23話 勇者は逃亡した
逃げるに際し、速さは重要だ。
しかし、それ以上に注意しなければいけないことがある。
極力、音を立てないことだ。
(抜き足差し足忍び足)
これが大事。
漫画やラノベでは、枝を踏んだりして音を出してしまうのがテンプレだが、おれはそんなことはしない。
注意深く足元を確認し、確実に地面を踏んでいく。
ゆっくりと、最速で。
(必ず……必ず……逃げ切ってみせる!)
「勇者の兄ちゃん。じゃあね」
母親とともに消えたはずの鼻たれ坊主が戻ってきて、おれに手を振った。
(バカ野郎!)
その叱責も、声には出さない。
いや、出してはいけない。
沈黙は金だから。
「母ちゃんからの伝言で、晩御飯どうですか? だって」
(ガンガンに話しかけてくんじゃねえよ)
おかげで妄想トリップしていたベイルが、現実世界に戻ってきてしまった。
「晩御飯の後は、わたしもどうですか?」
(ベイルよ。鼻たれ坊主は、そんなこと一言も言ってないぞ)
「激しいのね。これじゃあ、あの子に弟か妹じゃなく、両方できちゃうかもしれないわ」
そんなこと言うのは、作られたエロの世界にいるヤツだけだ。
「いいじゃないか。勇者の子孫は多いほうがいい。君との子なら、将来有望だ」
「アホか!」
我慢できず、つい声を出してしまった。
あわてて口を塞いでも、もう遅い。
「もう。責任はとってもらいますからね」
セーフだった。
「あなたなしじゃ……もう寝られません」
(まだ続くのか。恐ろしいな)
背中にびっしょりと汗が浮かんでいる。
「毎晩愛してやるさ」
(それはもう、セックス依存症だと思うよ)
ちなみに、おれはそうじゃないから、毎晩は無理だ。
「バカ。ああっ、激しい」
現実世界に戻ってきたように見せかけて、実はトリップしたままだった。
「もっと激しくするよ」
「ダメダメダメ」
いつまでも続く一人芝居にチャチャを入れてきたが、流石に可哀そうに思えてきた。
信じられないことに、ベイルは自分と奥さんの声色を使い分けているのだ。
(おれには無理だ)
こんな頭の悪い妄想はできない。
できたとしても、表には出さないし、出したくもない。
「俺はもう、止まれない」
(止まったほうがいいと思うぞ)
いまなら、まだ勇者としての尊厳を維持できる。
「ダメダメダメ」
(ほら、奥さんも嫌がっているじゃないか)
「本当にダメなのかい」
…………
なぜか、ベイルが一拍の間を置いた。
「気持ち良すぎるからダメなの」
「アホがっ!」
いろんなモノが萎え、心の奥底に落ちていった。
「いいんだね」
ただ、ベイル的には好みのシチュエーションなのだろう。
さらに燃え上がっている。
(ダメだ)
ここに居続けたら、精神が崩壊してしまう。
「…………」
ベイルがなんか言ったが、小さすぎて聞き取れなかった。
(まあ、聞きたくもないから、問題はないけどな)
おれは、再度逃げることにした。
「教えて。いいのかい?」
ベイルは聞きたいらしい。
(マジでダメだ。こいつとは、とことん相性が悪い)
「ああああああっ」
よくはわからない。
わからないが、叫ぶ直前にベイルがうなずいたので、奥さんは許容したのだろう。
素晴らしい妄想の世界だ。
素晴らしすぎて、涙が溢れてくる。
これ以上は、どうしたって無理だ。
「いいよ。行っといで」
目じりに溜まった涙を拭い、おれはベイルの背中を押した。
「いいの?」
「ああ。呼ばれているのが勇者なんだから、お前が行くのが当然だ」
これでお別れだ。
そして、二度と会うことはない。
会ったとしても、無視を決め込もう。
「ありがとう」
村に向かって一歩踏み出すベイルに、鼻たれ坊主が言った。
「お前じゃない。母ちゃんとぼくが来てほしいのは、後ろの勇者様」
ビュン、と風を切り、おれは猛スピードで走り出した。
(音を立てちゃいけない?)
そんなことにかまっている場合じゃない。
大事なのは速さだ。
一にも二にも、スピードだ。
(掌返し? 二枚舌?)
批難するならすればいい。
謝れと言うなら、謝ろうじゃないか。
「ごめんね。ごめんねぇ」
これで文句ないだろう。
あっても、受け付けない!
「さらばだ!」
おれは森を一目散に駆け抜けた。
本気なら、逃げられるはずだ。
「待てゴラ~」
ベイルの叫び声がする。
声が聞こえるということは、そんなに離れていない証拠だ。
ガシャガシャ音もする。
これは、ベイルが身につけていた鎧が奏でる騒音だ。
間違いなく、ヤツは追ってきている。
「許さんぞ!」
声も遠のかない。
さすがは勇者。
身体能力もずば抜けている。
「八つ裂きにしてくれる!」
(ヤバイな)
発する言葉が、勇者のそれから逸脱してきた。
「お前は、もう少し立場を考えろよ」
「一人の人間として、間違ったことは言ってない」
マジでヤバイ。
会話が成り立っているということは、距離が詰まっている証拠だ。
こうなればしかたがない。
奥の手を出そう。
「地球のみんな。おれに元気を分けてくれ」
両手を上げることは出来ないが、力がみなぎってきたような気がする。
「ブーストオン!」
近未来のモータースポーツよろしく、おれは加速した。
このとき、後ろを確認してはいけない。
その無駄な動作が、減速に繋がってしまうからだ。
視線を切ったがゆえに、障害物にぶつかる可能性もある。
木やモンスターぐらいなら弾き飛ばせる気もするが、一分一秒を争ういま、そのロスはいただけない。
「絶対に逃がさんぞ。首を洗って待っておけ」
おどろおどろしいベイルの宣告を後ろに、おれはただ前だけを見て、ひたすら走った。