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プロローグ・フォース


 勉強の期間は長いようで短かった。

 二か月――ニゲラと過ごしているとスティーにとってはあっという間で、時間の進みがこの神殿内でだけ変わっているのではないかと錯覚する程だ。色々な事を学んでいくと同時にニゲラとその従者たちとの親睦も深め合い、とても楽しかった。

 もっと過ごしていたいけれど、そうも言ってられないのが現状だ。

 勉強しに来た。勉強が終わったら次の項目――ある程度の自己防衛力を付けること。

 バースという女神が自己防衛力を自分に備えさせてくれるそうだ。

「名残惜しいね」

 ベッドから降りて着替えているスティーを眺めながらニゲラは言った。

 それに対して、スティーはぴたりと動きを止めて寂しそうな顔をする。

「……私もですよ」

 目線は合わせず、背中を向けて同意する。

 目を合わせたらますます離れたくなくなりそうだからだ。色々な事を教えて貰った――好きになった。

 これが今生の別れじゃないのは分かっている。いつか会えると信じていれば、会える時が必ず来るとニゲラは言っていたが、本当にそうかな? と疑問を浮かべてしまえば――やっぱり離れたくないとスティーは我儘を言いたくなってしまった。

 ――一緒に過ごした日々が頭から、離れない。

 冒険家ストイリ―は「一期一会、一度きりかもしれないからこそ、その個人との交流は濃密でありたい」と言っていた。

 本当にその通りだと心の底から思う――その文章の意味をずっと考えていて、ここでようやく学んだのだ。

「下界の事で教えたのは言語と、下界の人間たちが初等教育、中等教育で学ぶような基礎的なものだ。応用的なものは現地で学ぶのが一番いいと思う」

 話題を変えて気を紛らわそうとしてか、ニゲラが言った。

「はい」

「母さんと一緒に行くんだし、母さんが色々な事を教えてくれるだろう。実際に見て、感じ、そして学ぶのが良いさ」

「さっきと同じようなことを言っていますね」

「……話を長引かせたいのは、ダメなことかい?」

 スティーは目を丸くした。

 同時に着替えが終わり、振り返って見るとニゲラは寂しそうな顔をしており、手を後ろにやっていた。恐らく彼女の手は今、指遊びをしているところだろう。それはニゲラが何か後ろめたい時がある時にやりがちな癖。

 やや頬が紅潮している。

 涙が少し出た――我慢しようとしていたはずなのに。

「また会ったら、いっぱいお話ししましょう? シエラ様も一緒です。そしてこれから仲良くなっていく人たちも含めて沢山、それまでにあった事をいっぱいいっぱいお話しします!」

 これはよくない。ますます別れが恋しくなってしまうのは明白だ。

 いや、これでいい。これで、いいのだとスティーは頭を振った。

「…………――――一つだけニゲラ様に、言えなかったことがあるんです」

「なんだい?」

「私は――――私が例えルアンさんの生まれ変わりだとしても、ルアンさんではありません……ごめんなさい」

 授業を初めて受けたあの日の就寝後、ニゲラが寝言で言っていた「君がルアンの生まれ変わりだったのか」という言葉。

 否定するべきだったのか迷った。合わせるべきかとも迷った。分からなかった。

 ――――ニゲラは言った。

「寝言を聞かれてしまったのか……恥ずかしいね」

 そう言うとニゲラはバツが悪そうに、苦笑した。

「――ごめんね。君の体温を感じていて、抱き締められていて、どうやら過去の夢を見ていたみたいだよ。私の大切な親友でもあったんだよ、ルアンという子は……。ははは……は……急に自分語りして私はおかしいね」

「おかしくなんてありません」

「……分かってるよ、別人なのは。でもさ……でも、重ねてしまうのは許しておくれ……」

 スティーはそれを聞いて、黙って両腕を広げた。

「ルアンさんになることは出来ません。でも代わりにはなります。次あった時は――いえ、会う度会う度にニゲラ様が求めてくださるというのなら、私はこうやって受け入れますから、ニゲラ様――構わず抱擁を」

 約束です、とスティーは言い切った。

「じゃあ――」

 ニゲラはスティーの胸に飛び込んだ。


「今、出来そうだから出来るうちに。ありがとう、スティー。大好きさ」

 そして、ニゲラは抱擁を終えた後に、スティの首へと首飾りを飾らせる。

 蒼玉の中に金でニゲラの象徴画が埋め込まれた首飾り――それを受け取ったスティーは「大切にします」と強く決意を述べた。


 * * *


 神殿の大門前にて、スティーはニゲラに向かう方角を教わっていた。

「西に向かう。そうするとバースが統治する街に到着するよ」

 距離があるらしく、馬車を手配してくれるそうだ。この街に来るときの馬車とは違う馬車みたいで、どんな人が御者をやっているのか気になる所。

「バースが統治する街の天使が御者を務めているよ。バースの事は彼女から聞けばいいさ」

「怖い方ですか? バース様は」

 スティーが不安そうにそう聞くと、ニゲラは首を横に振った。

「優しいよ。戦闘神の一面は持ってるけど、回復を司る神で子供好きの情が深くて感動ものの物語に物凄く弱いんだ。おまけに料理の達人で、バースの料理を食べたらもう頬が落ちるね」

「好きなんですか? 褒める言葉がスラスラと出て来そうな勢いですけど……」

「……っ」

 スティーの言葉に、ニゲラは一気に顔を赤くした。

 何とも可愛らしい表情をするのか、指摘を受けた途端に「違うんだ違うんだ」と小声で否定しているが、後ろに手をやっている時点で好きという気持ちが隠せていない。

 ニゲラが好きになる女神というのだから、きっと良い神様であることは間違いない。

 どんな神様なのだろうかと想像してしまう。戦闘神の一面があるというから少し不器用ながら優しい感じか、それとも少しお転婆であるとか? ――スティーの頭の中では色々な人物像が思い浮かんでいた。

「くっ……スティーも今に分かるさ……!! それとも何だい? 君は複数人を好きになるのを悪とする類の人なのかい?」

「そんな事はありませんよ? 私、ニゲラ様だけじゃなくてシエラ様の事も好きですし、複数人を好きになることぐらいあると思います」

「そ、そうかい? 良かった良かった」

「やっぱり好きなんですね」

「ハッ!? 謀ったな……」

「ふふふ……じゃあ、もう行きますね」

「くぅーーーーっ! 嵌められたね……」

 そして、ニゲラはスティーに「また会おうね」と一言述べた。

「はい! 行って来ます!」


 ニゲラから言われた場所に行くと、馬車が停まっていた。

 御者席には天使の女性が本を読みながら暇を潰しており、どれほどの時間を待たせてしまったのか想像すると申し訳なく思った。

 少し地味目の天使だ。丸い黒縁の眼鏡を掛け、髪色は黒く前髪は横真っ直ぐに切り揃え髪自体の長さは肩に届くか届かないかの境目程度までで、本で読んだ限りでは確か「おかっぱ」という名称が付けられていたと記憶している。服の色も上下共に黒一色で、少し近寄りがたい印象だ。背中に生えた翼だけが白い。

 読む速度は遅いみたいで、スティーの二分の一以下だ。一頁につき一分以上もの時間を掛けており、ゆっくりとした人物であることが窺えた。眼鏡の寸法が合っていないのか、ずり落ちては人差し指で金属部分を持ち上げ元に戻すを繰り返している。

 邪魔をしてはいけないだろうか、と迷った。

(いえいえ、バース様を待たせてしまう訳には……)

 本を読んでいる彼女の下にゆっくりと近づいて、話し掛けようとした。

「あ、あの……」

「ん……」

 恐る恐る声を掛けて、天使から返ってきたのはそれだけだった。本を読むのに集中するのは自分もよくある事だし、ニゲラも後ろからスティーが抱き着いたりしても気付かない事だってあり、その気持ちはよく分かる。

 だが、このままではいけない。

「遅れるとあんまりよくないのではないでしょうか……!」

 ちょっとだけスティーが声を張ると、天使は懐から栞を取り出しては本に挟み「それもそうね」とスティーの方を見た。

「あら……可愛い」

「え……」

 急に言われた誉め言葉に、スティーは少しだけ頬を赤くした。

 天使の表情は無表情で、こちらをじっと見ている。「乗らないの?」と言われるまでスティーは照れていた。


 ピュトリスに向かった際に利用した馬車とは違い、今乗っている馬車は客を乗せるためのものらしく、荷車には座席が設置してあり、その椅子も高級そうでふかふかの布が被せられている。

 横には小窓が付いており、そこから馬車の外の景色も一望できる設計だ。御者席と内部との間にも窓がある。

 乗る際は後ろから。両開き式の入り口を開ければ入れる。

「豪華ですね……」

 天使の名前はメトリーと言うらしい。物静かな彼女が言うには久しぶりに客を乗せたそうで、埃を取り除くのに非常に苦労したと、若干愚痴にも似た事を聞かされ思わず謝った。

「冗談よ。貴女みたいな可愛らしいお客さんを乗せられて、きっと馬たちも喜んでいるわ」

 ぶるる、と馬が同調するかのように反応を見せた。

 そして、本でも読んで暇を潰しておけとメトリーから何冊かの本を貸してもらい、それを読む。恋物語であったり冒険譚であったりと種別は様々で、中々に楽しめる内容の本だ。まだ読んだことのない作品。

 しかしニゲラの部屋の書斎では見かけていた本だ。その本を取るには身長が足らず、読もうと思っても読むことが出来なかった数作で、まさかここで読めるとは思っていなかった……とスティーは感激していた。

