信号機と涼風(好事百景【川淵】出張版 第八i景【涼風】)
「すずかぜ」です。
エンジンをかけると、運転席の窓を開けてからシフトレバーを「D」にあわせる。
アクセルを踏まないでも、とろとろと動くのに任せて。
駐車場の出口まで来たらブレーキで一旦停止して、左右を見渡したのち、ようやくアクセルを踏む。
ここで、開け放った窓から風が吹き込んできた。
ガソリン代にも困るほど、というわけでもないのだが。
あと一週間たらずで給料日ともなれば、なんとかそれまで給油せずに済ませたいと思うもの。
ふだん、こいつに乗るのは片道15分の職場への通勤と、その帰りの寄り道ていど。車に乗るのがあまり好きでもないおれなら、オーディオとクーラーさえ我慢すれば、なんとか、なりそうなものだが。
なんとか、なりそうだは、ガソリンの残量のことで。
クーラーなしでの車通勤が、なんとかなるという意味ではない。
もう9月も終わりで、日没もだいぶ早くなったっていうのに。あいかわらず、昼は暑苦しく、おれはもううんざりしていた。
もちろん、通常の通勤時間である早朝や夕方は、もうずいぶんましになったのだが。
問題は、きょうのような昼出勤の日が、おれには週に1・2回あることだ。
このときばかりは、クーラーなしでの通勤を断行できるものでもない。出勤まえに、汗だくになるわけにもいくまいし。
暑さへの弱音以外の理由を手に入れたおれは、それでも。できるところまではと、クーラーの風量のつまみにのびそうになる指を、なんとか抑えるのだった。
信号機までの間隔が長い、こんな田舎道とはいえ。昼時の交通量なら、ちょくちょくと赤色につかまって、ブレーキを踏む。
車を走らせているあいだは吹き込んできてくれた風も、停車した窓には寄りつかなくなるものだ。
とうとうというか、はやばやと。おれがあきらめて、クーラーをつけようと窓を閉めかけたそのとき。
まだ開いた窓にすべり込むようにして。走行中に吹き込んできたものとはちがう、涼しくも柔らかい風が頬を撫でていくのを感じた。
あちらの風が、ひっかけられた一杯の打ち水だとしたら。
こちらの風は、そそがれたひとすじのせせらぎ。
いつのまに、こんな風が吹くようになったのだろう。
おれは、窓を閉めようとした手をとめ、つぎのせせらぎのひとすじを待ったが——残念ながら、それより早く、信号機は青色へとその光を染める。
アクセルを踏むと、窓からは、ふたたび打ち水のような風が吹き込んで来た。
いいさ、まだ信号機は何箇所とあるんだから。
さきほどひねりかけた、クーラーの風量のつまみに、ちらと目をやれば。
食い物も、服だって、天然ものをありがたがるくせに。風だけは、つくりものを欲しがるだなんて、変な生き物だよな。
自嘲気味な笑みがうっすら浮かび、いつのまにか次の信号機が黄色くなる。
行こうと思えば交差点を渡ってしまえたけれど。後続車にも車間距離があるのをいいことに、おれはやや強引に、車を信号機前で停車した。
黄色い信号機はすぐに、赤色へとその色を変える。
その短い移ろいの時間。
まるで、青い夏から赤い秋への過渡期。
短い黄色い光は、今の季節を象徴しているように思えた。
停車した車の、開いた窓。
あの風がせせらいでくるのを、待ってみたのだけれど。
それが叶うより早く、信号機は何度となくそうしたように、青色を取り戻す。
軽い失望をのせたつま先で、アクセルを踏むと。つぎの信号機こそはと念じながら。また吹き込む風に、おれは顔を打たれるのだった。
クーラーをつけてやろうなんて気は、いつのまにか。
もうどこぞに吹き流されちまっていた。