299話 勇者はテンツカの提案をのむ
さっきまでのことが、まるで夢なんじゃないかと錯覚するほど、黒髪の女は音もなく消えていた。
しかし、窪んだ大地が、黒髪の女の存在を証明している。
「はあ、マジでなんなんだよ」
なにがしたいのか、まったくわからない。
無差別なのかどうか、とか、おれも狙われているのか、とか気になることは多々あるが、それはいったん脇に置いておこう。
「アマメ~、無事か?」
名前を呼びながら養豚場を歩いて回ったが、その姿は確認できなかった。
「アマメ~!」
脳裏をよぎる最悪を振り払いながら、大声で呼び続ける。
「成生さん。どうかしたんですか?」
上半身が隠れるほど大きな籠を抱え、アマメが姿を現した。
「よかった。無事だったんだな」
籠には溢れんばかりのとうもろこしが詰められている。
これを取りに行っていたから、巻き込まれずに済んだのだろう。
「無事って……ああ!? ブタさんたちがいません!」
惨状に気づいたようだ。
「ななな、なにがあったんですか!?」
籠を放り出すほどうろたえ右往左往するアマメに、おれはここで起きたことを説明した。
「そんな……あんまりです。ブタさんたちはなにも悪いことをしていないのに」
目に大粒の涙を浮かべている。
「成生さん。その黒い髪の女性は、なんでこんなひどいことをしたんでしょうか?」
「いや、おれに訊かれてもなぁ」
「そうですよね。わかりませんよね」
ガックリ肩を落とされた。
凶行に走った理由を知りたいのだろうが、こればかりはいかんともしがたい。
(いや、待てよ)
わけを知ってそうなヤツがいる。
「おい、ニアマ……あれ?」
さっきまで姿があった場所には、だれもいなかった。
「すみません。ここにいた妖精はどこにいきました?」
「えっ!? なんのことですか?」
近くにいた数人に訊いたが、言葉の詳細こそ違えど、みな同じ反応だった。
(だれも姿を見てねえって……そんなことあんのかよ)
にわかには信じがたいが、ウソをついているようにも思えない。
「成生さん。ボク、少し休みますね」
憔悴したアマメが、足取り重く宿に向かう。
よほどショックだったのだろう。
フラフラしている。
「連れてってやるよ」
アマメを抱え、おれは宿に戻った。
「ありがとうございます」
ベッドに寝かせてやると、すぐに頭から毛布を被ってしまった。
泣き声は聞こえないが、小刻みに揺れている。
(少し一人にしてやったほうがいいかな)
おれがそばにいることで、声を我慢しているのかもしれない。
「アマメ、おれはビシとの話が残ってるから、ちょっと行ってくるな」
返事はないが、聞こえてはいるはずだ。
「帰ったら、飯にしよう。んじゃ、いってくるな」
「いってらっしゃい」
か細い声に見送られ、おれはビシの家に舞い戻った。
「ご苦労だったね」
優雅にお茶を飲みながら、テンツカがおれを迎えた。
が、ニアマの姿が見当たらない。
「もう一人はどこ行ったんだよ?」
「用事を思い出したから先に帰る、だそうだ」
「ビシは?」
部屋の隅で丸まっていた主の姿もない。
「帰るついでに、元居た場所に送るってさ」
(かわいそうに)
アレだけ嫌がっていた空間移動を、再度経験することになったようだ。
「あの黒髪の女について、知ってることがあるなら教えてくれよ」
テンツカを正面に見ながら、ソファーに腰を下ろした。
「残念だが、何も知らない」
かぶりを振られた。
「本当に?」
「ああ。世界は謎に満ちている。だからこそ、面白い」
研究者としての本音だろう。
ただ、それを認める気はない。
なにも知らないなら、慎重に行動するべきだ、などとアドバイスするはずはないのだから。
「君が私の答えに納得していないのは理解している。けど、こればかりはどうしようもない。噓偽りない真実なのだからね」
「仮説すらない……なんてことはないよな」
「仮説……か。それは、どのレベルの話を想定しているんだい?」
「間違っていてもかまわない。一パーセントでも可能性があるなら、教えてくれよ」
「ふむ」
テンツカが目をつぶった。
諸々考えることがあるのだろう。
「駄目だね」
思いのほか、答えはすぐに出た。
「理由は?」
「あまりに不確定すぎて、仮説とは言えないからだね」
「おれはそれでもかまわねえよ」
「私がかまうのさ。ここでしゃべったことがあまりに見当違いだった場合、私は研究者でいられない」
見当違いの発言で信用を失い、研究者としての職を失う可能性がある……ではなく、矜持の問題であるような気がする。
研究者としての意地とプライドがあるからこそ、いい加減なことは口にしたくないのだ。
そして、その気持ちは痛いほど理解できた。
「わかってくれたようだね」
うなずくしかない。
「聡明で助かるよ。ただ、このままじゃ気持ち悪いのは私も同じだ。だから、一つ提案させていただこう」
テンツカの視線が鋭くなり、真剣さがグッと増した。
「君を観察する許可が欲しい」
「観察? 実験に協力しろってやつじゃなくてか?」
「前に言った身体計測うんぬんは忘れてくれていい。こちらが望むのは、この先の観察許可、それだけだ」
たぶん、それにおれの許可は必要ない。
妖精の影響下にある村や街道での出来事は、ある程度把握できるはずなのだから。
(それを求めるということは、なにかしらの意味があるんだよな)
だからこそ、軽々しく返事はできない。
おれ一人ならどうにかできるかもしれないが、いまはアマメがいる。
彼女を守りながらと考えれば、おれのスペックはどうしても落ちてしまう。
「こちらの報酬は変わらない。神界山への入山許可だ」
魅力的だ。
あそこに行けるなら、多少のリスクは負ってもいい。
けど……アマメが心配だ。
「そこに行けば、わかることもあるだろうね」
決断できないおれに、テンツカの言葉が突き刺さる。
それはつまり、行かなければわからないままなのだ。
(行くしかねえか)
黒髪の女が襲った養豚場にアマメがいなかったのは偶然であり、今度もそうなるとはかぎらない。
守る、ためにも、動くしかない。
「決めたようだね」
「ああ。観察される見返りに、おれたちは神界山に行くよ」