プロローグ・サード
スティーはピュトリスという街までの道を歩いていた。
下界においての、ある程度までの常識を身に着けるべく、ニゲラと言う女神に教鞭をとってもらう為。
――世界の事なのだからシエラに聞く方が最も効率的ではないかとこれからも言われるだろうが、彼女は引き籠っている間の世界の事はほとんど知らないと少し頬を赤くしながら言っていた。故に世界の事象などを網羅している知恵神ニゲラに教わるのが妥当である、と。
シエラの持つ本の全ては他の世界から持って来た物語であったり、下界の知識も過去のものだったし、知らないのも当然と言える。。
(頑張りましょう……!!)
ピュトリスまでの道のりは長く、到着するまでに歩いて三日三晩とシエラは言っていた。
乗り物などに乗せて貰えば苦労することなくいけるのだろうが、スティーは彼女の申し出を断ったのだ。
下界を旅するのだから少しは歩く苦労を覚えないといけない、という自分自身へ出した課題の一つ。それを無事に熟すことが出来なければ下界で生活する事などほぼ無理に等しいとスティーは考えたのである。あとはそう、手を煩わせたくなかったというのもあった。
下界に行ってから身体を鍛えればいいではないか、移動手段として魔法などもあるのだから甘えても構わないとシエラは悪魔の囁きの如く言ってはいたのだが、少女は依然として断固拒否。
「健気や……!!」というシエラの声と「彼女は貴女と違って真面目なようですね」というファリエルの声を背に、出発してからの時間が今や数時間。
スティーは早速、疲労困憊の危機に陥っていた。
(頑張りましょう……!!)は心の声。精神面でそうは言っても身体面では限界である。スティーは自分自身を良く分析していなかったことを悔いては息を荒くして汗を流す。
体力を奪う原因の一つは背中の背嚢だ。
「はあ……はあ……」
すれ違う人などいない。
途中で街が見えるがその街までの道のりもまた長く、その街に続く分かれ道に向かって寄り道をしてしまえば何週間とピュトリスには辿り着けない恐れがある。
シエラの「大丈夫かな? 本当に大丈夫?」という心配の声はきっとこのことだったのか、とスティーは今になって思い知った。心の中は彼女に対しての謝罪で埋め尽くされ、目尻からはほんのちょっぴり涙が出ていた。
背嚢の中には一人用の天幕や食糧など旅をする中では必需品のものばかりで捨てる事など出来ない。
『ポイ捨てはいけません』
シエラの持つ本のうち数点の蔵書の中の一文としてそうも書いてあった。
『旅をするんなら、まず自分の体力面のことを考えなきゃならねえ。おい小僧、お前には何百何千里と足を動かせる自信はあるのかい? ねえなら足腰鍛えてから行きな』
嗚呼……何故今になって思い出す。
自分の名前の元になったストィリーが冒険を始める前に親代わりの男性から言われていたじゃないか。自分はそれを読んで何を学んでいたというのか……彼も自分の体力を過信して――嗚呼、自分も同じ道を辿ってしまっている。
「はあ……」
口から出てくるのは溜息だけで、その溜息も周りの空間に溶け込んで誰の耳にも届かない。
「考えても仕方ありませんね。一旦ここで野宿をしましょうか」
甘えている訳では決していない。
「そうですよ。休む時は休めって書いてあったじゃないですか」
もはや言い訳としか言えないようなことを言いながら、スティーは天幕を張り始めた。
天幕の色は紺色で、不思議なことに中は夜空を模した柄で飾られていて美しく、この天幕はシエラの創造物だがスティーはそれを知らない。一人用だというのに中は広く竈まで備え付けられており、シエラがスティーを苦労させないようにと少しだけでも甘えさせたかったのだろう。
本当は馬車で行かせるつもりだったみたいだが、スティーがそれを拒んだ。よってこのような物を創る結果になったという訳だ。
「出来ました! 完成です!」
シエラより貰った説明書を読みつつ、スティーは天幕の杭なども打ち終え完成を喜んだ。
それほど時間も掛からない為あまり達成感は無かったが、こういった野宿生活という物にも憧れていたスティーにとっては鼓動の激しくなる出来事でもあり、その内心ではワクワクやドキドキといった気持ちに溢れていた。
中を見ては感嘆の声を漏らしたり、時折天幕の入り口から顔を出しては誰からも侵略されない秘密基地のような感覚を味わい、そしてその状況に満足しては満面の笑みを浮かべる。
外の音などは聞こえるし、いつ近くを人が通っても大丈夫だ。
「これからは、ちゃんと人に頼るということをしなければいけませんね」
自分の力を過信するのはこれでおしまいにする。
時には人に頼ることも大事であるとスティーは学んだ。
「それにしても、この天幕は外見からは想像もつかないような広さですね」
天幕の内装は豪華で、家具も揃っていれば寝具さえもあるから驚きだ。更には調理場や調理器具も揃っている為暫くは苦労しない。だが問題は料理をした事が無いという事実であり、これからどうやって腹を満たしていくかが問題だ。
外から見ると青色の小さな三角形の家だと言うのに、中に入ってみると人が二人居ても暮らしていけそうである。
