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停まった時間の中なら、車道を走っても問題ない。何せ対向車を気にする必要がないのだ。うっかり車にぶつかって、運転手にけがをさせる心配がないのだから、エレンは遺憾なく自身の能力を発揮することが出来た。
諌山家を飛び出しておよそ三分、エレンはすでに駅二つ分の距離を移動していた。尋常ではない速度で移動しながら、エレンが少し目を凝らすと、数キロ先を歩く女性の腕時計の針が見えた。
はは……。
何かもう、人間じゃないよね、これ……。
諦念に似た感情を抱きながら疾走していたエレンは、前方の湖にある市営駐車場に入ると、そこで一気に跳躍する。およそ1kmの大ジャンプ。時間が停まっている今だから出来る荒業。もし人前でこんなことをしたら悪目立ちするだけでは済まないだろう。緩やかに流れる雲を見つめながら、エレンは目的の事故現場に着地する。
すると、「――あ、パンツ?」と子供の声が聞こえた。
眼前を横切る通行人たち、その視線がエレンの翻ったスカートに集中していた。
◆
「――ああ、もう無理! 限界!」
エレンが事故現場に到着する直前、吐きそうな顔でメイが言った。
時間停止という破格の能力、それを維持するのは心身共に大きな負担があった。また、メイの能力は行使した時間の分だけ命を削るという代償もあり、このループする世界でなければ、軽はずみに使えるものではなかった。
エレンの予想到着時刻より、まだ少し早い気もしたが、多分、大丈夫だろう。
「あの化物女なら、これくらい時間を稼げば十分、間に合うでしょ?」
◆
え、何で?
さっきまで時間が停まってたはずなのに?
……っていうか、どうしよう?
下着だけならまだしも、ここまでジャンプして来たのまで見られていたら。
咄嗟にスカートを抑えながらエレンはそんなことを考える。だが、幸い、通行人たちは、エレンが湖の対岸から飛んで来たとは気付いておらず――考えもしなかったのかもしれないが――恥ずかしそうにしているエレンを見て、みんな気まずそうにしてその場を去って行った。
「良かった、見られてはいなかったみたいね」ほっと胸を撫で下ろしたエレンは、次いで内から沸々と湧いて来た感情を口にする。「……恨むわよ、メイさん」
そんな呪詛のような言葉をエレンが口にしていると、スマホに着信が入った。
「エレン、間に合った?」電話の相手はマヤだった。
「はい、メイさんの能力のおかげで……」周囲を見ながらエレンが答える。「でも、あの子供の姿が見当たりません」
「まさか、場所を間違えたんじゃないよね?」
「いえ、そんなはずは……」
エレンがそう言い掛けた時だった。
誰かが彼女の服の裾を引っ張って来た。
「お姉ちゃん、みーつけた!」
その声に振り向くと、見覚えのある男の子がそこにいた。
「あなたは……?」
間違いない。
前回のループでエレンが助けたあの男の子だ。
「マヤさん、見つけました。あの時の男の子です!」
「マジ! やったじゃん!」
「ええ、本当に。……それじゃあ、私はこの子を保護しますので」
「りょ」
マヤが通話を切ると、エレンはもう一度、男の子の方を見る。
間に合って、本当に良かった。
安堵の息を漏らしたエレンは、そこで重要なことを思い出す。
あれ?
保護しますとか言ったけど、そもそも初対面の人にはどうやって話し掛けたらいいんだっけ?
自分が自他ともに認めるハイパー陰キャであることをすっかり忘れていた。
出来れば忘れたままにしておきたかった現実にエレンは愕然とする。
ど、どうしよう!?
このままこの子を放っておけば間違いなく命を落とす。
だが、助けようにも、どうやって声を掛けたらいいのか分からない?
完全なデッドロックだ。
せめてマヤさんが居てくれたら……。
「お姉ちゃん?」
あ、そうだ!
だったら、保護する必要のない状況を作ってしまえいいんだ!
確か前回のループでは、この男の子は突風で倒れて来た街路樹の下敷きになるはずだった。
それをカレンの予知によって、間一髪回避することが出来た。
だから、その街路樹さえなくなれば万事解決するはずだ。
まるで天啓を受けたかの如く顔を上げ、エレンは周囲を見渡す。
すると、
「……あれ?」
件の街路樹はぽっきりと折れており、役所が撤去したのか、そこには根株だけが残っていた。
これはもしかしなくても無駄骨だったのでは?
