1話 勇者見参
最初からとはなりますが、再度お付き合いください。
それと、途中から視点が変わります。
異世界。
名も知らぬそこには、邪神殿に続くと云われる、底なし沼が存在した。
真偽は定かでない。
というより、知る術がなかった。
触れた者を三日と待たず壊死させる強力な毒と、同成分を内包したガスが湧き上がる現地を調査できる者など、この世には存在しなかった。
人や動物にできることは、せいぜいが沼から一定の距離を取ることだけだった。
しかし、動けぬ植物や大地には、それすら叶わない。
結果、汚染が広がり、沼は肥大の一途を辿った。
放っておけば、やがて死の星になる。
それは周知の事実であったが、無力な者たちにはどうすることもできなかった。
あきらめ、死を待つことが運命だと定められた世界。
そこに救世主が現れるのは、必然だったのかもしれない。
その者は不世出の偉大な僧侶と崇められており、多大な神通力を有していた。
死と隣り合わせの過酷な修行で身につけた神通力であれば、沼地に結界を張り巡らせることも可能である。
しかし、その行為は僧侶自身の命と引き換えにしなければならなかった。
代償の大きさに、多くの弟子たちが反対した。
ある者は自分たちが成長し、僧侶の傍らを担う時間をください、と具体的な提案とともに懇願する者もいた。
彼らにとって、僧侶はかけがいのない人物にほかならないのだ。
向上心と優しさを兼ね備えた弟子たちが集まる光景に目を細め、僧侶が口を開く。
「あなたたちの中にある教えは、わたしその者です。たとえこの身が滅んでも、それが消えることはありません。それはわたしの宝であり、唯一誇れる財産です。そして、この身一つで済むのなら、それが最上です」
その笑顔に虚飾はなく、どこまでも澄み渡っていた。
弟子たちはそれで知るのだ。
僧侶の決意が固いことを。
「では、いってきますね」
いつものように出かける後姿を、弟子たちは涙を流して見送ることしかできなかった。
「言い伝えは、本当でしたね」
沼地には邪神殿が顕現し、世界を混沌の渦に落とすであろう、異形の邪神が復活せんとしていた。
しかし、そのときはまだ遠く、今は両目までしか出ていない。
「ぅぶっ」
沼の淵に立っているだけで苦しいのか、僧侶は込み上げるものを抑えるように、口に手を当てた。
「時間がありませんね。ハアアアアアア!」
神通力を解放し、僧侶が沼地を結界で囲い始める。
「ハアアアアアア!!」
僧侶の神通力が増すと同時に、異形の邪神の目が吊り上がり、ゴポゴポと大量の気泡が沸き上がった。
なにか言葉を発しているのだろうが、それが耳に届くことはなかった。
結界が完成し、邪神殿ともども、異形の邪神を封じ込めることに成功したからだ。
「……よか……った」
安堵の表情で芝生に倒れ、僧侶は静かに息を引き取った。
浸食された大地も年月とともに清浄化され、沼は元の大きさへと戻っていく。
命を賭して得た僧侶の功績に皆が咽び泣き、親から子、子から孫、孫から曾孫へと、代々語り継がれる英雄譚が生まれた。
しかし、いつからかそれは空想の英雄譚へと変遷され、僧侶は空想上の人物に化けてしまった。
近づいてはいけない沼も、近づかなければ『安全』な沼と誤認されてしまう。
だから、変化に気づけなかった。
僧侶の死から三〇〇〇年のときを経て、それが顕著になった。
穏やかだった水面に気泡が浮き、気化した毒が結界内部の毒素を濃くしていく。
長い年月をかけ毒の耐性を持った木や草も茂っていたが、無残に枯れ朽ちた。
強毒化したガスが風船を膨らませるように、結界内部の圧力を上げていく。
それが爆発し毒ガスが散布されれば、取り返しがつかなくなるだろう。
未曽有の危機がすぐそこにあるのだが、ヒビ一つ入らない結界が、それを感じさせなかった。