 御者席の方からたまに視線を感じて、スティーが「何かありましたか?」と声を出すとメトリーは「何でも無いわ」と返す。しかし、あまり時間も空けずに答える。

「本、お好きなのかしら」

 小窓を開けて、メトリーがそう言ってきた。「もちろんです」とスティーが言うと、それ前とは違って彼女は強い反応を示す。

「何の本が好き?」

「冒険譚です」

「冒険譚……冒険家ストイリーとか?」

「そうですそうです!」

「そう……私もその本は楽しく読ませてもらったけど、ストイリーは好きじゃないわね」

 どうしてですか、とスティーが聞けば主人公ストイリーの好色が気に入らないとメトリーは言った。

 確かに、彼の冒険者は好色である事が描かれているが、スティーには何がいけないのかが分からない。

「一期一会であるからこそ、自身と相手の出会いは濃密でありたいっていう価値観……私からすれば単なる浮気性なのよ」

「でも……それで言えば神様たちもそうなのでは?」

「……そうね。そうよね……でも許せないって価値観が私にはあるの……」

 二人の間に、それからは沈黙が続いた。


 休憩時間。停まった場所の近くにあった長椅子に腰掛け本を読んでいると、メトリーが隣に座る。

「さっきの……癪に障ったのならごめんなさい」

「いえ、感じ方は人それぞれですから」

「純粋ね、透明で綺麗」

「ありがとうございます?」

「……私、バース様が一番好き。バース様しか好きになった事が無いから、一人と一人の恋物語を美徳としているのかも……だから、ストイリーを許せないのだと思うの。自分なりに考えてみたわ」

 突然の告白にスティーは突然戸惑ったが、黙って聞いた。

 従者であると、自分のメトリーは最初に言っていた。。

 だが彼女はバースの事を恋愛的な意味でも好きになってしまったらしく、数百年も前からずっとその恋物語に終わりは来ていないとも言った。

「バース様の好みがどんな子なのかは分からないわ。でも彼女は彼女曰く複数人を好きになるらしいから、私には合わないかも」

「……」

「この恋物語、成功すると思う?」

「えっと……何が起こるか分からないのが、人生では?」

「ストイリーの言葉を借りたわね、貴女」

「えへへ」

「でも、そうね。少し元気が出たわ」

 それからも話を色々としたが、スティーにとってもメトリーは悪い人であるとは感じられなかった。

 ただ、自分だけを見て欲しい。そう思っているだけの天使に過ぎない――その価値観についてはこれからどんどん変えていくと彼女は語る。

 他人に変わって欲しい時、自分はそのまま変わらず居ようだなんて思ってちゃダメだよな――ストイリーの言葉である。

「この冒険家の悪い所は好色な所ね」

 それは、この冒険譚に登場する妻たちも言っている事だし、彼も認めている所だ。

 そして話を続け、休憩が終わった。


「バース様の街までは五日ほど掛かる。それまでは休憩を所々に挟むから」

「分かりました」

「……そう言えば、荷物はどうしたの?」

「ニゲラ様に預けました……」

「中身は?」

「宿泊用の天幕とか……」

「必要無いわね」

「はい……」


 * * *


 燃えているかのような色合いの赤い髪色、吊り目の琥珀色の美しい瞳、シエラやニゲラ、スティーに並ぶ絶世の美貌。

 背丈は五尺と九寸と少し――その立ち振る舞いに無駄などは一切なく美しい。女性らしい線を描くその肢体は老若男女関係なく視線を集めるだろう。

 『回復』を司る神――バース。

 彼女は今、祭事の前の街の偵察に出ていた。

 神殿内でじっとしていても仕方ないというより、スティーが来るという事が楽しみなあまりそわそわしていたらシアンという名の女性天使に「目に余るので偵察していてください」と小言を貰い、今に至る。

 周りには祭事の準備に取り掛かる人々がちらほら、子供が居れば「遅いからもう寝る時間だ」と言って家に帰し、近くの大人に「子どもを見かけたら寝かせろ」と忠告する。

 スティーが来るのも楽しみだが、グランティアの事も楽しみである。

 一年に一度の闘技会だし、いつもとはまた違った運動――恐らく今回の優勝者も自分との戦闘を優勝報酬に臨むことだろう。

(何も無けりゃいいが……)

 祭りは五日後。スティーがいつここに来るかは分からないが祭りに間に合って欲しいとは思う。

(この街並みは好みに合うかな……?)

 心配事は幾つもある。

 実はバースがスティーに会うのは初めてではない。スティーにとっては初めてだろうが、バースにとっては何度目かの顔合わせ――と言っても創られている状態でのスティーと会った事があるというだけなのだが、どういう子なのかは把握していた。

 この街はスティーの為のものでは無いが、彼女が気になってくれるかはちょっとだけ不安だ。

「母さん……オレも一緒に付いていったら……いや、ダメだよな」

 バースは一人ぽつりと呟いていた。


 ――パルバトは賑やかな街だ。

 煙草等の喫煙は禁止されているが、嗜む程度であれば酒は許されている。比較的自由な街で、その街風景はピュトリスとはまた違った楽しみを得られ、雰囲気もまた異なる。

 その敷地は創造主であるシエラに次ぎ神の中では二番目に大きい。中央にあるバースの神殿を囲むようにして名無しの無人街区域があり、北には女性のみが住まうペトリロットという名の区域、南の方向にはダリジンという名の男性のみが居住する区域がある。西と東は特に居住する種族や性別の決まりはないが西と東でそれぞれベズベラ、アクロスという名が付けられている――グランティアが行われる闘技場はアクロスに存在し、祭事はこのアクロスが一番賑やかになる。

 この街の主神とも言えるであろうバースが『回復』を司るだけあって、この街の主産物は薬や治療術であり、グランティアという催しが開催されるのもバースが戦闘神の一面を持つからだろう。

 街への入り口は特に決まっておらず、検問すらもされていない為ちらほらと他の街の居住者も見掛けられ、その甲斐あってかペトリロットとダリジンの居住者を除いて友好的――訂正、後者の街への入り口は内部からでしか許されていない。

 もし、外壁に守られたその二つの街にバースの許可なく入ろうものなら、バースによる神罰が下される。


 * * *


 ――五日という時間が経ち、その街にスティーが到着した。

 馬車から降りて一番にスティーが抱いた印象は「楽しそう」だ。街の外側では種族関係なく少年少女が笑顔で遊んでいる。

「ピュトリスとは全く印象が違いますね……!!」

「中央付近まで行くと無人街、そこに行くと静かって意味では一緒かもね」

「どうして無人街があるんですか?」

「人が居ると不都合な場合に使う為よ」

「そ、それって……」

「ふふふ……あまり近付かないようにすることね……」

 声色を変えたメトリーに震え上がるスティーだったが、本当の意図を知った時には「なるほど……」と感心していた。

「だけど、近付かないようにするべきなのは間違っていないわ。たまに悪魔や堕天使、魔族が度々現れるから」

 メトリーの忠告に、スティーは「分かりました」と言って頭を下げた。

 ピュトリスには悪魔や堕天使などが現れるなどという事実は聞いた事は無い。彼の街との違いのひとつとして挙げられるのはやはり広大さだろうか。

 その規模が大きい分、そういった危険な存在が現れる危険性も高まるという事だろうか?

 スティーはそう思いながらきょろきょろと辺りを見回していた。

「……怖がっていてはいけませんね。メトリーさんが言っていたグランティアにでも行きましょうか!」


 スティーが今居る場所はベズベラ。アクロスとは逆の場所――メトリーの失態である。

 地図を確認し、アクロスへと向かうには無人街付近を通過する必要があるとスティーは判断した。勿論無人街に潜む危険因子の存在は習ったばかりで、視野から外れている訳ではない。

「すみません。今ちょっとお時間よろしいですか?」

 近くに居た人物に声を掛け、安全な道を尋ねることにした。

「なんだい? お嬢ちゃん」

 ふくよかな体型の男性が振り向いて笑顔を向ける。派手な柄の刺繍が施された服を着た背丈五尺程の男性――肉を片手に祭りを満喫している様子が窺えた。

「アクロスという区域に行きたいのですが……メトリー様という方に聞いたところ、無人街は色々と危ないからあまり近付くべきではないと……なので、安全な道を教えていただけますでしょうか?」

 このスティーの判断は賢明な判断と言えるだろう――だが、聞いた相手が悪かったかもしれない。

「無人街が危ない? ハハハ!! お嬢ちゃんもしかして悪魔や堕天使、魔族が出るって噂を信じているのかい? 出ないよ。ましてや今は祭事の途中で天使の監視も厳しいからねぇ! 多分全部が全部倒されていると思うよ」

「本当ですか?」

「ああ、勿論さ」

「なるほど……でも、もし現れてしまったら……?」

「怖いのかい? 可愛いねえ」

 彼の言うことに何の根拠もなかった。

 そのお腹の膨らみは体を動かさなかったせい、ろくに家から出なかった証拠でもある。信用するに値しないはずだが――スティーは他人を疑うことを知らない。

 このパルバトに長く住んでいる人のはずだ。間違った情報を持っているはずもないと思って、信じてしまった。

(じゃあメトリー様の言っていたことは嘘……? いえ、でも……)

 どっちが間違っているのだろう、とスティーの頭はそれでいっぱいだった。

 この街により長く住んでいるのは天使メトリーだ。普通に考えてみればメトリーの言い分の方が、信用性に優る。

 しかし、男の口は閉じない。

「大丈夫だよ。俺も何度か言った事あるし~」

「え、本当ですか?」

「うんうん。特に何もなく、その日の夜は家に帰れたよ」

(それなら、本当は安全なのかもしれませんね!)

 それは、男の運が良かっただけなのだが、スティーを信用させるには充分な材料になった。

 「ありがとうございます」と礼を言い走り去るスティーに、男は「グランティア楽しんでね~。俺は荒っぽいのニガテ」と呑気に食べて飲むを再開し、無責任さを自覚せず、近くに来た飲み仲間に声を掛ける。

 そして彼はスティーとのやり取りを言った直後に、殴られていた。

「馬鹿野郎ッッ!! 今すぐ追い掛けやがれ!!」


 アクロスまでの距離は十数里――その長い道のりをスティーは泊まりなしで進んでいた。

 その理由としてはグランティアが始まる時間に間に合わないと思っての事だ。彼の闘技会の開催は夜間――スティーがパルバトに着いた時間帯は正午に近く、確かに走れば間に合う距離だった。

「あれ……?」

 気が付けば道に迷っていた。

 細い路地裏、人気のない街並み――人が居たならば道を聞けただろう。先程見つけた地図はざっくりとしか描かれていなかった。

(空が暗くなってきました……ど、どうしましょう……!!)

