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最悪な目覚めだったと思った。
だがそれはおかしな夢を見たからではない。
昨日までの自分とは対照的な別の人物の記憶が目覚めた瞬間に頭の中に流れ込んで来たからだった。
(……え、何これ? どういうこと? 私、エレンだよね? 日野森エレン? あれ? じゃあ、この記憶は一体何?)
学校ではクラスメイトの女子たちにハブられ、家では両親から優秀な妹と比較され、毎日毎日肩身の狭い思いをしながら過ごす日々。大学進学を機に、ようやくそんな日々からおさらば出来ると思った矢先、私は事故に遭った。
最後の瞬間、私の一生はこんなものかと諦観しながらも、どこかほっとしている自分が居た。
この先も、延々と同じような劣等感に苛まれながら生きて行くのなら、さっさとドロップアウトしてしまいたいという思いが常に私の中にあった。
それはきっと、どこにでもあるありふれた不幸なのだろう。
でも、私にとっては耐え難い日々の連続だった。
そこからようやく解放される。
そう、思っていたのに……。
生と死の狭間、天国のようなあの場所で転生を促して来た女神に、私は前世の記憶を消してくれるようにお願いした。
こんな記憶を引き摺って再び人生をやり直すなんてまっぴら御免だった。
かくしてその願いは成就され、昨日までの間、私は充実した生活を送ることが出来ていた。
だが、今朝、目を覚ますと、私の頭には前世の記憶が蘇っていた。
捨て去ったはずの記憶、置き去りにして来た過去が猛烈な勢いで今日の私に追いついて来たのだ。
……もう、昨日までの陽キャな自分には戻れそうになかった。
「どうしよう……」
昨日までの私はどうやってみんなと話していた?
記憶を辿れば思い出せるはずなのに、それが自分のものとして認識が出来ない。
いや、自分の記憶なのに、それを受け入れることが出来ないのだ。
あれは私ではないと、心が拒絶していた。
「どうしよう……」再び、同じ言葉を呟く。
机の上の置時計を見ると、午前七時を回ったところだった。
取り敢えず、顔を洗って頭を覚醒させよう。
そう思い、ベッドから体を起こすと、部屋の扉を叩く音がした。
「エレンちゃん、起きてる?」そう言って部屋に入って来たのは、姉のカレンだった。「あら、珍しい! エレンちゃんが自分で起きてるなんて」
ほんわかした調子で笑顔を浮かべたカレンがこちらにやって来る。
それを見て、エレンがびくっと肩を震わせる。
「エレンちゃん?」きょとんとしながら首を傾げたカレンは、その瞳をすっと細める。「エレンちゃん、何かあった?」
「え?」
「何か、様子が変よ?」
「え、え……。そ、そんなこと、ない、よ?」
「ううん、絶対変。エレンちゃんがそんな顔をしてるの、私、いままで一度も見たことないもの」
普段、姉のカレンはもっとおっとりしている。だが、今の彼女の目には、強い焦燥が浮かんでいた。
それだけエレンのことを心配しているのだろう。
そんなことを、どこか他人事のように考えながら、「大丈夫だよ」とカレンは言った。
「ちょっと怖い夢を見ただけだから」
「怖い夢? どんな?」
「忘れていたはずの嫌なことを思い出す夢」
「嫌なことって?」
「それは……」
エレンが口を噤むと、「ごめんね」とカレンが言った。
「無理に思い出さなくてもいいよ。たとえ夢でも、嫌なことだったんでしょ?」
「うん」
「だったら、いいよ。それより、体調が悪くないんだったら一緒に朝食にしよ?」
「う、うん……」そう言ってエレンは立ち上がる。
「ああ、でも、さすがに今日の予定はキャンセルかな?」少し残念そうにカレンが言った。
「今日の予定?」
「忘れちゃった? 二人でお出掛けしようって、約束してたでしょ?」
カレンに言われて思い出す。
今日は久しぶりに姉妹で町まで買い物に出かける予定だった。
(ここで変に断ったら、余計に怪しまれるかも……)
少なくとも、以前の日野森エレンなら、むしろ自分から姉を引っ張ってお出掛けしに行っただろう。
「……大丈夫だよ、お姉ちゃん。ちゃんと、覚えているから」
「本当に?」
「うん」
エレンがそう答えると、カレンが花のような笑顔を咲かせる。
「そっか。良かった。私、ずっと楽しみにしてたから」
この笑顔を見て、昨日までの私なら、何て答えていただろう?
「わ、私も、だよ……」青筋を立てながら、無理やり笑顔を浮かべてエレンが言う。
それを見たカレンに本気で心配されたのは甚だ遺憾だった。