なにも変化はない。
世界は平和である。
だれもが、そう思っていた。
しかし、沼から異形の邪神の手が這い出したとき、それが間違いだと気づいた……はずだった。
春……草木は芽吹かず、異形の邪神の手が肘まで出てきた。
夏……暑さは届かず、異形の邪神の顔が出てきた。
憎しみに目は吊り上がり、唇を苦々しく噛みしめている。
秋……木々は色づかず、異形の邪神の胴までが這い上がってきた。
結界の高さにはまだ余裕があるが、異形の邪神がその姿を現すごとに、ガン……ガン……ガンと突き上げるような音を響かせている。
冬……雪は積もらず、異形の邪神がその全貌をあらわにした。
「ガアアアアアアアア!!」
沼から這い出した異形の邪神が、大気を震わす咆哮をあげた。
「口惜しや! 我を封ぜし僧! その姿を見せよ! 我が引き裂いてくれる!」
異形の邪神が地団太を踏むごとに、飛散した毒が大地を汚していく。
「どこだ!? どこにいる!? 出て来い!」
すさまじい怒気が拡散され、結界にヒビを入れた。
「貴様の代わりに民が死ぬぞ! それでもよいのか!?」
異形の邪神は知らないのだ。
自身を封じた僧侶はすでに死んでいて、どれほど再会を望もうとも、それは叶わぬ夢であることを。
「出てこぬか。いいだろう。魔界で蓄えし我が力、とくと味わうがいい」
異形の邪神から、紫のオーラが立ち昇る。
「爆ぜろ!」
球となった紫のオーラが、結界内で跳弾を繰り返す。
少しずつではあるが、ヒビが大きくなっていく。
「我が力はこんなものではないぞ」
球は大きさと数を増していくが、結界を割るにはいたらなかった。
「忌々しい」
歯噛みし、異形の邪神は結界内を飛び狂う球を一つに集約させた。
「これは貴様を殺すために編み出したモノだが、手始めに貴様の結界を砕いてくれる!」
球が先端を尖らせていく。
さしずめそれは、弾丸のような形をしていた。
「くらえ!」
撃ち出された弾が結界に激突し、地響きと共に爆煙を舞い上げた。
持ち堪えた……そう思った数舜後、パリンッとガラスが砕けるような音とともに、結界が割れた。
「アッハッハッ。貴様が来ぬなら、この世界を死に染めてやろう」
「んなことさせねえよ」
「来たか」
異形の邪神が舌なめずりをし、憎き僧を探す。
「どこだ!? どこにいる!?」
「ここだよ」
異形の邪神が空に視線を移すと、太陽と重なるようにその人物はいた。
「違う」
シルエットが僧侶のそれでないことに、異形の邪神が怒りで顔を染める。
「我の相手は貴様などではない!」
毒霧が濃くなり、急速に広がり始めた。
触れた樹々を枯らし、動物たちも泡を吹いて倒れていく。
「フォールシールド」
天から舞い降りた男によって、壊れたはずの結界が瞬く間に張り直された。
しかもそれは驚くべきことに、僧侶が張ったものより広範囲に展開し、毒霧をすべて覆っている。
「馬鹿な!?」
驚く異形の邪神を尻目に、倒れた動物たちが起き上がり、逃げ去っていった。
「貴様……何者だ!?」
不世出の僧侶にも成せなかったことを成す男を、異形の邪神も無視はできなかった。
「お前に名乗る名はない。ただ一つ言えるのは、おれはフリーランスの勇者だ!」
天から舞い降りた男は、そう言って剣を構えた。
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「ふははははは。名乗る名はない。などとほざいたくせに、フリーランスと名乗っているではないか」
高笑いする異形の邪神を、バカにする気はない。
ここは日本とは違うのだ。
フリーランスという概念はあっても、そう名乗る者はいない。
剣と魔法の世界だから、名乗るとしたら冒険者や旅人である。