 何がいけなかった? どこで道を間違えた? もう一度ベズベラに戻る? しかし方角が分からない以上どこに進めば戻れるのか見当も付かない。まさに八方塞がり。

 この世界にはもう自分一人しか居なくなってしまったのでは? と錯覚してしまう程に静けさの深まったこの状況がますます不安な心情をより深いものに変え、もはや泣きそうでもあった。

 東西南北の知識はあるものの、その方角がどの方向なのかは知らない。ニゲラから教えて貰うべきだったかもと今更になって後悔しい、声が掛かるまで縮こまっていた。

「そこで何してる」

 男性の声だ――短い黒髪に、ややほっそりとしていて体にはしっかり筋肉が付いている。服装はメトリーのように黒を基準としているが上半身は彼女と違って半袖、手の甲には刺青らしき模様がある。身長はスティーの頭一つ分高い程度。

 なぜこんなところに人が? なんて疑問は今のスティーには無い。何振り構わず道を教えてくださいと言う彼女に男は表情を変えない――無表情のままだ。

 その目線はスティーの髪飾りと首飾りに交互に向けられていたのだが、それにもスティーは気付かない。

「あのっ! これからアクロスという街に行きたくてっ! でも迷っちゃって……」

「見りゃ分かろう。中心近くにも関わらず辺鄙にも見えようこんな場所で迷う奴なんざ百は居る」

「良かった~! 私だけでは無いんですね!?」

「ああ」

 男はくるりと方向を変えた。

(羽が黒い……?)

 その男は――堕天使だったが、スティーはそれに気付かない。

 男は笑みを浮かべていたのにも、気付かなかった。。


 スティーが迷っている間、バースの方はと言うと観戦中だった。

 数刻前に戻ってきたメトリーと共に八回戦目の闘士を応援中である。拳で戦う二人の激しい攻防にメトリーは食い入るように見て、バースは良い動きに感心しながら、悪い動きも指摘している――戦闘に不向きなメトリーと戦闘神とでその見方は違った。

 だが、バースは少しだけ乗り気でない様子を度々見せており、メトリーもまた同じである。

 スティーをベズベラにて降ろしてしまったというメトリーの失態だ。さほど失態ではないはずなのに、無人街の事もあって不安要素が消え去らない。

「メトリー」

「はい……」

 観客席にスティーの姿は見当たらない。

 従者たちにスティーの事を探しに行っては貰ったものの、無人街は入り組んでいて場所を熟知している天使と言えど迷うこともザラ。

(全力で探し、連れてくるか? いや……すぐに準決勝戦が始まる)

 それぞれの試合は十五分と長いようで短い。無人街は使用時意外だと蝋燭もなければ視界が悪く人探しに苦労する。

「すみません……バース様……」

 ついに、メトリーが試合をそっちのけで謝った。

「いや……ピュトリスの方角は東だからベズベラでスティーを降ろすのは間違ってない。いけないのは無人街の堕天使や悪魔に魔族を未だに討ててないオレの方だ。偵察に行く度アイツらは姿を巧妙に隠しやがるから質が悪い」

「悪魔の魔法……」

「そうだ」


 グランティア観戦をしていれば、三十分などあっという間だった。

 決勝を勝ち抜いたのはヴェルダンという男性天使。他と比べ軽装で、その体格も小さいが筋肉はしっかりと付いており、その容姿は若々しく人間で言う所の二十代後半といったところだろう。

 茶色い髪は長め、ボサボサなのは自信を鍛える以外に無頓着だった証拠でもある。

 彫りの深い顔立ち、鼻筋は整っており多くの女性を魅了する事だろう。瞳は鈍い灰色だが、闘志に燃えた熱い目をしていた。

『望む物を言え』

 バースの声が会場全体に響き渡った。

 ヴェルダンは答える。

「貴女との、闘志の交え」

 彼にとっては、バースの問いなど愚問に過ぎない。この日を夢にまで見たとその瞳は語っていた。

 歓声もより激しいものになる。

 ――こちらを見下ろす女神に一撃を加えることさえ敵わずとも、楽しませるくらいはしてやろうとでも言いたげな目だった。

 得物の斧がきらりと光り、ヴェルダンは嗤う。

『分かった。やろうか』

 観客全員の歓声が沸いた。

 一年という期間中で一番賑やかになる瞬間だ。


 しだが――バースの顔がやや焦りの感情を孕む。それに気付いたのはヴェルダンだけだった。


 * * *


 頬を殴られた時、殴られたことに始め気付かなかった。

 「髪飾りと首飾りを寄越せ」と言われ、断った瞬間にはもう拳がスティーの柔らかな頬に叩き込まれていたのだ。

「その髪飾りには創造主の象徴画、その首飾りには知恵神ニゲラの象徴画――その二つがあればバース様にも勝てるだろうなァ何か特別な恩恵がありそうだからなァ」

 身体を起こしつつ目を泳がせ、スティーは何が起こったのかを漸く察し、漸く痛みを感じた。

「寄越せ」

「む――――」

 無理です、と言葉を発そうとした瞬間に今度は蹴りがスティーの側頭部に直撃。喧嘩などした事のない少女に堕天使は容赦などしない。

「加護ってのは鬱陶しいよなァ……ロクな怪我をしねえから中々死なん。だが内部にはそれなりの衝撃が入るから内部には損害が及ぶ。勉強になったか? お前ら」

「今までのは加護がねえからすぐ死んじまってたよな。今日は実践授業宜しくマーギンさんや」

 奥の方からもう一人の男の声がした。

「宝を体に身に付けて、この無人街に足を運ぼうなんて「強盗してください」って言ってるようなもんだろ? ベゼル」

 現れた男の名前はベゼルと呼ばれた。

 怯えるスティーの前にしゃがみ、彼女の少し腫れ始めた顔を手で掴み上げながら嗤い蔑む。

「ハハハハハッ!! お嬢ちゃん……これからは来世に活かす勉強だぜ? 今までカミサマにお世話になってのこのこぬくぬく平和的に、いざこざ無く、諍い無し、怪我もせず、愛されて、可愛がられて、にっこりニコニコ毎日笑顔での~んびり暮らせてたのがこれからさァ……ボロボロの紙切れみてえに、布切れみてえにぐちゃぐちゃの滅茶苦茶、このべらぼうに整った顔もパンパンに腫れあがらせて、男共に壊れるまでしっぽり穴使われてェ!! 殺されるって思うとどんなキモチ!? ハハッ!! ハッハハハハハハハハハハハハ!!」

「悪魔的だな発言が」

「悪魔だよォマーギンさん。アンタだって元天使のはずなのにやること成す事悪魔的じゃねェか堕天使さァん」

(堕天使……悪魔……)

 二つの種族名に、今度こそスティーは恐怖した。

 逃げなければ、逃げなければ殺される。

「たっ……たふけてください……命だけはぁ……」

 ひたすらに怖かった。最初に堕天使だという事に気付かなかった自分の馬鹿さを猛省し、目からはボロボロと大粒の涙を溢しながら命乞い。

 泣いているスティーの服にベゼルが手を掛けて、引き千切ろうとするも破れず、苛立ちを爆発させた彼の暴力を今度は三回程喰らった。一度目は平手打ち、その次に顔への膝蹴り、そして最後には腹に蹴り。

「けふっ……こほっ……かはっ」

 加護が在れど、痛みはある。殴られればその分の損害は内部に浸透する。

 加護の効果は外傷や骨折を防ぎ、内部の致命傷を受ければ即時回復効果、毒性無効、病にならないという性質のみ。

 頬への痛み、鼻の痛み、そしてズキズキと痛む腹にスティーは咳き込んで、蹲った。

「うぅうううぅ……ごぇんなさい。ごめんなさい」

 痛みに悶えながらも、涙をボロボロと流してひたすら謝り始めるスティーに、マーギンは「だったらそれ二つ寄越せ」と言った。

 堕天使――悪意に穢れ、堕ちた天使を呼称したもの。

 横暴、暴力的、差別的で悪魔に並ぶ悪意の権化。魔法は使えなくなるが、持っていた加護や寵愛は使える神のみでしか裁けぬ神の悩みの種の一つ。

「寄越せやァ!!」

「い、痛いっ!! 誰か……誰かー!! うぎゅっ!?」

 髪を引っ張り持ち上げられ、辺りへ助けを呼ぶスティーに今度はマーギンの平手打ちが入った。

 同情の欠片も含まれていないような仕打ち――マーギンには善意の様なものは既に存在しない。男は殺す、女は犯して殺す毎日をこれまで行っていた。


 マーギンは元闘士、バースとの戦闘を夢見て鍛錬に励む天使の一人だった。

 鍛えても鍛えても、何かが足りず、いつも準決勝戦に行く前に敗北する。周りの者はそれでも鍛えると躍起になっていた――心中乾いていたのは自分だけ。

 それを思い出す度に腹が立ってくる、腸が煮えたぎる程に憤りの感情がこみ上げてくる。

 剣を交える事が本当に名誉か? と疑念を抱いた途端から淀み始めたその心の反映か、天使は堕天して、バースと同じく女を嬲って殺して、少しだけ心が潤う事を知ってからはこうだ。

 マーギンの表情には笑みが浮かんでいた。

 奇麗な顔に、拳をぶつけ、ぶつけ、叩きつけ、叩き込んで、いつかはあの女神もこんな目に遭わせてやりたい。

「ハッ――――ハハハハハハハハハハハハハハッ」

「ぎゃっ……うっ……!? っ――――!?」

 あの女神がこんな声を上げていると思うと、彼は興奮していた。

(バース様……バース……バースッ! バースッッ!!)

