純然たる邪悪
モーガンの右手には〈拒絶する中結〉と呼ばれる解体包丁が握られている。反りのない真っ直ぐな峰。長さは1メートル弱。 包丁というよりも人殺しの道具という方がしっくりと来る風貌である。
切っ先から代謝する油が滴り落ちて地面を汚している。それは消えること無く地面へと染み込んで、モーガンの手を離れても尚、この世界に影響を残している。
「……ここまで長い道のりだった。 本当に。 あの裏路地で目を潰された日を何度も何度も夢に見るんだ。 あの時、あの瞬間。 お前を殺せていれば、こんな悲劇を起こさずに済んだのではないかとな」
〈拒絶する中指〉を強く握ると、刀身に細かな気泡が浮び上がる。滴り落ちる速度が上がっているのを見るに、火が出ていないだけで、超高温にまで熱せられているのが見て取れた。
「ここで終いにしようか。 フェイスレス。 たとえ、刺し違えてでもお前をここで殺す」
「……っぷ。 いやいや、大層な大口を叩いてるケド。 ……無理だね。 量に質。 どちらも劣る術式に倒せる相手じゃない。 冷静さを失った男っていうのは見ていて腹立たしいよ」
「……コールドウェルの術式で俺を封じさせたのはアンタだと言ったな。 であれば、逆説的に考えればだ。 私の術式はアンタの喉元に迫れる可能性があると言うこと。 アンタはビビってんだよ。 私の術式にな。 強がってはいるけど、内心ヒエヒエなんだってことはよく判る」
モーガンの体に黒い模様が浮かび上がり地面に少し体が沈んだ様に見えた。肉体強化に伴う重質量化である。制約解除の代償として潰した左眼の瞼は凹み、空洞からは血液混じりのアスファルトが漏れ出ている。
封殺術式の中で何をされたかは解らないが、万全の状態で立っている訳では無い事はフェイスレスでも感じ取れた。 恐れる相手じゃない。 容易く斬り伏せる事のできる相手だ。 そう念じても、到底容易く倒れてくれる未来の情景が浮かんで来ない。
「残念だよ。 今まで散々私の邪魔をしてくれて、それに五体満足で息をしてる君を尊敬していたんだがな……封殺術式を手に入れて、私の望んだ世界を一緒に見てほしかったが……どうだ?」
「寝言は寝てから言いな」
女物の香水の匂いとともに太く重たい火花が舞う。 相手の術式を無効化する特性を有した術式が互いを打ち消そうと綱引きをしている際に漏れる青い火花。
互いの魔力剣が衝突して同等の力で打ち消し合っている。人殺しの目をしたモーガンは一切の震えも起こさずに、悪い足場にも関わらず姿勢を崩さない。
(追跡用の術式でもないくせに、少ない制約で同等の性能を発揮できるとは……やはり強いな……この男)
目を覗いて来るフェイスレスを眺めながら、モーガンが口を開いた。
「狩人協会がなんだとか。 無かった世界が見たいだの何だの。 違うだろ? アンタは殺し合いが好きなんだ。 人が苦しむ光景、自身の力で打ちひしがれる他人を見るのが堪らなく好きなんだろ」
2度の閃光に、2度の轟音。互いが振るった斬撃の衝撃にしては重たく、仰々しいものだった。渾身の一撃を双方が凌ぎきった状況である。
「よく知っているよ。 その目。 御託を並べているが、結局は自分の力を誇示したいだけの承認欲求の塊だよ。 お前は」
「幸せは他人と分かち合うものでしょ?」
碧空の中に細かな粒が見える。光を放つ粒の全てが即死に至らしめる殺傷力を有している。
空から目線を戻した時にはフェイスレスの姿はなかった。
「……速いな」
ほんの少し前には光の粒にしか見えなかった術式の輪郭が目前へと迫っている。天使の翼から抜け落ちたかの様な羽毛。
地面に触れた瞬間に炸裂を起こし、砕けた地面のタイルや、吹き飛ばされた建物の端材が弾丸の如くモーガンの体躯に穴を穿つ。
炸裂に乗じて放たれる光のせいで、目に像が残って糸を引いている。感覚で避けたが、体のいたるところに銃創に似た激痛が走る。
感覚で躱したにしては上出来だとモーガンは声を漏らした。すぐさま戦闘不能になる怪我ではない。許容できる負傷で済んでいる。