スティーはこれを見て何を思ったのか、シエラが「外見のみにとらわれていてはいけない」というメッセージの一つだと思い込んでいたが、等の彼女の意としては「狭いのはイヤだろうから広めの空間を用意しようね」という善意。
「これをくれたシエラ様には感謝しないとなりませんね!」
馬鹿真面目に「手は煩わせません!」と言っていたはずが、シエラに神器創造をさせているが彼女は気付いていない。
「さて、お腹も空きましたし早速料理に取り掛かりますかっ!」
両手の袖を捲り、むんずと鼻息を荒くして調理に励もうかとした数分後――スティーは馬車に乗っていた。
御者のこちらに向ける視線が痛く感じる。
数分前、馬の嘶く声がして天幕の出口から顔を出すと通りがかったのだろう馬車が止まり「お嬢ちゃん何してるんだい」という人間の男性にスティーは「野宿です」と答えたが、彼は困ったような顔をして神の許可は貰っているのかと問い、貰っていませんと答えた先がこれだ。
「この辺りはヴィステフ様の統治する場所だから、ちゃんとヴィステフ様に野宿の許可を貰わないとダメじゃないか」
諭すような男性の言葉がぐさりとスティーの心に刺さる。
シエラは許可だとか、そういったことは言及していなかった――彼女もこの事実を知らなかったという事だろうか。
その詳細は不明だが、確かに許可を貰わずに野宿をしていた自分に落ち度がある。
「どこから来たんだい? その……大きな背嚢、こんなただっ広い天界を旅しようとするなんて変わってるねえ」
「シエラ様の御自宅です」
嘘は言っていないのだが、御者は眉をひそめて「シエラ様?」と聞きなれない名称に首を傾げた。
「シエラ様をご存じないんですか? 創造神シエラ様です」
そのスティーの言葉に御者は答える。
「創造神様は分かるけど……あのお方には名は無かったはずだよ?」
「はい。私に名付けさせて頂いたので最近付けられました」
そう言うと御者はけらけらと笑って「面白いことを言うねえ」と返す。
嘘は言っていないはずなのに、嘘を言っているかのような態度を取られたスティーはたまらず頬を赤くし膨らませ怒りの表情を浮かべ、御者に言い返した。
「私が嘘を言っているとでも言うんですか?!」
「う……うーん……でもねえ、でも……ねえ?」
御者は信じられない、という顔をずっとする。
だが、スティーの頭にとある策が閃いてからは信じざるを得ず、信じる結果となった。
「この背嚢の中にある天幕ですが、シエラ様から貰ったんです。それを見て頂ければシエラ様がお創りされたものだと解るはずですし、納得頂けませんか?」
「良いけど……違ったらどうするんだい?」
「騙している、として降ろしていただいても構いません」
乗った、と御者は手綱を引いて動きを止めた。
するとスティーは間髪入れずに馬車から降り、背嚢から折り畳まれた天幕を取り出し前のように杭を打ち立て組み立てる。
数分か後に完全に組み立てられたことを確認しては御者が中に入っていき、その途端に「おお」と声を張った。
「こ……これは凄い……本当だ。このような物を創れるのは創造神様しか居まい」
感嘆の声を漏らしつつ言う御者に対してスティーは自分の事のように胸を張っていた。
「君のその髪飾りもそうなのかい?」
「はい、そうですよ!」
ようやく納得してくれたので、天幕を直した後は御者とシエラの事を話しながらピュトリスへと向かった。
「そう言えば、御者さんのお名前を聞いていませんでした。なんという名前なんですか?」
「ジョージだ。家名は……まあいいか、天界じゃ家名は関係ないからジョージと呼んでくれ」
彼の向かう場所はピュトリスではなかったが、方向は一緒だとして連れて行ってくれるのだという。スティーからすれば感謝してもしきれないが、ジョージは首を横に振って「構わない」と答える。
「シエラ様……か。創造神様にお似合いの美しい名前だ」
「ですよね! ……実はシエラ様の書斎にあった物語の一冊の、登場人物のお名前を拝借しただけなんですが、シエラ様が喜んでくれたので……もう少ししたら、ゼロフル様という神様が天界全域にそれを伝えるだろうと仰ってましたよ」
「それは良い。創造神様が喜んでくださるともあれば素敵な事、ゼロフル様も喜ぶだろうねえ……ほら、創造神様は今日に至るまで御名前など無かったものだから……」
しみじみと涙ながらに語るジョージの声には確かに喜びの感情が込められていた。
「あ、そうです。ピュトリスまで運んでくださるのですから代金の方を……」
「何言ってるんだいお嬢ちゃん。天界では金銭のやり取りは無いよ? そりゃあ、下界であれば金銭のやり取りはあるけど、ここは天界――私たちにとっては死後の世界でね。そんな物は必要ないさ」
「そう、なのですか?」
スティーからすればその事は驚くほかない事実だった。
下界の人間たちにとってはこの天界が死後の世界だと初めて知ったからだ。
本の中の世界では悪い事をした者は地獄、善い行いに溢れた者は天国に行くという文章が書いてあったし、少しばかり夢を壊された気分。背嚢の中から一冊の本を取り出してはその内容を見て「嘘だったのですね……」と呟いた。