 殴り、蹴り、引き、再び殴り、蹴って、叩いて、首を絞めて――それでも加護があると死にはしないことがマーギンにとっては都合が良い上にこれまで溜まっていたであろう苛立ちをぶつけるにはもってこいの逸材――彼は恍惚な表情を浮かべていた。

(髪バースと同じ……加護ッッ!! それを持ってる奴を……)

 ――今、嬲っている。

「イイ……最高だ……気持ちがイイ!! もっともっと殴らせろよッッ!! 楽しんでもイイよなァベゼルゥ!!」

「あと五分だけね。俺もしたい」

 五分が経った時にはもう、スティーは抵抗らしい抵抗をしなくなっていた。

 

 ベゼルからも同じ仕打ちを受けた。

 もう敵う気もしなかった。元より喧嘩などした事はなく、力も普通の女の子と変わりなく、出来ることは命乞いと涙を落とす事だけ。

「バース様……メトリー様ぁ……」

 その名を口にした後に漸く暴力が止まった、マーギンから迫られた。

「神バースは兎も角、なんで側近の名前を知ってる……? お前、関係者か? 不味いな……」

 手を離され、どさりと倒れたスティーを見下ろしながらマーギンが額に手を当て少しだけ焦りを見せた。

「おい女、奥に二人ほど悪魔が居る。そいつらに鉛筆と紙を借りて手紙を書け――『私は大丈夫です。心配なさらず』ってな」

 髪飾りと首飾りは暴力を受けている中で抵抗を止めた時に奪われた。

 シエラとニゲラの顔を思い浮かべながら心の中で謝ることで精一杯――マーギンから言われたことにも従うしかなく、ゆっくりとした動きで奥へと進んで行く。

「早くしろ」

「~~~~~~っ!?」

 背中を蹴られ、前に倒れ痛みに悶える。

 両耳共に聞こえ辛くなってきており、内部への損傷も激しく途中からは吐血もしていた。頭で考えることもほとんどできなくなっている。息をするにも苦しいし、うまく立てない。

「ぐすっ……」

 泣くにも肺が痛くて辛かった。

(シエラ様……ニゲラ様……どうしたらいいですか……?)


 ――バースとヴェルダンの戦闘に若干の違和感を覚える者は少なくなかった。

 ヴェルダンが防戦に徹している――これまでのグランティア史上初めての戦闘。これまでは優勝者の攻撃に対して、反撃をするというのがバースの基本態勢だった。

(……バース様から仕掛けることは初めて。何故……!? まるで終了を急かしているかの様……)

 バースの拳と蹴りがヴェルダンに襲い掛かり、それを彼は必死に防ぐ。彼の方から責め立てることすら敵わない状態になっていた。

(何か事情が……?)

 バースの技の精度も、ヴェルダンにとっては若干下がっている気がした。

 自分が夢にまで見た神バースとの戦闘というのはこんなものではなく、両方戦闘のみに尽力し、汗を流すこと。

 決着を早く付けたいのであれば、そのまま本気の一撃を加えればヴェルダンは地にひれ伏すが、そうなれば殺してしまうとして出来ないのは神バースの優しさ所以のもの。

「神バースよ。過去と比較しても貴女らしい戦闘とは言えますまいが、どうなされた!?」

「……っ」

 バースが初めて相手に動揺を見せた。

 それを見て、ヴェルダンはやはり事情があるのだと理解し、考える。

 この日の為に鍛錬をしてきて、いざ戦ってみれば事情あって焦りを見せる最強の戦闘神――去年も一昨年もグランティアの戦いぶりには憧れさえあった。その姿を近くで一目見たかったという異性の欲があった事も認めよう。本調子でない最強神と戦って得られるものは何だ?

 今日この日の祭りの中で一番盛り上がる時だというのに、それを差し置いて心から離れない事情とは何か?

 早く早くと、終われ終われと、こちらの昏倒状態を狙ってくるその理由――――

(身内の不幸――――)

 考えられる原因はそれだけ。身内が不幸になっている状況をいち早く知る何らかの報せを先程、自身の望みを聞き入れた瞬間に時期悪く、知った。

 それならば、優先するべきはそちらの方。

 だが、このまま戦いたいのも事実――パルバトでのこの祭りの期間は一日だけで、戦うという点での汐合いは今。

「どうしたヴェルダン、早く決着を――――」

 確信した。

(こんなバース様を見た事は生まれてこの方見た事がない……重要な事であるのは間違いない)

 そうなれば、こちらからの提案は一つ。

「今更ですが……望みを変えても?」

 そのヴェルダンの言葉に、バースは目を見開いて好機だと言わんばかりに「勿論だ」と答えた。

「私は決勝までの戦闘に続く戦闘で体力の残存に自信が無いので、明日またこのように交えてもよろしいかな?」

「ヴェルダンお前――――――」

「ははは、格好付けで申し訳ありません。何か事情があるのでしょう焦りが見えます」

 ヴェルダンは背中の入場口に向き直り、歩き、そして声を張る。

「明日こそ、私は万全の闘いを見せようぞ!!」

 最初こそは戸惑いの声を挙げていた観客は、数秒と後には盛り上がりを見せた。

「ヴェルダンすまない感謝する!!」

 バースは会場から飛び出した。


 逃げなければ殺される、とスティーは思った。

 鉛筆と紙を二人の悪魔から貸してもらって、そしてバースたちを心配をさせぬように書けと脅されて、ようやく先程の二人の目から外れて――逃げるなら今だ、と。

 シエラから貰った大切な髪飾り、ニゲラから貰った大切な首飾りを早くに手放す失態。

 失態なのか? 奪われたのは自分なのだからこれは自分の失態だ、甘えちゃいけない――とスティーはすすり泣いた。

(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………私もうダメです。痛いのはもういやです)

 身体特徴から診れる年齢層は十六程だが、その実生まれてまだ一年も経っていない。

(シエラ様に、ニゲラ様に髪飾りと首飾りを取られたことを言ったら……きっと怒りますよね……)

 叩かれるだろうか、怒鳴られるだろうか、それとも髪を引っ張られる? 怒られたことなど先程まで一回たりとも無かったから分からなかった。

 壁に手をやって、体を支えながら進んだ。

(――――――!)

 明かりが見えた。きっと悪魔の居る場所だ――と理解した途端にスティーは別の方向へと進んでいた。

 悪魔は他人の心情など関係なしに自分の気分でしか動かない為に、相手の痛みや苦しみを一切考えない生き物であるとニゲラの書斎にあった本に書いてあったのをスティーは思い出したのだ。

(何処かに進めば、ベズベラかアクロスに着くはずです。そうしたら助けを呼んで、バース様の所に行って、シエラ様とニゲラ様の所に連れて行ってもらって――――そしたら、取られたことを……謝って……)

 怒られてもいいから、叩かれてもいいから、許してくれるまで謝ればきっと許してくれるはず。

 ベズベラに、アクロスに抜ければきっときっときっと――――

「バースさまに会える~~~――と思ったぁ?」

 人の感触にぶつかった。

 始めて見る悪魔である。

「オジョーチャン……悪魔ってのはねぇ……知覚器官が優れてんだよね。誰かが近くに来て、別の方向に急に向かい始めたら不自然でしょ。こんな無人街でさァ? こんな迷う街で明かりの方向に向かわない人間変だし。フツー「すみませーん。道教えてください迷ったんです」って聞くよねえ」

 悪魔が肩に手を回し、今度は目で追えない速度で首を絞められ持ち上げる。

「かっ――――――」

「それにしてもさあ……可愛いねえ可愛いねえ、君くらい可愛いの神バースと何回か目にした創造神と神ニゲラくらいだよ……ボコボコにされてても可愛いのヒキョーじゃね? さっきの「助けてー!」ってもしかして君かなあ? 後でマーギンとベゼルに告げ口して? 俺にヤられながら仕打ち殴られ続けるっての想像したらもうたまんねえ……最高だろ……!!」

 声に熱を帯びさせて、頬を紅潮させて悪魔は興奮した様子を包み隠さず言った。

 スティーはもはや絶体絶命、助かる選択肢などもう見つけられようにもない。シエラとニゲラから貰った髪飾りと首飾りは自分の位置を報せる効果もあるが、奪われた以上自身の位置を伝えられない為バースがスティーを見つけられる前は惨い仕打ちを受けるのは明白だろう。

 スティーは失神した後に地に落とされ、そして引きずられて暗い路地の奥へと連れ込まれた。


 スティーが目覚めた時、目の前に居たのは二人の悪魔だった。

 悲鳴を上げようにも声が出なかった。先程首を強く絞められた時に声帯に何らかの異常を起こしたと見られ、声を出すにしても掠れ声しか出ず、もう助けを呼ぶ気力もない。

 場所は大きな布で天井が作られた人工的な拠点――奥の方には木箱が数十個ほど乱暴に積み上がっており木箱の山と言った単語が連想される。

 ここまでの道のりは失神していた為分からない――現実から目を背きたくなる程の絶望の連鎖だった。

 先程は暗くてよく見えなかったが、ここは明かりが点いておりその容姿も今は良く見える。先程スティーの首を絞めていたのは細身の悪魔で身長はスティーと同じ程度、男性としては小柄な方だろう――黒いボサボサの髪に金色の瞳、耳の上あたりにちょこっとした角が生えており、左片方しかないが膜の張られた爬虫類の如き翼が生えていて、ボロボロの黒い服を着ており、彼はスティーの身体を舐め回すような厭らしい目で眺め、同じく厭らしい笑みを浮かべていた。

「さっき逃げようとしてたんだよお~。悪い子だろ?」

「……こちらの……欲を、掻き立てる……興奮させてくる……色んな意味で、確かに、悪い子だ」

 奥に座っている悪魔が答えた。

 スティーの恐怖を煽るような容姿――黒くて長い女性的な髪に、少し開いた目には光の無い黒い瞳が見える。その表情は無表情で、特徴で特筆すべきはその体毛――服は着ておらず、顔は人間的で肌が見えているというのに体には深い毛が生えており動物的。体躯も大きくスティー二人分の幅、座っているのにスティーの身長の五割分の高さがあった。大きさに秀でた霊長類の体の上にちょこんと頭が乗っている見た目で、角は生えていない。

(ひっ――――)

