216話 勇者は火事に遭遇する
薄暗い路地を抜ける前から、木材が焼けるような臭いはしていた。
焦げるようなそれは、火災現場で嗅ぐモノに似ている。
(まさか……なぁ)
考えたくはないが、大通りに流れ込む黒煙は、その可能性が高いことを示していた。
「逃げろ! 火事だ! 逃げろ!」
避難誘導する声が、嫌な予感の的中を告げている。
「ちっ」
グルドに戻るためには人波を逆流しなければならないが、むずかしそうだ。
両手に抱える荷物が、それをさらに困難にしている。
(捨てちまえ!)
と言えないところがもどかしい。
水と干し肉はどうでもいいが、書類とミノタウロスの牙は絶対に必要だ。
金もなくては困る。
「かくなるうえは……カナ、こっちこい」
おれは路地裏に戻り、カナをお姫様抱っこした。
「何すんだ!?」
「黙って荷物だけ抱えとけ」
おれは屋根に飛び乗った。
当然だが、見渡すかぎりだれもいない。
ここなら、だれに遠慮することなく進める。
「マジかよ!?」
黒煙の上がるほうに行けばいいと思っていたが、燃えているのは一か所ではなかった。
あちこちで火の手が上がっている。
「グルドは……」
「あっち」
カナの案内に従い、屋根伝いに飛び移っていく。
ガチャガチャ音のする袋から硬貨が飛び出しそうだが、気にしていられない。
いまは一刻も早く、戻ることを優先するべきだ。
望みは薄いが、グルドが無事な可能性だってある。
「ダメか」
火の手があがる店を確認し、おれは肩を落とした。
「あそこ!」
カナが指さす先には、子供たちの姿があった。
安全そうな場所で身を寄せ合っている。
ぱっと見だが、全員いそうだ。
「大丈夫か!?」
『お姉ちゃん!』
すぐそばに降り立つと、駆け寄ってきた子供たちがカナに抱きついた。
「ご無事だったんですね」
奥さんがおれたちを見て、胸を撫でおろした。
けど、若旦那の姿が見当たらない。
「旦那さんは?」
「あの中に」
奥さんが燃え盛る建物を指し示した。
その手は震え、瞳には涙が溜まっている。
子供たちを不安にさせないため、泣き叫びたい気持ちをぐっと抑え、必死に我慢しているのだろう。
「これ、預かっておいてください」
硬貨の入った袋を地面に置き、おれはグルドに飛び込んだ。
店内は炎と煙で充満していた。
普通なら死ぬか大ヤケドは免れないだろうが、短時間なら魔素でどうにかなる。
と思っていたが、
「アッチ!」
熱いモノは熱いらしい。
「ヤベェな」
このままなら、一酸化炭素中毒もありうる。
「旦那! どこだ!? 生きてるなら返事してくれ!」
…………
反応がない。
客席に人の気配はないし、厨房は火の手が強く近づけない。
「旦那! いるんだろ!? 応えてくれよ」
火の勢いはどんどん加速していく。
このままでは、二次被害にあうのも遠くない。
「くそっ……んん!?」
あきらめて戻ろうとしたとき、小さな音が耳に届いた。
バチバチと燃える中で、壁を叩くようなドンという音がする。
「あそこか!?」
厨房に隣接された控室。
そこから音がしていた。
壁を突き破れば厨房を通らずに行くこともできるが、その衝撃で建物が崩れる危険性も捨てきれない。
けど、迷ってる時間はない。
(ダメならダメで、そのとき考えればいいよな)
やらずに後悔するより、一秒でも早く行動すべきだ。
「でりゃ!」
顔の前で腕をクロスさせ、壁に体当たりした。
突き破ったそこには、若旦那と逃げ遅れた幼い男の子がいた。
「ほかに逃げ遅れたのは?」
若旦那がかぶりを振る。
「よし。んじゃ、逃げるぞ」
二人を抱え外に飛び出した瞬間、建物が崩壊した。
間一髪だ。
「あなた!」
「だ、大丈夫……だ」
言葉とは裏腹に、若旦那の声は弱弱しく、表情も苦痛に歪んでいる。
「いや、大丈夫じゃねえだろ」
右腕にヤケドのような外傷もある。
「ははっ、そうかも」
力なく笑い、若旦那は意識を失った。
「おじちゃん、大丈夫?」
助けた子供が、心配そうに若旦那を見ている。
「大丈夫よ。ほら、みんなのところに行きましょう」
涙をこらえるように唇を噛み、奥さんが子供を避難させた。
気丈な振る舞いに心が痛む。
かつ、こんな事態を引き起こしたやつらに、怒りが込み上げる。
(マケ・レレのやろう! 絶対許さねえぞ!)
いますぐ殴りに行きたいが、若旦那を放っておくことはできない。
このまま放置すれば、死ぬ可能性だってある。
「ヤケドの応急処置は……冷やすことだよな」
魔法でそれができるかわからないが、試す価値はある。
(イメージとしては冷感シートを張る感じ……でいいよな?)
魔素なら張り付かないし、消すのも簡単だ。
「頼む。正解であってくれよ」
回復魔法にアイスショットをプラスした魔素を、若旦那の右腕に這わせた。
苦痛に歪んでいた顔が、少しだけ穏やかになった……ような気がする。
「ここは危険です! 離れてください!」
消防隊がやっと到着した。
「ケガ人がいるんだ。医者に運んでくれ」
「わかりました。おい、担架を持ってこい」
「了解!」
消防隊の機敏な働きによって、若旦那は病院へと搬送された。
これで自由に動ける。
おれは一目散にゲルのあった広場に戻った。