「もしや天国と地獄って話しかい? 嘘じゃないよ」
「え?」
「この天界が天国地獄両方の役割を果たすのさ。確か……輪廻を司る神様が人間一人一人の罪を見て、苦楽どちらを与えるかを考えてくださるのさ。私は生前争いごとだとかは嫌いだったし、動植物が好きだったから無駄な殺生もしなかったから……こうして自由に過ごさせていただいているよ」
「それが……天国ですか?」
私にとっては、とジョージは答える。
人間が個人個人で考える天国は異なるだろう。故に神がよりそれに近い生活を出来るようにどこに住むか、何をして過ごせるかなどを判別し、そして天使に案内をさせる――ジョージにとっての天国は下界で生きていた時と同じようにのんびりと暮らせる場所だった。
「だからこうして、私は御者をしている。馬が可愛くてね……この馬も生前は馬車を引いていたようだよ? 私が御者をもう一度やりたいと言えば、天寿を全うした馬の中から数頭を賜わったんだ。背中に乗ると意外と高さもあるし……心地いいよねえ」
「へえ……」
話によれば、ジョージが所持している馬は今繋がれている四頭の馬の他に数頭ほど居るらしい。
馬の世話をするのも好きだと言っており、楽しそうに語る彼の横顔に相当楽しいものなのだろうと考えたスティーは目を輝かせながらジョージの話を聞き続け、しまいには眠たくなってか背嚢を枕にして寝ていた。
「ゆっくりと走ろうか……」
数十分ほどスティーは寝ていた。
目覚めるとジョージの「起きたか、おはよう」という声がして、スティーもそれに対して「おはようございます」と返し、上体を起こす。
「着きましたか?」
「まだ着かないよ。馬車で……一日は掛かる」
「そんなに……」
「途中でパレバトという街があるから、そこで腹ごしらえでもなさい。麦料理で有名だし、それなりに腹持ちの良い料理も揃っている」
「ありがとうございます!」
街に着いてからスティーはその空気を吸う。
鼻腔に広がるのは麦の香りは当然だが焼き菓子などの匂いも混ざっている。甘い砂糖を材料としてこんがりと焼き上げた匂い。
後ろを見ると「楽しんでおいで」とジョージがこちらに手を振って馬の毛を刷子ですくっていた。
彼が言うには馬を休憩させなければ疲れてしまうのだそうだ。
「行ってきまーす!」
街の中は屋台でいっぱいだった。
一番近くに合った光景は、肉を焼いて白い生地のようなもので包み、それが人の手に渡ると受け取った人は口へと運び頬張る姿だ。
「美味しそう……」
それを見てスティーは呟く。
人間の女性が頬張っては彼女が顔に表した笑顔を見て、スティーは早速そちらの方に向かった。
かなり人気の屋台のようで、長蛇の列が出来ている。これはきっと美味しいに違いない。列に並ぶ人の数は十数名で、自分の番まで時間は掛かるだろうがスティーはこの待ち時間にさえも鼓動を高鳴らせていた。
「あの、この屋台の食べ物は何て言う食べ物ですか?」
気付けば前に並んでいる女性に話し掛けていた。
踊り子の様な衣装を着た黒髪に黒い瞳、褐色の肌を持った長身の女性。その顔には薄く化粧がされていて美しく、こちらに微笑んでスティーの疑問に嫌な顔一つせずに答えた。
「ご存じないの? あの屋台で作っているのは麦餅よ」
「麦餅……」
「その麦餅に、味付けして焼いた肉を挟んで食べるの。良い匂いでしょ? 数日に一回くらいの頻度で食べるのだけれど飽きないし……麦餅も若干塩味が効いて、これがまた絶妙に相性が良いの」
「へぇー!」
想像するだけで口の中から涎が出そうだった。
スティーが食べた事のある料理はオムライスであったりとかこの世界とは異なる料理であり、それも非常に美味だったが麦料理はまだ食べた事が無い。
(あれ……冒険譚で読んだパンに似てる)
パンも確か、麦を使う料理だったはずだ。その冒険譚の主人公の好物の一つでジャムと呼ばれる果物を煮たものを乗せたりと様々な食べ方がある。色も似ているし麦を使うという点でも共通しており、もはやあれはパンだった。
冒険譚の内容を思い出していたところで先程の女性が受け取り、ようやくスティーの番が来て屋台の主人に同じものを頼んだ。
甘辛いたれの匂いに食欲をそそられる。少し移動して近くの長椅子に座って口の中に頬張った。
「ん~~~~!」
足をぱたぱたと動かしながら、スティーは咀嚼を繰り返し味わい尽くす。
すれ違う人々にその様子を笑われたが、それほど美味しいのだから仕方がない。近くにいた少年少女に「美味しいですよ」と教えて上げるも彼等彼女等には「知ってるよ!」と言われてしまった。
聞けば下界ではもっと美味しい食べ物が無数にあるというではないか。
天界にある料理はその一部で、天使が料理の多くをこの天界に伝えてくれるらしい。
「ファリエル様が色々な料理を知っていたのはこういう事だったんですね……」
料理の分類は多くに分けられているが、その分類に似たようなものが一つや二つあっても不思議ではない。
麦餅というものがパンと同じであることは食感からもよくわかった。ふんわりとしていて表面はカリっとした食感――本で読んだ内容とほぼ同じのものだ。