 そして、スティーは生まれて初めて男性器という物を見た。

 猛り立ったその物体はスティーの前腕程の大きさで、毛の中から醜怪なモノが顔を覗かせているような印象――人間の性行為というものはニゲラと過ごした日々でどういうものかは理解しているが、目の前のソレを無理矢理に相手させられるのかと思うと背筋を震わせた。

「この前の、女の子は……何回かで、壊れちゃったから、今度は、加護持ちだし、楽しめる……気持ちいい、興奮する」

「いやいや、ゴルベック。オメーがやると後のオレらが気持ちよくねーのよ広がっちゃって」

「お前、たちが、小さい、のが……悪い……簡単に、広がるような、臓器を、持ってる、人間の、天使の、その他の……女も、悪い……そうだろ、ベスタル」

 その会話は女性が聞けば裸足で逃げるような醜く残酷で不快極まりない会話だったが、如何せんスティーは逃げられなかった。

 ここで襲われる未来しかなかった。


「マーギンさんよ。その飾り二つで何が出来るんだ?」

 ベゼルの問いに、マーギンは「見ろ」と言って髪飾りと首飾りを見せた。

「創造神の象徴画が埋め込まれているだろう。首飾りには知恵神ニゲラの象徴画」

 なるほどと頷くベゼルはそれがどうした、と聞き返す。

 すると、マーギンはこの二つの象徴画の効力をそれぞれ説明した。

 創造神の象徴画は全ての神を含めて最高の恩寵と加護、効果を得られる――例で言えば魔法を使う際の魔力消費を無いものとする。描いた魔法陣による魔術の発動をより強力なものにする。持ち主への攻撃魔法無効など様々。

 知恵神ニゲラの象徴画は知覚能力の高補正、持ち主の身体の環境対応能力の進化補正等々。

「それがあれば、神バースにも勝てると思わねェか? あの最強の神を地に伏せて、あの卑猥な体つきとその味を堪能して、奇麗な顔を穢してやりたいと、思わねェか?」

「ハハッ」

 最高じゃないか、とベゼルは口角を上げた。


 ――卑劣で下劣、元天使とは思えない発言。

 そこまでして神バースに勝ちたいのか、と真っ当に鍛錬に励む天使たちこの場に居たならば言うだろう。確かに試合で負け続けた事は悔しいかもしれない、屈辱だろう、あの神バースに少しでも一泡吹かせてやりたいと思うかもしれない。

 だが――負けたのは、地に伏したのは自分自身の鍛錬不足が成した結果だ。

 神バースは、敗者に対して決して見下すことなどしない神だ。

 何が気に入らない? 本来天使がするはずのパルバト全域の偵察などを「鍛錬があるし、忙しいだろう」と言って何の文句の一つも言わずに自身一人で全部負担するその神の何が? どこが気に入らないというのだ?

 天使としてこのパルバトに生を受けた時に世話をしてくれたのは誰だ? ――神バースである。

 来るもの拒まず、去るもの追わず。子供好きで、子供には滅法甘くてなんでも許してしまうのが代表としての玉に瑕というのが少ない欠点の一つ。

 過去に一度、人間を殺したことはあった――それ以来人を殺したことは一度たりともない。

 天使たちは見ている――その殺した人間が埋葬された墓に毎年赴いて花を手向けて、墓の手入れをする神。

 涙脆くて、可愛いもの好き、人の笑ってる様子を見るのが好きで、言ってる言葉自体は男っぽいがそれは本人曰く「格好が良いから」の品格溢れる優しい神。

 その神が気に入らない? ならば何故この場に居る? 天使たちは問うだろう。


 マーギンは葉巻を口に咥え、火を付けて一服――静かに煙を吐いて瞬き一つ。

「バ――――――」

 その瞬きの間にベゼルが一文字ほど声を発し、マーギンの瞳がようやく路地の情景を捉えた時。

「――――は? ベゼル……?」

 ベゼルは最上位悪魔のうち一人――それが今、満身創痍で壁に埋まっていた。

 悪魔が攻撃を受けたであろう瞬間——マーギンには何も聞こえなかった、何も感じなかった。

 ニゲラの象徴画が埋め込まれた首飾りを身に着けていたというのに? 目の前の現実を脳が否定しようとしている。ゆっくりと心臓が鼓動を激しいものに以降しようとしている。

 マーギンが振り向くより早く、女神の声が背の方より掛かった。

「洒落てるじゃねーかその髪飾りと、首飾り――――マーギン」

 時間が圧縮されたかのような錯覚を感じた。

 後ろにいる人物が誰なのか――声だけでなく気配でもう既に察していた。まだ天使だった頃に、まだ真っ当に闘士をしていた頃に、グランティアで戦闘を繰り広げていたあの光景……特別傍観席からこちらを見ていた女神。

 目を見開いて、持っていた葉巻が指からするりと抜けて地に落ちるより先に振り向けば、琥珀色の瞳がこちらを見ていた。目線がこちらを射抜いていた――呼吸の一つ一つを間違えば瞬時殺されるのではないか?

「パルバトでは禁煙ってのは分かってるよな」

「っ…………」

「オレが煙草を嫌いだからってのがその理由だが――まあ、それはどうでもいいか」

 額から、背中から――全身の発汗が止まらなかった。

 背筋にヒヤリと冷たいものを感じ、脳内で警鐘がガンガン鳴り響く。

「ところで、マーギンお前――羽が黒いが、墨汁でも被ったか? お前が元気なのは何よりだが、オレの意思とは裏腹にこの無人街では悪魔や魔族……堕天使が悪行三昧なのだとさ……それらを中々捕まえられてねえオレの責任だが……その悪魔に襲われていたであろう所に頃合い良く来れて安心した」

 咎めてこない状況に、マーギンは混乱した。

 怒られていない状況が逆に不安を煽ってくる。バースは自分が堕天使であることに気付いていないのか? というとそうではなく気付いているはずなのだ。それなのに何故? こちらの油断を誘っているのかという推察だが、マーギンはバースがそんな真似をする訳がない事を知っている。

(やるしか……あるまい……問題ない……創造神の象徴画と知恵神の象徴画の効力を信じて――――)

 マーギンが仕掛けた。

 狙ったのはバースの首筋付近、並の闘士では反応すら出来ない一撃。

 その攻撃に効力は確かにあった。身に付けるより前のマーギンよりもその一撃の速度や数倍ほどで、彼の心の中ではこれが象徴画の力かと感動さえもあった。

「残念だ、マーギン」

 気が付けばこちらが倒されていた。いつ攻撃されたのかも検討すら付かず、手刀を入れたはずの女神はこちらを見下ろし「スティーはどこだ?」と問い掛ける。

 聞き覚えの無い単語に聞き返した瞬間に体に浮遊感を感じて、壁に叩きつけられた。

「かはっ――――」

「そこに散ったと見られる血は誰のだ? オレが来た時に既にあった――そこの悪魔の者でもねえ。新しいし、ついさっき出来たであろう血痕……スティーは加護を持ってる……内臓に甚大な傷害を与えたんだろ? か弱い女の子を嬲るのは楽しかったか? 殴るのは気分爽快だったか? 嘘を吐くなよマーギン」

 マーギンがバースの腕に手を掛け、離そうと抵抗を試みるも女神の腕はピクリとも動かなかった。

 何という膂力、引きはがせない。そして象徴画の効力を以てしても勝てない程の戦闘能力。

「その髪飾りと首飾りはスティーのものだな。返してもらう」

 マーギンの髪から髪飾りと首に掛けていた首飾りを取り、バースは自分のポケットの中へと入れた。

 手を離され、マーギンは地に落ちる。

「お前の処分は後にする。殺さないのですかなんて聞くなよ? 殺しても何の得もねえ、やった分やられろ。他人の幸せ壊す奴がこれからをぬくぬくと幸せに暮らせると思ってちゃ――いけねえよな」

 そう言われて、マーギンは一撃を貰い気絶した。


 蹲るという苦し紛れの抵抗――圧倒的な膂力を持つゴルベックからすれば何とないスティーのその状態のはずが、彼は苦戦していた。

 髪を引っ張り持ち上げて、服を破ろうとするも繊維の一本すら千切れない。

「腹が、立つ……ベスタル……お前の、魔法……何とか、出来るか?」

「いや……そんな代物俺も初めてだわ」

 最上位悪魔である二人――ゴルベックとベスタル。

 たかが人間の少女一人にてこずるなど、二人からしても屈辱的。

 わらわらとゴルベックの体毛が逆立っていき、目は見開き瞳が真っ赤に変色する。怒り、猛り、憤り――即ち憤怒。こうなったゴルベックは怒り収まるまで止まらない。

 立ち上がり、スティーに向けて太い腕を振るう。

 その太い腕は細い体を捉え、少女の体は木箱の山に突っ込む。間髪入れずにゴルベックは怒りのままに木箱の山ごと少女に連打を叩きこんでいた。

 一方でベスタルは「壊すなよ」と他人事で止める様子もなかった。

 加護が無ければ骨は砕け、内臓は潰れ挽き肉状に、どれがどの内臓かも分からない程に原型など留めずに死んでいただろう。

 五分、十分――傍からすればすぐに過ぎ去るような時間だったが、スティーには何時間にも感じた。口の中は鉄の味、ただただ痛い、腹の中が気持ち悪い、呼吸が許されない状況からくる苦しさ、今だけは加護を捨て去りたい、誰かに託せるようになりたいとスティーは切に願った。

「ゴルルルルルルルルルルルルル……!!」

 言葉らしい言葉を失い、獣の如き唸りを上げるゴルベックの前には拉げた箱の破片の中にボロボロでうつ伏せに倒れ込んでいる状態のスティーの姿があった。

「オイオイオイ……それ生きてる? もう虫の息だろ。やりすぎなんだよいつも」

「コイツガ……ワルイ……ダガ、カタチ、アル……ガンジョウ……」

 悪魔のする事はいつだって自分本位――自分の気分によって他人を害するかそうでないかも変わる。

 怒れば殴り、犯し、殺し、もしくは食らう。


 ――彼等悪魔を生んだのは『歪』を司るベンサという男神だ。歪んだモノを生み出す力を与えられた彼の生み出した「悪魔」という存在は親に似て歪んだモノを持っている。

 歪みは、直さなくてはならない――即ち「回復」が必要である。

 悪魔を正すのはいつだって――『回復』を司るバースとその従者である天使たち。

 堕天使はベンサとは何ら関係は無いにしろ歪んでしまったものの一つだろう――こちらもまた直さなくてはならない。


 ――足音に気付いたのはベスタルだった。

 立てられたその足音がわざとらしかったのは何らかのメッセージか――「逃げるなら今だ」「もしくは覚悟を決めろ」という聞く者すべてに自信の存在を気付かせるような、そんな足音だ。

