてどうするんですか、まったく」
「いや、だってさ。後味悪いだろ? 敵とは言え、一応、人間なんだから」
「自分は、散々、やって来たくせに……」
メイの表情が微かに曇る。
いまの彼女の口振りからして、これまでソウが汚れ役を引き受けて来たのだと想像がついた。
ただ、ソウの心配は杞憂でしかなかった。
何故なら、あの男はまだ生きている。
エレンがそのことを二人に伝えると、メイが口を開く。
「どうして、分かるんですか?」
「加減したので」
「え、あれで!?」盛大に吹っ飛んで行った男の方を見てソウが言う。
「でも、その必要はなかったかも……」
「どういうことですか?」
「あの人を叩いたとき、すごく硬い感触がしたんです。まるで、鉄の塊でも叩いたみたいな……」
エレンがそう答えた時だった。
未だ波紋の広がる水面から飛び出した手が、プールの端に設置されていた梯子を掴んだ。
「本当に生きていたみたいですね……」プールから出て来た男を見てそう言ったメイは、男の姿に目を見開く。「何ですか、あれ?」
男の背中と脇腹からは、二対の手が飛び出していた。
さらには、肌の色が黒く変色し、その姿はさながら二足歩行をする昆虫のようだった。
「うわ、きっしょ」ぼっそっとマヤが声を漏らす。
プールサイドに上がった男は、エレンに殴られた腹を擦ると、こちらに向かって歩き出す。
すると、男の前に居た大勢のイレイザーズが、道を空けるように横へと広がった。
「やってくれたなあ、おい! 待ってろ。すぐに行ってぶっ殺してやる!」
男の無駄に大きな声が、プールに響き渡った。