他に麦を原材料とした料理もあるのだろうか。
そう思ったスティーは他の屋台にも赴き、食べ歩きを始めた。
この街を統治する神はペレストという女神だそうだ。
「糧」を司り、その権能は食材を生み出す他に信仰する人間への来世での安寧などを与えたりと慈悲深いそう。象徴画は一ッ葉の新芽を囲むようにして丸が円状に並べられているもの。
パレバトの街は彼女の神殿が一番高い所に建造された緩やかな円錐状の街だ。
街の人の話によれば、ペレストの加護が水のように流れ落ち街がどんどん豊かになれば良いとして彼女は創造神にこの土地を願ったそう。その話を聞いているだけでもペレストの人の良さが滲み出ている。
人々のペレストへの評価はかなり高く、この街だけでなく他の街にも食料を分けているというのだからスティーからしても彼女の好感度はうなぎ登りだ。
「ペレスト様……会ってみたいですね……」
神殿に行けば会えるのに間違いはないのだろうが、一刻も早くピュトリスに向かわなければとスティーは思い出し来た道を戻った。
戻るとジョージが御者台の上でスティーの帰りを待っていた。
「すみません! 遅くなりました」
「おお、腹ごしらえは出来たかな?」
「はい!」
元気に返事をしてから、スティーは馬車に乗った。
「本当は、君が返ってくるまでに人が乗れるように改造しておけばよかったんだけどね……この馬車は資材を運ぶための荷馬車だから……」
「気にしなくていいですよ。ただで乗せて頂いているのに文句は言えません」
そう言うと、ジョージは創造神のことを聞かせてくれたことがお金代わりだと言っていた。
大袈裟のようにスティーの耳には聞こえたが、創造神の近況は天界でも下界でも気になる者はごまんと居るらしく、結構な価値を誇る情報でもあるともジョージは語る。
「ずっと、創造神様……いやシエラ様は神殿ではなく人間が住むようなあの場所にずっと篭っておられた。理由は分からなかったが、天界全員が不安がるようなことでなくて安心しているのさ」
そして次はジョージが話を広げていく番だった。
創造神シエラが籠っている間に天界で起きていた事――とは言ってもジョージがここに来てから今までの間の事だけだが、聞いている限りでは様々なことがあったらしい。
他の神々の事、下界で起こっている事、天界全域で開かれた創造神への祭事等々。
「シエラ様、かなり好かれてるんですね……」
「そりゃあそうだよ。彼女を嫌う者は悪魔くらいさ」
「悪魔?」
「うん。彼らが創造神様の近くに居ると彼女が何もしなくとも浄化されて消滅あるいは毒気を全て抜かれてしまうし、元人間だったなら人間に戻って罰を受ける。悪魔じゃなくても堕天使や悪霊も創造神様には近づくこと敵わない」
それだけ、創造神の力と言うのは凄まじい、ともジョージは続けて言った。
「創造神様は全ての母である。とほとんどの神々は言うよ? 中には求婚したがる神も一日に何十と居る」
だからこそ、スティーの事を誰もが羨ましがるだろう、とジョージは微笑んで言った。
途中、休憩を挟むなどを続けて十数時間――ようやく目的の街ピュトリスに着いた。
背嚢の紐を両方とも肩に掛け、スティーは馬車から降りて振り返り、ジョージに「ありがとうございました!」と大きく礼を言い、対してジョージは背中をこちらに向けたまま手だけで返事をする。
ピュトリスの街並みはパレバトと異なりかなり静かで整った印象だ。
古風な造りをした建物が均等に並んでいて、その光景には知的な雰囲気を感じる。
食品を売っている店はあるものの、ちらほらと言った感じでありそのほとんどが本屋や製紙をしている施設ばかりで辺りには紙の匂いに塗れていた。
知恵神の神殿は街の中央にあるらしい。パレバトの街は円錐状だったが、ピュトリスは平面の円形である。
「設置されてる地図まで詳細的に書いてありますね……」
地図記号の数も尋常ではなく、ファリエルとシエラから地図記号などを学んでいなければ学習能力に秀でたスティーと言えども人に聞かなくては詰んでいたと言えようか。
「シエラ様の書斎と同じく静かな雰囲気……紙の匂いにインクの微かな匂いもしますね」
この匂いは好きだ。知識の詰まった匂いで心も落ち着く。
パレバトの匂いも好きだったが、スティーとしてはこっちの方が馴染み深く好みな方であった。
「少しくらいは寄り道しても良いですよね」
最初にスティーが寄り道をしたのは本屋だった。
シエラの書斎にあった物語の中にこの世界の物語はあまりなかった為だ。その理由をシエラは「他の世界の物語を見返すのが好き」と答え――どうやら彼女はこの世界の物語はイヤと言う程見たらしい。覚えてしまった為読む必要が無くなったのだとも言っていた。
以上の理由から他の世界の書物を山という程持っていた創造神。逆にスティーはそれしか見ておらずこの世界の書物は数点ほどしか知らない。
これから本屋で物語の数々を漁って、長時間滞在――しようとした所でスティーは目的を思い出した。
(何やってるんですか……元々は勉強の為に来たんじゃないですか!)