 誰かはまだ分からなかった。だが――

「ゴルベック。わかるか?」

 ベスタルの言葉に応じてか、スティーに向けられたゴルベックの殺意の方向が足音の主へと変わる。

 ベスタルはマーギンに聞かされていた――神バースという存在が如何にこちらの抵抗を許さぬであろう強さを持っている事を。

 スティーの埋まる拉げた木箱の山を越えて逃げるが吉。

「――――この無人街の利用目的は、お前らの居住の為じゃねえ」

 女神の声が路地裏に響く。

「神殿じゃ収まり切れねえケガ人の治療室代わり。行く当てのねえ天使の一時の住屋――それがこんな悪魔共の根城かのように扱われてるとはなあ……」

 バースの全容が目の前に現れた瞬間に、ベスタルが初めに仕掛けた。

 ゴルベックとは違い速さに特化した彼の一撃を見切った者はこれまでに出会った天使や人間の中には居なかった。

 音速を超え、「見えた」と認識した瞬間には既に自分の首が切断されているはずの一撃――それをバースは摘まんで止め、ベスタルに反撃を見舞ったのだ。

「ッッ!?」

 何をされたのか、ベスタルは理解できなかった。

 気付けば女神の拳が自分の右頬にめり込んでおり、壁に叩きつけられるまで痛みすらも感じなかった。

(ありゃ? ――俺今殴られ……体が動かな……待て待て攻撃された? いつ?)

 起きたことを脳が理解しない状態に、ベスタルは混乱状態に陥る。

 バースの拳に殺意などは一切なく、ベスタルへの報復たるその攻撃が手加減された一撃である事を知ればスティーにてこずっていた事よりも屈辱的だろうが、今この状況下においてはそれもどうでも良い事だった。

 逃げなければやられる、という思考が二人の悪魔の頭に過る。先程まではスティーの持っていた思考。

 立場が移転した。

「――無人街を提案したのはオレ。失敗だったかもしれん、ニゲラとは違って学の浅いオレなりに考えた事が、大事なもんに傷を付ける結果になった」

「ウゴクナ」

「メトリーは悪くない、スティーも悪くない。原因はオレ――――責任はオレにある」

「ウゴクナァ!!」

 ゴルベックの制止も聞かず、バースは彼の下へと歩み寄っていく。

 躊躇など無かった。全てはスティーを巻き込んでしまった自分への怒りのままに――一歩一歩に決意を込めてゴルベックへと歩み寄る。

「どう償えばいい? 母さん――――オレは馬鹿だから早々には思い浮かばないぞ」

「ナ……ナニヲイッテイル……!?」

 ゴルベックからすれば、向かってくるバースが今の状況とは全く関係のない事を呟いているかのような状況で、その呟きの内容も最早何を言っているのかも訳が分からなかった。

 先程まで暴力を振るっていたスティーの事を人質にバースの動きを止めることも彼は考えていたが、最速の悪魔であるベスタルを瞬時返り討ちにしていたところを見るにそのような暇さえ与えてくれないのはもう明白であり、不可能な行いとも考えられる。

 そうなれば抵抗あるのみ、とゴルベックは剛腕を振るった。

 ベスタルへの一撃で戦力の差が激しい事は地力に乏しい自分でもわかる、と彼はそれでも襲い掛かった。下界に住まう獣は兎を狩るにも全力で、と聞いたことがあるがこの女神は違う。ベスタル程の悪魔が相手でさえも、彼女のその素振りからして全力とは程遠かった――なんたる戦闘能力。ベスタルが死んでいないことを見るに悪魔に対してすら殺す意を見せないその甘さ、否優しさか。

 そうこう考えているうちに、初めの一撃はいなされていた。

 ゴルベックの拳に対してバースは手の甲をただ添えて、羽虫でも追い払うかのような所作で力の方向を難なく変えて、拳は彼女の顔の横紙一重という所を通過、放たれた二撃目もまた同じようにしていなす彼女。

「オオオォォォァァァッッ!!」

 続けて三撃、四撃、五撃六撃七撃と放たれた拳――バースは全く相手にしていなかった。児戯に大人が付き合ってやっている、とでも言わんばかりの態度。非常に屈辱的で、怒りの度合いは益々増えるもどうしようもないこの状況にゴルベックは闘気を上げ、追撃を見舞う。

 攻撃の激しさからくる衝撃は凄まじい。

 マーギンから聞かされていたバースに対する評価というのは間違っていなかったのだ、

 ゴルベックに体力の限界が近付いてくる。

「……満足したか?」

 そして攻撃が止められた時、女神が発した言葉はその一言だけ。息を荒くしているゴルベックとは違い彼女は落ち着いていた。

 ――今度はバースが攻撃する側に変わった。

 ゴルベックにとって彼女の攻撃は凄まじいもので、抵抗すら許されず反撃に出る隙もなかった。

 前に拳を突き出しても、その拳は空を切り今度は背中から女神の拳を喰らい振り向いてもその姿を捉えられずに、ゴルベックは「チョコマカト……」と怒りの丈を向上させる。

 だが、幾ら怒りの丈を上げても当たらないものは当たらない。その苛立ちが発散されることはほぼ不可能と言える。

 女神バースの事を、マーギンは「神の中でも異質に強い」と評価していた。

 ゴルベックは攻撃を喰らう中で不思議に思った。

 ――何故、そこまで強いのにも関わらず他を淘汰しようとしないのか。強いものこそ、全てにおいて正義の中枢となり悪もまた正義となる……はずなのに。

 (ナゼ……)

 ――バースのその拳は、人の為に振るう。

 汝、強き者であるならば、か弱き者の矛となれ救いとなれ。

 それは――主より賜わった己が信条、道理、掟であり法である。

「オレは、『回復』を司る神バース――回復とは即ち、弱き者の「安寧」即ち「安息」……!!」

 その名に恥じぬべく、お前たちに対する「か弱き者の矛」として拳を叩き込んでやる、とバースは強く強く言った。

 そして――ゴルベックの顔面に一発の打撃が加えられた。一切の無駄すらない綺麗な一撃である。

「グッ……!!」

 背中から倒れ失神するゴルベックを見下ろしながら、女神は少しばかり乱れた髪を再び結び直し砕けた木箱の山へと近付くが、スティーの姿は無かった。


 ――バースとゴルベックが攻防を繰り広げている最中、スティーは意識を取り戻し、入ってきた方角とは逆の方角へと進んでいた。

 歩こうにも体の節々が痛む所以四つん這いとなり、ゆっくりと進み逃げる。

 後から来た人物は味方であったかもしれないのに、どうしてじっとしていなかったのか? と疑問を投げ掛ければ、スティーは「味方である確証はない」と答えるだろう。

 スティーはバースの容姿を知らない、声も知らない。

 それに、今のスティーの体はボロボロである。視力は下がり、聴力は無いに等しく、今は生きる事に全ての力を注ぐべく行動したのだ。

 手を周囲に振って、壁に手が当たればその感触を頼りに道を進む。

(泣いたら……痛い……)

 涙を流す度に鼻の奥がツンと痛む、とスティーは涙を必死にこらえた。

 ――人の事をこんなにも怖いと思った事など無かった。冒険という物をするにはやっぱりどうしても人と関わらないといけない。これからどんどん強かに生きて行かなければならないはずなのに、序盤の序盤でこれだ。怖気付いてしまっている、傷に怯え痛みにも怯えて、情けない。

 誰かのせい? ――否、これは自分のせい。

 自分の運が悪かったせいだ。あの男性の助言を鵜呑みにしたのは誰かと言えば自分ではないか。あの男性の運が良かった可能性をまず第一に考えなかったのが一番の反省点。

 寧ろ今の経験は強かに生きる為の勉強になったのではないか? そう考えれば前向きに生きられる。

(そうですよ……これくらいでへこたれていてはいけませんよね……シエラ様、ニゲラ様)

 痛みを知れた、暴力がどういうものかを勉強させられた。

(シエラ様もニゲラ様もお優しい方だから……暴力がどういうものかは教えなかった。きっと、きっとこれは何かの縁だった――視界も聴力も弱い者になってしまいましたが、いつか必ず回復の目途が立つはず……)

 下界には魔法がある。回復魔法を覚えさえすれば、今は障がいの残っているこの症状も改善されるはずなのだ。

 下界の人間はこういう経験も良くする者なのだろうか? もしそうだとしたら本当に凄い、とスティーは感じた。

(これは何かの試練……のはずですよ……)

 スティーの足から力が抜けた。

 叫んだり、暴力から身を守ろうと力不足なりに抵抗を続けたせいで体力を消耗し続けたせい――体力も付けなければいけない。

(バース様の下で、体力を付け……そして護身を身に付けて……――――)

 決意が固まる直前に、微かに足音を聞いた。

 靴底の踵部分が石床に当たる音を確かに、こつこつという音を耳にした――一般市民か? だがこんな暗い道を歩く一般市民など居るだろうか。

 悪魔か堕天使、今度は魔族の可能性が高い。

(逃げ……逃げましょう。急いで逃げれば……)

 必死に壁伝いの状態でスティーは足を引きずりながらその場を離れた。

 その足音の主はバースだったが、スティーにとってはそんな事実は知る由もなく、その脳裏に過るのは悪魔による暴力と堕天使マーギンの仕打ち。殴られ、蹴られ、髪を引かれ――もしかしたら逃げた事で殺されるかもしれない。