エレンが悄然と立ち尽くしていると、誰かが服の裾を引っ張って来た。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「え、ええ。大丈夫」そう言って、視線を下に向けると、保護対象のはずだった男の子がこちらを見上げていた。
エレンと目が合った男の子は、にっこりと笑顔を浮かべる。
「久し振りだね、お姉ちゃん」
その言葉にエレンは首を傾げる。前回のループでならともかく、このループではエレンとこの男の子は初対面のはずだ。
「……久し振りって、私たち、どこかで会ったことある?」
「ええ、僕のこと忘れちゃったの?」しょんぼりと上目遣いで男の子が言う。
庇護欲をそそる表情。よく見ると、大変、整った顔立ちをしている。
前回のループでは、事故に巻き込まれそうになったこともあり、そんなことを考える余裕もなかったが、将来は間違いなくいい男になるだろう。
……って、ちょっと待って!?
私、そういう趣味だったっけ?
いや、違う!
私は断じてショタコンじゃない!
危うく性犯罪者予備軍になりかけた自分に肝を冷やしたエレンは、「大丈夫、私は大丈夫」と何度も自分に言い聞かせるように呟いた。
すると、今度は比喩ではなく本当に背筋が冷たくなるのを感じた。
「冷たっ!」エレンが後ろに手を伸ばすと、背中のあたりが凍り付いていた。
「あ、バレた!」
その声を聞いて、エレンは咄嗟に男の子から距離を取る。
すると、彼女の背中に張り付いていた氷がパラパラと砕け落ちた。
「……今の、あなたがやったの?」
「うん、そうだよ」
「あなた、能力者だったの?」
「能力者? まあ、似たようなものかな」
男の子がそう言って両手を横に広げると、その周囲に無数の氷塊を浮かび上がった。先端が鋭利に尖ったそれはまさに氷の矢といった風情で凶悪な殺意がを感じた。本能的に感じ取った命の危機にエレンの集中力が無意識に高まる。
その直後、眼前に浮かんでいた氷の刃たちが一斉に襲い掛かって来た。常人であれば数秒と持たずに血煙となるほどの物量、しかしエレンの目にはそのすべてが止まって見えた。極限まで引き延ばされた時間の中、緩やかに接近する氷の刃たちをエレンは難なく躱して行く。
やがて、最後の一つがエレンの隣を通り過ぎると、時間が本来の流れを取り戻す。同時に、背後で耳を劈くような轟音が鳴り響いた。
おそらく、エレンの背後にあった並木道は、ズタズタに抉り取られていることだろう。だが、それでもエレンは目の前の男の子から目を離すことが出来なかった。
「あなた、一体、何のつもり!?」
「ただの挨拶だよ。……まあ、でも、全部躱されるとは思わなかったなあ。本当に、聞いていたとおりの化物ぶりだ」
「聞いてたって、一体、誰に――」
エレンがそう尋ねようとした時だった。
不遜な態度を取る男の子のポケットで着信音が鳴った。
「はーい、僕だよ。……うん、今、ちょうど目の前にいる。やっぱり、すごいね。まともにやりあったら、僕たちでもただじゃ済まないかも」男の子はエレンを見ながら楽しそうにスマホの向こうの相手と話し続ける。「……え? だったら、帰ってこい? 嘘でしょ!? せっかく面白くなって来た所だったのに!」
それから男の子は通話の相手と二言三言、言葉を交わすと電話を切った。
「終わった?」
「あ、うん。優しいね? 待っててくれたんだ」
「あなたには聞きたいことがあったから」
「ふーん。でも、ごめんね。僕、もう帰らないといけないみたい」
「このまま素直に帰すと思ってるの?」そう言い終わったときには、エレンはすでに男の子に肉薄していた。
しかし、逃げられないようにと捕まえた男の子の腕はあまりにもろかった。パキッと嫌な音がして、文字通り腕と肩が分離する。それを見たエレンは驚愕に声を上げた。そして、彼女が動転している間に、男の子の体は粉々に砕け散ってしまった。
「……逃げられた?」
砂埃のように宙を舞う氷の粒を見てエレンは一人呟いた。