今までで色々と楽しんでしまった事もあって調子に乗ってしまったのか、スティーは自分の頬をぱちんと叩き目を覚ます。本屋の主人がこちらを怪訝そうに見ていたが、スティーは彼に「すみません」と一言謝罪し後にした。
本当は神殿までの道のりを教えて貰った方が良いのであろうが、腐っても鯛――スティーは地図を完全に記憶し、神殿の道までを迷わず進み、寄り道はもうしないとして辿り着く。
その神殿の大きさはかなりのものだった。
正門を開けるだけでもどれだけの労力を必要とするだろうか? そんな疑問がまず頭に浮かび、あまりに大きい為スティーは冷や汗を流す。
堅牢な両開きの金属製正門、そして異様なまでに大きい本殿。
神殿の形は長方形と正方形を二段に重ねた様な造りで至って簡単なものだ。それなのにもかかわらず知的な印象さえ受けてしまうその雰囲気は知恵神の滞在する神殿だからだろうか? 今になって不安になってきた。
(厳しい方でしたらどうしましょう……寄り道した事とか怒られるんじゃ……)
もし怒られれば素直に謝るしかないが、もし筋骨隆々な男性で巨人のような神であったら……と思うと涙が出てくる。
象徴画は開かれた本の前面に四つ葉の植物を銜え正面を向いた梟の図。
本は培われる知恵を表し、四つ葉は与えられる知識を表す。梟は賢さの象徴。
「辞典で殴りかかってきたりとか……ありませんよね?」
立ちすくんでいると、背中に視線を感じる。
どうかされましたか? とも言いたげな表情で天使たちがこちらを見ていた。
「あの……知恵神ニゲラ様って……」
「いらっしゃいますよ」
「男神様ですか? シエラ様は女神だと仰っておりましたが……」
「女神様ですよ」
「だって……こんな重厚な神殿ですから男神ではないかと……」
「ニゲラ様は信仰者も多いですし、あらゆる図書をお持ちですからその分大きくもなります」
こちらを見ていた天使たちのうち一人に話し掛け、会話していくうちに天使たちは苦笑していた。
「ニゲラ様に用事があるのでしたら、あそこにある呼び鈴を鳴らしてください」
そう言って天使の女性が指差したのは金属製の輪が取り付けられたもの。彼女の話によれば魔道具の一種らしく、鉄輪でノックすれば中の者に訪問の報せが行くという物。
早く叩けばいいというのに、スティーは不安なあまり叩かず天使の方に振り返る。
「出てくださいますか? ニゲラ様……」
「大丈夫だと思いますよ~? 貴女……うん、ニゲラ様の好みに合いそうですし絶対大丈夫です」
「本当ですか?」
ピュトリスに住まう天使が言うのだから間違いはないのだろうが、スティーは怖がって動かない。
「…………」
話していた天使の女性の他の天使がぞろぞろと返っていく中、全く決行しようとしないスティーに彼女は溜息を吐く。
「こうやってやるんですよ」
「!?」
痺れを切らしたのか、スティーの手を掴み、呼び鈴を鳴らさせる。
口をパクパクさせつつ「心の準備が……!」と悲鳴を上げるスティーを横目に天使の女性は去っていった。
(ああああああシエラ様……私は悪い子です申し訳ございません寄り道しようとしてましたどうかニゲラ様に何とかお許しいただけますようお願いできないでしょうか……)
ニゲラが怖いあまり、この場に居ないシエラにスティーは神頼みしていた。
勿論通じるはずもなく、重い金属音を立てて正門が開いていく。恐る恐る入っていくスティー。
「大丈夫ですよね大丈夫ですよね……」
正門の次は木製の扉だ。
こちらの扉もかなり大きく、人が五人並んで入ろうとしても余裕の幅がある。
悩むこと数十秒――ついにスティーは扉を叩いた。
もう誰が出て来ても良い。怒られたなら怒られたで謝るそれで決定! と覚悟を決めたのだ。ここにシエラが居たのならばスティーの頭を撫でながら「良くぞ!」と褒め称えただろう。
暫くして、扉が開いた。
出てきたのはくすんだ金色の髪を持つ黒い瞳の少女だ。
髪はぼさぼさで服装は上下共に灰色の寝間着といったところ。背丈は四尺七寸程度と小柄である。
「あ、寝起きでしたか! 失礼しました……」
そう言って、スティーは頭を下げ扉を閉じようとしたが、少女は「違うよ」と面倒そうに答える。
「ニゲラ様はいらっしゃいますか?」
「いらっしゃいません」
「えっ? あれ? こちらニゲラ様の神殿……ですよね!?」
「チガイマスネ」
「あれえええええ!? 地図には……あれ?」
ここでスティーはハッとして思い出した。
シエラも神殿には住んでいなかったではないか。彼女のようにニゲラが別の家屋で住んでいる可能性も大いにあるし、むしろその線で行くとこの少女が代わりに住まわせていただいているという可能性も……そうだとしたらこの少女はかなり偉い立場を誇っているに違いない。
そんな推測をスティーがしていたが、彼女の目の前に居る金髪の少女はニゲラで合っている。
それなのにもかかわらず彼女が自分がニゲラでは無いと否定した。
その理由はニゲラの心意にあったのである。
(ほげえええええええ……可愛い娘がうちに……ヤバい可愛い……もしかして先日母さんが言ってきたっていう例の……あああああああ何か壮大な勘違いをしている……ごめん……ごめん。でもさ、好みドンピシャの女の子が来たらもうコレ私の精神が堪えられないって! 襲っちゃうよ濃厚な夜のひと時ふた時みつ時を過ごしちゃうって!)