だから、異形の邪神がフリーランスを名前と勘違いしたのも納得できるし、訂正する気もなかった。
というより、訂正している時間がない。
「いくぞ。覚悟しろ」
一応宣戦布告だけはして、おれは異形の邪神に斬りかかった。
「ば、馬鹿なっ!?」
一瞬で左腕を切り落とされた異形の邪神が驚愕する。
「せいっ!」
返す刀で右腕も落とした。
「グアアアア。おのれおのれおのれ! 貴様! 許さんぞ!」
苦痛に顔を歪め、異形の邪神がおれをにらんでくる。
(激ギレだな)
逆立てた目が、真っ赤に血走っている。
「楽には殺さんぞ。ジワジワと痛めつけ、毒の苦しみで生き地獄を味わわせてくれる」
異形の邪神が、周囲の毒霧と沼をその身に取り込んでいく。
「恐怖に慄け! ダグライブ」
両腕が再生した。
(いや、違うな)
再生というよりは、生え変わったと表現するほうが正しい。
さっきまで生えていた黒い鱗のようなものに覆われた腕ではなく、汚水が滴るヘドロの塊ようなモノに成り代わっている。
ピチャ……ピチャ……と汚水が地面に落ちるたびに土が窪み、周囲の芝生を朽ち枯らせていく。
状況から察するに、すべての攻撃に毒属性が付加されたと考えるべきだ。
おれ自身毒を無効化することはできないが、大きな問題はない。
現状、呼吸するだけで毒を吸っているのだ。
もし問題があるなら、すでに倒れている。
感覚として若干のダメージを受け続けている節はあるが……大丈夫だ。
「フハハハハハ、苦しそうだな」
「いや、全然余裕だよ」
ダメージは蓄積されているが……乗り物に酔ったから少し気持ち悪いな……程度である。
「フハハハハハ、やせ我慢とは立派ではないか。だが、我が受けた痛みはそんなものではないぞ」
「なら、大したことねえだろ」
「なんだと!?」
異形の邪神は大いに不満らしい。
元から逆立っていた瞳を、さらに釣り上げている。
(いや、お前の毒、たいして効いてねえんだよ)
などと説明するのも面倒臭いので、おれは無言で斬りかかった。
「ギャアアアア」
左肩から袈裟斬りにされ、異形の邪神が苦痛の悲鳴をあげる。
「貴……」
様まで言わせず、もう一度斬った。
トドメを刺すつもりで薙いだのだが、異形の邪神もその名に恥じぬ存在であるようだ。
まあまあの反射速度を披露し、致命傷は避けていた。
「世界の半分を貴様にやろう。だから、我と手を組め」
突然、異形の邪神がそんなことを言ってきた。
相手にするつもりはないが、確認は必要だ。
「手取りでいくら貰える?」
異形の邪神が首をひねった。
「まさか……答えられないのか?」
「いや、手取りって……世界の半分と言ってるではないか」
「絵空事を語るな! 具体的な給与額を提示しろっ! 大体、いまを以て世界を手に入れていないお前が、なぜその半分をくれてやる、などとのたまうことができる!?」
「それは……我と貴様の力をもってすれば、こんな脆弱な世界……いとも容易く……支配……できるだろう」
しどろもどろも、ここまでくるとどうしようもない。
これでは交渉以前の話だ。
「言葉が弱い! そして未来設計がダダ甘だ! よって、お前と雇用契約を結ぶつもりはない! さらばだ!!」
「いや待て。もう少し話を」
「バカが。交渉は打ち切られたんだよ。もし再開したいなら、より有意義で具体的な提案を示せ」
「ぐううッ」
唸るだけで二の句はなかった。
「殱魔斬!」
おれの繰り出した必殺の一撃が、異形の邪神を縦一文字に切り裂いた。
「バカな。バカなぁぁぁぁぁぁ」
断末魔を残し、異形の邪神は消滅した。
「終わったな」
刀を鞘に戻し一息つくと同時に、おれの身体は空気に溶けるように色彩を失っていく。
それほど苦しい旅ではなかった。
けど、楽しいこともなかった。
「どちくしょー」
精一杯の恨みを吐き出し、おれはこの世界から消えた。