「モーガン。 君は神のお告げ……神託を受けた事はあるか」
フェイスレスがフードを外して空を仰ぐ。遥か遠く、ここではない何処かを見つめているようで、薬をキメているかの様な目をしている。
「……予知というやつか。 ……無いね、今のところは。 んで? 狩人協会が将来、怪物を克服した世界を創り化け物に向けられた技術が人間に向かうと。 それでなんだ? 大量に人間を殺せば、叶えてくれるのか? 狩人協会の無い世界を。 っはは、馬鹿な話だ」
「違うね。 彼が指し示した道は、自身がその手段となれる方法だ。 上位者というのは知っているかな?」
「人間より高次元の存在か……」
何を馬鹿げた話を。 モーガンは呆れた表情でほくそ笑んでいる。
「……ふふ♡ シラを切るのが下手だねぇ……モーガン。 人間の悪いところは、人類を生態系の頂点として考える傲慢さだ。 君だって普段から見ているだろう。 そう、精霊こそ上位者の片鱗。 上位者と我々人間との中間に位置する存在、君も知っている筈だ」
「……」
「そして、何度か戦っただろう? 上位者へと至る失敗作、あの黒い亡霊」
「傲慢な女だ……人の範疇を飛び出すか、フェイスレス」
モーガンの瞳に紅い光が宿り、鋭さを増した目で睨みをきかせる。この事を知っている者、悪用のやり方を模索する者は抹殺せねばならない。 言葉で語らずとも殺戮者の目がそう叫ぶのだ。
フェイスレスを周辺には赤黒い光の玉が無数に漂っている。 中にはセシリーの連れ帰った悪霊と色が似ている仄暗い光も混じっている。精霊の見える者の中でも理解の深い者はそれらをこう呼ぶ。 内なる神秘性と。
「人間の肉体は監獄だ。 内なる神秘性を閉じ込め、安定させる容器に過ぎない。 精霊はその器を持たずしてこの世に存在を許された存在。 私はこれより、大いなる父の元へと至るのだ。 肉体に封殺された神秘性を解き放った『褒美』として、この世界を俯瞰する存在へと!」
周囲の『内なる神秘性』を取り込みだすフェイスレス。次から次へと彼女の肉体へと沈んで行く。
「……ふふ♡ あぁ……視える! これが、世界……!」
フェイスレスの額に筋が浮かび上がり、血液が漏れ出た。筋に陰影が生まれ、瞳を2つ得た第3の目を開眼させる。
視界の中に居るモーガンの胸から輝く神秘性が漂っている。穏やかな水中で漂う様に揺れる輝く球体。無数の繊毛を纏い蠢く精霊の様な姿。
「君の神秘性すらはっきりと見て取れる……。 これが上位者の世界か……時間さえも、運命さえ全てが干渉できる『事象』に過ぎない……君にも見せたいなァ……」
〈調律の天使〉で出現させた翼の紋様が崩れ、彼女の背中からは、薄く透き通る筋張った翅が生え出てくる。天使の光輪には茨が巻き付き、雨漏りの様に魔力が滴り落ちている。
「……いいや。 私は遠慮しておくよ。 人には余る力だ。 御しきれない力の先に待つのは破滅だけさ。 ……そして、フェイスレス。 お前の存在は今消え去った。 人間としてのお前は今死んだんだ。 〈タール・ボウイ〉 私の左肺を持っていけ。 この供物にて魔力をすぐさま補充せよ」
モーガンの左胸から体液混じりのアスファルトが吹き出してくる。 減ってしまった肺で精一杯空気を吸い込む。 瞼をおろして空へと手を伸ばす。
「……〈嗤え、タール・ボウイ〉。 奴を穿つ力を与えよ」
一瞬だけ満たされた貯蔵魔力の大半を失うと、彼の真上に黒い球体が現れる。〈タール・ボウイ〉であることは確かだが、特殊な形状をしている。
中から油を纏った何かが落っこちて来る。掴むと金属に似た心地の良い高音が周囲に伝播する。精巧に刻まれた六甲紋がびっしりと並んだ長い握り手。 長さが3メートルはありそうな槍だ。
モーガンの鼓動に合わせるかのように六甲紋の溝に光が宿る。光っては鈍く鎮まる。 それを繰り返している。
「〈嘲笑う人差し指〉……! 行くぞ、上位者の蛹よ。 半端者のままで死んでいけ……!」
つづく