最初、彼女はスティーが何かしらの偏見をこちらに抱いていようものなら追い返すつもりでいたが、スティーは純真無垢。彼女が偏見を持つなどほぼ有り得ないに等しい。
肩に掛けたかなりの大きさの背嚢については気になるが、それはどうでもいいものとしておこうか。
髪がぼさぼさで手入れのされていない事に関しても「寝起きなのか」と判断していた。
「ちなみに、聞いていい?」
「はい、どうぞ!」
「ニゲラ様ってどんなイメージ?」
「へ……?」
いきなりされた質問に、スティーは素っ頓狂な声を出しては「言って良いのかな……」などと呟きながら、冷や汗を流していた。
(よしよし、ここでイヤな偏見を言い出したら追い返そうそうしよう)
うんうんと頷くニゲラに、スティーは「誰にも言わないでくださいね……?」と一言添えて話し始める。
「女神様と聞いていたんですけど、その御顔はこう……えっと……お化けみたいに凄い恐ろしくてっ!」
(鬼のような形相って言いたいのかな)
「えっと……あ、この扉もこんなに大きいんですし背も巨人みたいに大きくて……」
(ごめん……これは設計した人間がこうしただけなんだ……色々な物資を運ぶのに便利な設計なだけ……ごめん……)
「も、もし来る前に寄り道しようものなら…………」
「ものなら?」
「か、雷をお、おおおお、落とされる……!」
寄り道をした自覚があってか、怯えた様子を見せ始めるスティーにニゲラは内心で落とさないよと否定していた。
そんな事が通じるはずもなく、スティーは更に冷や汗を流し始め、遂には正直に寄り道をしてしまった事を白状し、ニゲラもそれに吹き出した。
(素直な子だなあ……ピュトリスの天使たちは賢くなりすぎてあまりこういう子は見かけないからな……なんだか新鮮で良い。まあちょっと私がニゲラじゃないってことにしてるけど? どうしようかな……私も白状してしまおうか?)
正直なところを言うと、ここで正体を表したらスティーがどんな反応を返してくれるのかは気になる。
先程の寄り道の件を謝罪するか、それとも怯えて逃げ出すか。
「あ、ところで貴女のお名前をきいていませんでした! 私はスティーと言います」
後に引けなくなった、とニゲラは躊躇した。
ああ、どうしようかな。名前言っちゃおうかな? と頭の中ではぐるぐると戸惑いの心が回っている。
「……一旦、待ってくれないかな? ニゲラ様には伝えておくから」
「はい……え? ちょっと待って下さいニゲラ様は別の場所に住んでいるとかではないのですか?」
しまった、とニゲラは一つ汗を流して眉間を抑えた。
知恵神とした事が誘導されてしまうなんて一生の恥。等のスティーにそんな意は無いにしろ一本取られた気分だった。
「えっと……分かりました……ニゲラ様にはスティーと言う人間が来たとお伝えください……寄り道の事は……本当にすみませんでした、とも……」
「うん……」
踵を返し、スティーがニゲラに背を向ける。
その背中には哀愁が漂っているようにも見え、それに心が傷んだニゲラは遂に言った。
「ごめん……実は私がニゲラなんだ……」
眉をへの字に、口を引き結んでは目をぎゅっと瞑る申し訳なさの篭った表情。
対するスティーは口をポカンと開けて、瞳だけはこちらを見据えている。その唖然とした様子にニゲラは益々申し訳なくなってか更に表情を歪めた。
そして、唖然とした表情のままスティーは顔中に汗を滲み出させ、涙を一つポロリと落として声を張る。
「す、すみませんでしたぁ…………」
「こっちこそごめええええん!!」
――神殿の中に入ったあと、スティーは内装に目を輝かせていた。
壁一面に設置された本棚の数とそこに収納された本の冊数。その本の数は恐らく数万を行くだろう。奥へ奥へと進んで行ってもまだまだ本がある所を見れば数万なんてその一部だろうか。
様々な言語の題名。知らない物語の数々に興奮する彼女をニゲラはちらりと見やる。
寄り道に関しては怒ることもなかったし、自分もたまにやるからと許すことになっていた。
「天使様方はいらっしゃらないのですか?」
「居るよ。でも彼等は今仕事中、勉強中」
「どんなお仕事をしていらっしゃるんですか?」
「主に事務仕事さ。下界で培われた知識を纏めた本を書いたり、その知識が完成するまでの過程なんかを書類にまとめたりする――ちなみに通路の本は来客用で、来た人間や神々に天使がこうして気になった本を手に取って立ち読みをするのさ。暇な時間がなくなるだろう」
なるほど、とスティーはニゲラに笑って反応を見せ、ニゲラはその笑顔にすっかり顔を赤くしてごにょごにょと言葉を詰まらせた。シエラと同じく一目惚れである。
「そう言えば、ピュトリスにはあまり人間の姿は見当たりませんでしたね」
「人間にはここでの生活を薦めていないんだ。チェイルにもそれは言っているからあまり来ない」
「どうしてですか?」
「埃っぽい印象だからかな。そういうの嫌いな人間っているだろう?」
そうかな、とスティーは首を傾げていた。
ニゲラは埃っぽいなどと言っていたが街は綺麗に掃除が行き届いていたし、本屋に関しても埃などほとんど見当たらず店主のポケットには必ず小型の箒が入っていた。
事実、この通路にある棚のほとんどが綺麗だ。
「……ところで、どうして緊張してなさっているんですか?」
「へえ!? それを聞くかい!?」
神殿に入った辺りから緊張の様子を見せていたニゲラ。そんな彼女に疑問をぶつけるスティーにニゲラは顔を赤くして声を張った。
