278話 勇者にだけ聞こえる聴こえる豚の声
「よ~しよししょし」
アマメが豚を撫でている。
「ブッヒン」
撫でられているほうも気持ちがいいのか、色っぽく鳴いている。
「ブヒブヒ(次はわたしよ)」
「ブヒブヒ(いいや、僕が先だ)」
アマメの周りで小競り合いをする豚の声が、翻訳されて聞こえるのはなぜだろうか。
幻聴だと信じたいが、それはそれで怖い。
「大丈夫ですよ。みんな撫でてあげますからね」
わしゃわしゃ、さすさすが止まらない。
的確に欲しいところを刺激している姿は、まるで職人だ。
「うふふ。いい子ですね。よ~しよしよしよし」
「ブブヒン! ブブヒン!(ヤダ! オチちゃう!)」
たぶんだが、いま撫でているのは、アマメの指を噛みちぎろうとした母豚だ。
あれだけの敵意をみせていた猛者を懐柔したのだから、その進歩は留まるところを知らない。
「あっ!? 成生さん!」
アマメがおれに気づき、駆け寄ってきた。
『ブヒブヒ!』
豚たちが一斉に抗議する。
変換能力がなくなったのはいいことだが、「アマメを返せ!」と言っているのは間違いない。
「ブヒ~ヒブヒ~ヒ(殺っちまうか)」
「ブブンヒヒ(賛成だ)」
恐ろしい言葉だけはいまも理解できるようだ。
そしてなにより、豚たちが本気なのがわかる。
「よっ」
アマメを持ち上げ、柵の外に出した。
「ブヒ~(人攫いよ)」
人聞きの悪いことは言わないでもらいたい。
「ブヒ。ブヒブヒ(おまわりさん。逮捕よ逮捕)」
「ブヒヒン(俺に任せときな)」
イケメンっぽい豚が颯爽と現れた。
が、柵がある以上どうすることもできない。
「ブヒ、ブヒ(くそ、やるな)」
ちなみにだが、おれはなにもしていない。
しいていうなら、アマメを抱えているぐらいだ。
「ブヒ! ブヒ!(いやよ! 連れて行かないで!)」
無力さを悟り、豚たちが泣きはじめた。
「ブタさんたちが、成生さんとの別れを悲しんでますよ」
「いや、あれはアマメと別れるのがつらいんだよ。豚の声が聞こえたろ?」
「あはははは」
一瞬きょとんとしたアマメが、笑い出した。
「ブタさんの声って、そんなの聞こえませんよ」
腹を抱えて笑うぐらいだから、本当にブヒブヒと鳴いてるだけなのだろう。
(そうか。やっぱりアレは、幻聴だったんだな)
そう言われると、豚はブヒブヒとしか鳴いていない。
妄想だとしたら、恥ずかしいかぎりだ。
「ブ~ヒ。ブヒ(お願い。その子を返して)」
「ブヒブヒブ~(この通りだ)」
足をたたみ地に伏せる姿は、土下座をしているように見える。
(ここにいるのは危険だな)
豚が擬人化するまえに立ち去ろう。
「アマメ、そろそろ移動するぞ」
「えっ!? もうですか?」
「安心しろ。いくのは宿だ」
「じゃあ、今日はこの村に滞在するのですか?」
「そうなるな」
アマメの表情が輝いた。
豚のそばにいれるのが、よほど嬉しいようだ。
「じゃあ、明日もブタさんを撫でていいですか?」
「飼い主がいいって言えばな」
「それは大丈夫です。成生さんがお話をしている間に、ボクも飼い主さんの承諾を得ました」
なら、なんの問題もない。
「好きなだけ撫でまわせ」
「やったー!」
「ブヒー(やったー)」
アマメと豚の声がカブッて聞こえた。
(やっぱ、しゃべってんじゃねえか?)
これを空耳や妄想で片付けてはいけない気がする。
が、真偽を探るのもおそろしい。
もし本当にそうだとしたら、通院レベルだ。
「ブタさん。また明日ね」
手を振るアマメを抱えたまま、おれは宿屋にむかった。
「ビシより話は伺っております。どうぞこちらに」
案内されたのは普通の部屋だった。
備え付けの家具も、シングルサイズのベッドが二つと、テーブルが一卓とイスが二脚だけ。
風呂はないが、トイレと洗面台はあった。
驚いたのは、トイレが水洗だったことだ。
樽に入った水の栓を手動で開け閉めして流すだけだが、すごいことだと思う。
洗面台も脇に置かれた樽から水を汲んで使うのだが、あるとないとでは大違いだ。
正直、この部屋を無料で使わせてもらうのは気が引ける。
(まあ、いまさら出て行く、とも言えないけどな)
ベッドに寝転び、とろけるような表情を浮かべているアマメにとって、その一言は死刑宣告に近いだろう。
うつらうつらしてもいる。
「寝ていいぞ」
「置いていきませんか?」
「大丈夫だよ。どこにもいかねえよ」
「約束ですよ」
「おうよ。でも、服を洗いに洗面所にはいくからな」
汚れた服を掲げると、アマメが笑顔になった。
そして、ゆっくりとまぶたが閉じ、小さな寝息を立てた。
腹に薄い毛布を掛け、おれは洗面所にむかう。
「くせえな」
汚物の臭いもあるが、生乾き臭も加わっている。
栓をした洗面台に水を張り、布をこすり合わせる。
(ダメだな)
多少汚れは落ちたが、着れる感じではない。
「石鹸なんかねえ……あった!」
固形石鹸が置かれている。
「おおっ!?」
汚れの落ちがハンパない。
まるで新品じゃないかという白さになった。
「すげえな」
ただ、これは石鹸の力だけではないかもしれない。
神界で用意された服だからこそ、この効果が発揮されたのではなかろうか。
真偽を探るために、べつの汚れた服を洗おうとしたが、そんなモノはなかった。
アマメが持ってきたのは新しい服だけで、汚れたモノは置いてきたようだ。
しいていうなら、アマメが着ている服がそうだが、勝手に脱がせるわけにもいかない。
「しかたねえ。あきらめるか」
自分の服だけ洗濯し、ハンガーに干した。
手持ち無沙汰になったおれは、空いているベッドに腰かける。
「ふあぁぁぁぁ」
あくびが洩れた。
「昨日も十分に寝たわけじゃないし、おれも一休みするか」
横になると同時に、おれの意識はなくなった。