(前向きに……前向きに考え――――イヤ……怖い……殺される……殴られ……)

 股間に生暖かい感触――少しだけ鉄の匂いを感じた。

 この匂いを辿られたら見つかる、とスティーは更に速度を上げ足音から逃げる。

 街灯などは近くに無い上に視力の落ちた彼女の状態では八方塞がり、四面楚歌もいい所。

 足音の主の方が圧倒的にこちらよりも速度が上、早くに隠れられるところを見つけたいがそれらしき場所も無い。確実に終わったと察した瞬間にスティーは自分の死を覚悟した。恐らくだがこれから姿を現す人物は屈強な人物であろうから抵抗虚しく殺されることは間違いない。

「ぁ……ぁあ……」

 喉笛から掠れた声が出る。

 ぼんやりとした視界の中に、人型の影が見えた時に相手に晒したのは命乞いという情けない行動。

「おねが……カハッ……お願いします!! 殺さないでください!! 死にたくありません!!」

 喉の痛みを無視して叫んだ。

「許してください……」

 蹲って両手で頭を守るようにしながら、額を地に付けひたすら叫んだ。

「何でもします!! 働けと言われれば働きます!! 出来ない事でも精一杯出来るようになるまで力を出し尽くします、だから……!! だから助けてください殺さな――――ぐっ……ゴホゴホゴホッッ……っ……――――ぁ……」

 必死の行動の最中、喉がひっくり返ったかのような激痛を感じて、大量の血を吐いたと思えば声が出なくなった。

 コヒューという気の抜けるような音しか喉からは鳴らせなくなった――ただでさえ傷付いていた喉笛に、命乞いを叫ぶという負担の掛かる事をしたせいで。

 頭も痛い。

(死――――――)

 ――両耳を塞ぐように、温かい感触が添えられた。

 殴られることは無かった。蹴られる、髪を引かれる、引きずられる、叩かれる、投げられるようなことは一切なかったのだ。

 痛みは引き、耳が通常通り聞こえるようになったことを直感し、視界もぼんやりとした状態からしっかりと見える範囲にまで回復、喉の痛みが引いた。

「っ!? ゴホッッ――」

 気管に残る血液を全部吐き、声も出るようになった。

 そして、全ての痛みが引いた時に体を包む温かく柔らかい感触に溺れた、抱き締められた。

 鼻腔に通る優しい匂い。甘い果物のような甘い香りに加えて物凄く優しい香り、女性的で、この人の傍にいれば嫌な事も痛かったことも全てひっくるめて癒してくれる――そんな錯覚を覚えた。

「怖かったろ? 痛かったろ? ボロボロじゃないか。お腹も空いただろう好きなものをお腹いっぱい食べな……オレが沢山作るから。髪も肌も汚れてしまって……すぐに風呂に入ろう……ごめん、ごめんな……私が迎えに行けば良かった……私が……悪かったよスティー」

 涙声。必死に涙を堪えるも全ては堪え切れていない、搾り切るような声でスティーは言われた。

 そこに嘘など欠片もなかった――バースの心にあったのは命だけでも無事だった事への安心感と見つけられた喜び、痛く怖い思いをさせてしまった事への後悔、そしてこれからはスティーが困っている時は全力で助けになるという決意である。

 抱き締められた事から、スティーは次には泣いていた。バースは彼女が泣き止むまで待った。

 泣き疲れて眠るスティーを背負って、神殿まで戻ることにした。

 背にスティーの体温と、首筋に掛かる寝息を感じながらバースは先程までの事を思い出す。


 ――熊のような姿をした悪魔が自分と対峙し、抵抗を見せる前に一瞥した場所にスティーが居ると見込んで、そしてその場所が砕けた木箱の山となっていたところを見るに少女にとっては凄まじく悲惨な仕打ちをしたのだと理解。次に憤り殺してはならないと冷静さを保ちながら撃退。

 木箱の破片を退けても退けても見つからない少女の姿。

 背筋がヒヤリとしたが、必死に生きようと逃げ延びようとしたのだろうと……強かに生きようという少女の行動に心動かされた。

 加護があるにも関わらず血痕がある事から見て内臓に損傷が視られる。かなりの重傷――満身創痍と理解した。

 上空に信号用の静音花火を上げて、堕天使一人悪魔三人の処理を天使たちに任せることにして、自分はスティー探しに。

 暗闇でも昼間同然に見れて、且つ周囲の状況を感じ取れる自分ならすぐに探し出せると踏んだ。点々と血も落ちていたからどう進んで行けばスティの下に辿り着くことも容易と。

 見つかるまでの道のりで思っていたのは反省とこれからの事――無人街を設立させた目的が逆に住民への恐怖心を植え付ける結果を生み出した。男性はすぐに殺されてしまい、全ての女性は悪魔やマーギンに嬲られて途中命が絶え、蘇った後も、その記憶が相まって良くて男性恐怖症、最悪「もう消えて無くなりたい」と自害を繰り返す。何度彼女等への心傷治癒を試みたことか。

 スティーもそうなってしまうのか? と不安を感じた瞬間に、被害に遭った人の姿と教えてくれた恐怖心を思い出して涙が零れた。なんて謝ればいいだろうか、どう責任を取るべきか。

 天使の鍛錬の優先して、彼等の仕事も自分一人の身に担ってやろうとしたのがいけなかったのかも知れない。神と言っても身体は一つしかないことで出来ることにも限度があると気付くのが遅かった。

 限界を悟られないように、そして人間たちにとっても都合の良い神になろうとし過ぎた。

「うっ……ぐすっ……」

 泣きたいのは今も痛い思いをしているスティーの方だ、辛い思いをずっと引きずっている被害者たちだ、と自分に言い聞かせようとしても益々涙が溢れてくる。止まらないし、視界もぼやけるから余計見つけ辛い。

 こういう時、ニゲラならばどうしていた? 彼女は本当に凄い。ピュトリスの住民からは不満の一つも聞かなかった。

 自分が良い神になれるのはまだまだ先の話だ。

 やっとの思いでスティーを見つけて、彼女が喉を潰すまで命乞いをして、制止をしようとも言葉が出てこなかった。

 「死にたくない」と、「何でもする」と、「出来ないことも出来るようにする」と――その強い言葉に気付かされた。

 生まれて間もない少女、更にはボロボロの状態――自分よりもずっとずっと強かだ。


 * * *


 身体を覆う心地良い感触、火の揺らぐ光に目が覚め、倦怠感が襲う中スティーは重い瞼を開けた。

 知らない天井、周りを見てみると枕元には可愛らしいぬいぐるみの数々、そして綺麗に片付いた空間。本棚には世界情勢の参考文献であったり、料理の製作参考本の他に生物図鑑が収納されている。部屋の広さはニゲラと同じく二十五畳程度で個人が使うには十分すぎる程広い。

 寝具の大きさは平均的な体躯の人間が四人川の字で寝ても人半分程あまりのあるくらい大きく、スティーの横には棒状の抱き枕が寝かされており毛布は肌触りもよくふかふかで重みも丁度いい。何より物凄くいい香りがする。

「ん……」

 声が出るようになっている事に気付いた。

 状態を起こし、自身の体の状態を見ても怪我一つなく完治しており、何かしらの力で治されたようだ。服装も変わっており薄紅色の寝間着になっていた。

「……っ!?」

 寝具の横、床のほうを見てみたら誰かが蹲っていた。

 見覚えのある姿に、スティーは彼女に「メトリー様? 何を……?」と声を掛ける。するとメトリーは淡々と、それでいて申し訳なさそうに言った。

「貴女が酷い目に遭ったのは全部私のせい。本当にごめんなさい――久しぶりの仕事だからとぞんざいな業務……調子に乗っていたわ」

「め、メトリー様のせいでは無いかと……」

「そんな事は無いわ」

 蹲るようなその姿は土下座――謝罪形態の王様。

「……貴女も「自分のせい」という認識なのね……貴女を連れ戻ってきたバース様も「自分のせい」だと猛省してた。元よりあの街に貴女を降ろしたのは私なのに……」

「でも……無人街付近を歩いたのは私ですよ?」

「ベズベラからアクロスへ向かうには無人街を介するか外側を歩く必要があるの。グランティア開催が近い事を言って貴女を急がせて、夜の無人街を歩かせたのは私。私の馬車でそのままアクロスに連れて行けばこんな事にはならなかった」

 そして、無人街の近くを通る時は天使といた方が安全という事もあり、どちらにせよ怠慢を期したのは自分であるとメトリーは言った。

 気にしていない、と言えば嘘になる。悪魔という存在に恐怖心なるものを抱いてしまったし、もう無人街には近づかないかもしれない。いずれこの恐怖心に克服の時期がやってくるだろうとは思っても、それは今ではないとわかる。

 でも二人のせいにしようとするつもりは毛頭ないのだ、とスティーは思った。

「あの無人街に、悪魔だとか……その……あのマーギンさんという方が現れるようになったのはいつからなんですか?」

「十数年前と少しよ」

 ――それまでは平和だった、と土下座から正座に姿勢を変えたメトリーは語った。

 無人街に悪魔は居たが、手を出してくることはほぼ無かったし、死人も出ず天使が悪魔を追い出すのが仕事――のはずだったらしい。

「マーギンが堕天使に堕ちてから、バース様や私たち天使の監視下より悪魔は姿を眩ますことが出来るようになった――マーギンは私たちの仕事の内容を覚えているから、そういうのが分かるのよ」

「魔族の方は……?」

「居る可能性が微細ながらも「ある」ってこと。それと堕天使もマーギンの他に居るかもしれないから複数いるという前提で注意喚起をしていたの」

 そう言うと、メトリーは重ねて謝罪を繰り返した。

「何でもするわ」

「えぇ……」

 そう簡単に「何でもする」と言っては駄目なのでは? とスティーは反応に困る様子を見せた。

「そ、そうです。バース様は……?」

「パルバトの政策を変えに、パルバトの住民たちそして天使たちと話をするそうよ。……グランティアの開催も数年に一回ほどになるでしょうね……毎年開いていると天使が鍛錬に集中してしまうことで治安維持の妨げになることがやっとわかった、と言っていたわ」