どうしてだと言われても「好きになったから」と答えるだけなのだが、そう簡単に言えてしまえるのなら人間だって子孫繁栄やその過程である恋愛にも苦労などしていない。そもそも論、ニゲラは今まで美少女などに「可愛いね~」だとかお誘い文句は少ならからず行っていたが、心を鷲掴みにされたのは初めてなのである。
(この子……鈍感なのかな……)
その実を言うと、スティーにはまだそう言った経験が無いだけであり、彼女自身もシエラと居た時や今現在も鼓動を早くはしていたししているが、その正体が何なのかは分かっていない。
「えっとその、ほら……私は髪もこの通りボサボサだし、お風呂も……一昨日から入っていなくてね。臭いんじゃないかと……」
半ば本当の、苦し紛れの言い訳にスティーはニゲラの首筋辺りに鼻を近付けた。
「ぬぁっ!?」
「……良い匂いがしますよ? そんなに心配なさらずとも」
それはまさしく、界隈で言う所の青春の一頁。
この世に生を受けてこの方数百億の神生で初めてしたその一頁に、ニゲラは心臓の張り裂けそうな気持ちでいっぱいだった。これが恋か、シエラも「好きだ」と言っていたが彼女がこの少女に恋をした瞬間にどんな反応をしていたのかが気になってしまう。
天使ともよくこういった事はするはずなのに、好きな人とこういう交流接触をするとなるとこうまで気分が高揚するのか、とニゲラは今になって学んだ。
首筋に掛かる吐息がくすぐったく、頬には血液が集中していく。寝間着の裾をぎゅっと握り羞恥を堪えるがやがてスティーは顔を離し、にこりと笑って先程と同じ言葉を発した。
そんなスティーに対してニゲラは消え入るような声で言う。
「き、ききき君は……とんだ女ったらしだよ……」
「えぇっ?! よくわからないですけど、嫌いにならないで頂けると……」
「なる訳ないだろう……! 君は初っ端から私の……いやいや何でもない。早速私の自室にでも行こうじゃないか」
「はいっ!」
「あ、いや変な意味では決してないからな!? 母さんからは話を聞いている。勉強をしに来たんだろう? 下界に行くための過程であるとか……だからその、つまりアレだ。この神殿には君の他に勉学をしている者はいるが、彼等が住みどころとしている場所は此処ではなくてだね? しばらくここに居るんだろうけど、ピュトリスには宿屋が無いだろう? だからその――」
「別に私はニゲラ様に何をされても構いませんよ?」
ニゲラが必死に何かを弁明しようとしていたが、スティーは無自覚に返す。
その言葉にニゲラは口をぽかんとして数秒固まった後、縛りが消えたかのような口振りで言った。
「君……そういうこと言うと……本当に色々するぞ……私は結構スケベなんだぞ」
「あ、それシエラ様も同じような事を言ってましたし、あと私知ってるんですよ……ファリエル様が言ってました」
いやらしい手つきをしながら言うニゲラに返したスティーに彼女は「え?」ときょとんとした顔を向ける。
「あの時何で~って後悔するのは自分です。それは自分の首を絞めるのと同義ってファリエル様が言ってました!」
それは確かにその通りだが、あの大天使様は何を言っているんだ? とニゲラは耳を疑った。こんな純真無垢な少女のそばでそんなことを言ってしまえば――――。
「大丈夫ですよ、ニゲラ様。私は拒むことはしません」
茫然自失するニゲラを前にスティーは両手を広げる。
それは全てを受け入れるかのような態勢で、何よりその行為には何一つ嘘偽りのないことを神であるニゲラの瞳が理解し、そして――気付けば少女の胸に飛び込んでいるニゲラの姿がそこにはあった。
――ああ、あったかい。
ニゲラの顔には満足気な表情が刻まれていた。
そして、手を握り合いながらニゲラの自室へと入っていった。
ニゲラが目覚めた時、彼女の心中は「やっちまった」という言葉のみが埋め尽くされていた。
場所は毛布の中、隣には一糸纏わぬ姿のスティー。つまりそういうことである。彼女とニゲラは一線を越えた。
母シエラはこの事をどう見る? スティーの事に関して報せを受けた時に彼女は「私の嫁だ」と強く、それは強く名言されており、これは所謂「寝取られ」という見るものによっては悪性文化であることを自分は理解している。
これを無自覚でやっていたのならまだ、まだ許されていただろうが……このニゲラ、ちゃんと自我はあった。
頭の中に浮かぶのはにっこりとした表情で青筋をしっかりと顔に顕現させたシエラの顔である。「てめえ分かってんだろうなぁ」などという言葉をしっかりと口にもしている脳内の彼女はニゲラの恐怖を煽るには十分すぎた。
「やばいやばい……時間にして数時間、この間の不在証明をどう工作するか……考えろ私は知恵の神ニゲラ。あー駄目だ駄目だスティーちゃんとの数時間のイイ思いしか頭に出てこない……ああ柔らかかったな良い匂いしたな気持ちよか……駄目だろ怒られるだろ!! 如何にせよ、まずは今この状況を何とかするしかない」
――母さん違うんだ。最近ホラ人肌に触れる機会というものにご無沙汰だったから……その私の想いにスティーちゃんは「いいよ」と言ってくれて、どこかの誰かが「据え膳食わぬは男の恥」とか言っていたし、いや確かに私は女だけどそんなのは誤差に過ぎないさ。だからこれは仕方のないことなんだよ。
――関係ない。私のスティーをよくもォォォォォォォォォォ!!