「私の……せい、ですよね」

 顔を下に向けるスティーにメトリーは「いいえ」と言って続けた。

「貴女が個々に来る以前にも似た事件はあったわよ。さっき言ったでしょう? これはバース様が自分の肌で感じて、そして自分の目で見て、痛感させられたってだけよ……痛感させたのが貴女。バース様が感動物語以外で涙を流した姿、初めて見たわ――彼女から貴女の強かに生きようとする姿の事を聞いたわ。天使よりも屈強で、敵いそうにないわ」

 そして、メトリーは美しく微笑んだ。

「疲れがまだ溜まっている様だから、もう二時間程寝ると良いわ。バース様もその辺りで帰ってくるでしょうし、彼女がご飯を作ってくれる。絶品だから楽しみにしておきなさい――眠れるまで、何か本を読んであげる。異界の本だから、初めて聞くはずよ」

「楽しみですね」


 結局、二時間どころか翌朝まで熟睡してしまい――スティーがバースと対面したのは翌朝になった。

 バースとの邂逅を期した先程では、暗かった為に彼女の姿を目に映すことは叶わなかったし、更には泣き疲れて寝てしまったし、覚えているのはその匂いと柔らかな身体の感触とさらさらとした髪の感触だけ。それだけでも女性からしても「羨ましい」と感じるくらいなのだが、その姿を目にしてみると、スティーは絶句させられた。

 シエラとニゲラとはまた違った美しさ。

「お初にお目にかかります……」

「堅苦しい挨拶は抜きにして欲しい」

 最初は礼儀を重んじた挨拶で、と思ったが断られた。

 髪を後ろで一つに纏め、割烹着という服装、右手を腰に当ててこちらを見ている。これから料理を振舞ってくれるらしい。

 十数脚の椅子が並ぶ長さのある大きな卓上机、ここで側近の天使たちは食事をするとメトリーが言った。

 その椅子のうち一つに腰掛け、スティーは背筋を伸ばして料理を待つ。厨房に続く出入り口からは料理をする音とその香りが漂い、くるると腹の虫が鳴いた。シエラとニゲラから「バースは料理が上手い」とスティーは聞いている。

 シエラの事をスティー以外の神は「母」として呼称しているが、バースの方がよっぽど母親っぽい印象をスティーは感じた。割烹着も良く似合っているし、ちょっと席を立って厨房を覗いてみても料理をしている様子はまさに母親の姿。

 まな板を包丁の刃が叩く音、ぐつぐつと鍋の中の湯が煮え滾る音。バースと家庭を共にすればその様子も毎日のように見れるのだろうか。

「バース様の料理を口に出来るのは側近の天使たちくらいなの」

「へえ……」

 バースが作る料理というのは特別という訳でもないそうだが、食べられる人は限られているという事か。

「この神殿に来れば、いつでも食べられるけど……何故か特別視されているわ」

 聞けば、その料理の腕は下界の全ての料理人が人生のすべてを捧げても到達できそうにないレベルにまで行っているそうだ。下界の人間が口にした際の逸話の一つとして、満腹になっても食べ続けてしまい数日のうちに体重が二倍に増え、過剰な肥満になってしまったとか。

 それを聞いてしまうと、スティーは食べてもいい料理なのかと心配になってしまった。

「大丈夫よ。バース様もそれを境に反省して、食べさせ過ぎないようにしているわ」

 そして、目の前に料理が出された。

 汁物料理と肉料理、野菜料理といった栄養の釣り合った献立。スティーは目を輝かせて箸を取る。

「召し上がれ。頂きます」

 前に座ったバースがそう言って、彼女も箸を手に取った。

 肉は甘酢風味、柔らかく良い火加減で米によく合い気付けば茶碗の中は空になっており、お替りを所望。スティーの隣で食べているメトリーに関してはもう茶碗三杯目に到達している――少食だったのでは

 下界の人間の気持ちが分かったとスティーは頬袋でもあるかのようにどんどん口に放り込んでいた。

 そして飲み込み、スティー自身気になっていたことを聞く。

「天界でお肉って、どうしてるんですか? このお肉は見た感じ牛肉のようですが……」

「天界で流通している肉類はベーゲルという魔物のものだ。この魔物は別生物と番になると番と同種の形になるし、その肉質も同じものになる特別な魔物――それに肉を切り取っても切り取っても際限なく再生する不死身の生物だ」

 その魔物が天界の人々のたんぱく源及び肉食生活の糧となっているのだそう。天界にしか生息していないらしい。

 生き物を贄として出すのは創造神であるシエラが禁じていると、バースがスティーに教えた。

「ベーゲルは天界だと珍しい生き物でも無いが、下界では「繁栄の象徴」と伝説の生き物として崇められてもいるんだ」

 食事をしながら、バースとメトリー、スティーは話をした。

 パルバトであったこれまでの一大イベントや、バースが従者として男性天使たちを迎え入れようとして結構な数の女性天使から反対意見を貰ってその男性天使たちの帰り際項垂れる姿の話など。

 あとは――昨晩捕まった悪魔やマーギンの話も。

 彼はこれから処罰を下されるようになるらしかった。悪魔は下界へ降ろされ人間に討伐を任せるらしいが、堕天使はそうもいかないとメトリーは言う。

「悪魔さんが下界に降ろされるのは何故なんですか?」

「良くも悪くも、悪魔を討伐することを許されたのは人間なんだ。天界の人間も人間で神や天使と同じ制約を課せられているから、悪魔の討伐を下界に任せているんだ」

「そう……なんですね」

「スティー。いずれ昨日の奴らと遭遇することがあるかも知れない……その時は――」

「分かってます」

 だからこそ強くなります、とスティーは決意を顕わにした。

 その目に曇りなどは一切なく、バースは嬉しそうに微笑んだ。


 食後――スティーとバースは入浴を共にしていた。

 脱衣所にて、バースの身体つきにスティーは思わず声を出す。

 筋肉質だが、がっちりとしている訳でもなくその線は非常に女性的であり無駄は一切ない。乳房はスティーよりも一回り二回り大きい――衣服を着ている際はさらしを巻いているのだそうで、揺れるそれは形も張りも極まれり。

 彼女の水浴びを一度目にした男性から『極上を感じてしまうと、それ以降は極上でしか満足できなくなる』という意味の「目に焼き付けば易く離れぬ」という諺が生まれる程、その裸体は美しい。

 メトリーが移動中に言っていた過剰とも感じられるほどの評価をスティーは妥当であると今理解した。

 そして、バースもバースで生唾を飲んでいた。

(す、すげー……無駄が一切ない……母さんやニゲラに並ぶ曲線美だ……)

 双方、心は一致していた。

((触ってみたい……!!))


 浴場の広さは数十人が一斉に入浴をしようとも余裕な程――蒸し風呂や水風呂に、奥に行けば砂風呂など風呂の種類は豊富で、その数は天界で一番であり他の街から利用しに来る天使及び他の種族は多数。湯船のお湯は健康に良い成分が含まれているのは言うまでもないだろう。

 そして、その広い浴場にて体を洗い合いしている姿は女性天使たちの目を引いていた。

 バースと入浴を共にする天使はメトリーがその割合を多く多く占めている。メトリー自身もかなりの美人なのだが、今回はそれを凌駕する容姿の美少女が共にしているその状況――絵画として出回れば数百億は下らない程度の価値が評価されるに違いない。

 体を洗った後は、バースの案内でそれぞれの浴室をスティーは楽しんでいた。

「気持ち良いだろう」

「はい」

 蒸し風呂の後、水風呂に入り座椅子で呆けていたスティーにバースが声を掛ける。

 そして、彼女は胸の内を明かした。

「スティー。このパルバトには護身を得に来たんだろう?」

「っ!」

「だけど――ごめん、断ることになる」

 スティーにとっては意外な答えだった。

 優しい彼女の事だから、てっきり「遠慮なんて要らない」と言って厚意に護身を学ばせてくれるものだと思い込んでいたのだが、断られるとは思いもよらない。「どうしてですか?」と聞いていた。

「護身には相手の力を利用して自分は手を出さないという物もあるが、スティーの教えて欲しいものは撃退するようなものだろう?」

 否定出来なかった。

「殴る、蹴る、そして何かの武器で叩く突く斬る。それは悪魔とマーギンに昨日学んだはずだ――「相手に痛い思いをさせる」ものである、ということを」

 そして、立ち上がったバースは上体を起こしたスティーに抱き着いた。

「急ぐ必要はないはずだ。下界に降りてからでも良い――下界に降りて、ここじゃ学べなかったことを学んで、それから自分自身に武力を身に付けるかどうかを……考えて欲しい……!」

 その言葉には「想い」があった。

「スティー……私は、スティーの事が好きだ。これは友達とかそういうのではなく――――こ、ここここ、恋仲になりたい……という……そういう「好き」だ……」

 目を逸らさず、バースは顔を真っ赤にして真っ直ぐに告げた。

「好きな人には……傷付いて欲しくない。だが、スティー……それと同時にオレは、いや私は……人を傷付ける真似をして欲しくない。これは私の我儘だ……スティー……返事は出来れば、すぐがいいな……」

 静寂が続く――――あの暴力を受けなかった場合、自分はどう答えていただろうか、とスティーはまず始めに考えた。

 「それでも私は学びたいです」と言うに違いない。元よりこの街に来た理由は最強である神バースに護身及び武力、即ち体術を身に付けに来たというもの。

 ――暴力を沢山浴びせられた昨晩の経験を通した今の自分には、彼女の言い分はすんなりと理解できた。

 もう殴られたくない蹴られたくない。暴力に対する怯えという物は恐らく――消え去ることは当分無いだろう。

「――――風邪を……引いてしまいますから、まずは浴場から出ましょう?」

 でも今は少し――時間を空けたかった。


バース様 身長:180センチ 体重:62キロ

メトリーさんの身長体重は書いてませんでしたが(失念してた)ちゃんと設定はしております

身長157センチ 体重48キロでございます。

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