一つばかり脳内にて、弁明した際の局面を想像してみたが、兎にも角にも逃げ道が断たれたのは紛れもない事実。
どうしよう……自らの性的欲求に体を従わせてしまったばかりにこんな事になってしまった。とニゲラは現実逃避をした。
一方で、シエラ宅。
「そう言えば、よいのですか? シエラ様」
自室にて、これまでに溜まった仕事を片付けるシエラの横で片付けに励むファリエルが彼女に問う。
彼の心意はこうだ。ニゲラという女神は美少女が好きであり、そのことも相まってスティーに手を出し、貴女の機嫌を損ねてしまう結果になるだろうが、そこに関しての心配はないのか。
その予感は見事的中していたが、シエラはその予感が的中する事などお見通しであるとでも言いたげな雰囲気で手を動かしながら言った。
「私が独占欲強めに見えるの? ニゲラじゃなくとも手は出すでしょ。それに対してスティーは何時でも受け入れ態勢で体を預けるだろうね」
そんな彼女にファリエルは「意外です」と一言述べた。
確かにシエラは独占欲などほとんど無いし、嫉妬する姿など見た事はない。それは一重に自分が居ない所で嫉妬をしていたというのにも一理あるものの……言われてみれば「あれは自分だけのものだ!」と主張するよりも「皆のだよ」と人に諭す事の方が多い気がする。
「でも、スティーに手を出すのがニゲラやバースなら別にいい。チェイルはまあ……外に出てこないからないだろうけど、他の女神たちや男神に体を預けてみな? スティーはいつまで経っても部屋から出られる事は無いだろうね」
「そう……ですね」
「それに、ニゲラは今頃「やっちまった……」って感じに私に対しての言い訳を必死に考えているんじゃないか?」
「あり得ますね。ニゲラ様は神格者な分、後で物凄く後悔するタイプと聞きます」
「ニゲラとバース、両方してベッドの上さ」
「貴女、少しは嫉妬を覚えた方がいいかもしれないですよ」
「嫉妬するのは得意じゃないんだ。分かるだろ」
そう言いながら、シエラは仕事に意識を戻した。
許容されていることを知る由もないニゲラは現実逃避をしていた。
脱いでいた下着と寝間着を着て、自室の机にて肘を突いて深刻な面持ちで。
目の前に散乱しているスティーの服が現実へと意識を引き寄せ、ニゲラの悩みの種を増やしていく。その悩みの種を植え付けた張本人は自身のベッドで心地よさそうに寝ており、その寝顔を見る度心の臓を揺さぶり冷静な判断を不可能にさせてくる。
これは非常にいただけない。
(ご無沙汰って言っても母さんには絶対嘘ってバレる……)
昨日、数人かの天使と乳繰り合ったし言い訳をするにもやっぱり「ご無沙汰だったもので」は使えない。
ニゲラは自覚していないが、彼女は非常にモテる。彼女から誘うことはほぼ無いが通路を歩く度に女性天使から声を掛けられては色んな場所で体を求められ何度行為に励んだことか。
「スティーちゃんが男だったら……まだ制御は出来たのかな……男に言い寄られることは今まで無かったし、スティーちゃんも言い寄っては来なかったんだろうな……いや待て、一応聞いてみるしかあるまいか?」
早速、行動開始だとニゲラは自室を出た。
ニゲラ神殿の男女比率は男性が圧倒的に少なく女性の方が多く、その比率は一分と九割九分。
時代があれやこれやと変わるうちに女性が知恵を求めていく時代に変わっていったのがその割合比率にでており、下界でも男性は体を動かし、女性は本を読み知恵を育むという印象が強く根付いてしまっている。
だがその割合の中には勿論知恵を求める男性も居る訳だ。百数人に一人であるとしてもいることに間違いはない。
(今日、男いるかな……)
奥に続く通路を歩きながらきょろきょろと探す。
「ごきげんよう、ニゲラ様」
「やあ、ごきげんようミラ」
探していれば、反対側より女性の天使が来た。
碧眼で金髪、男性が見れば視線を引き付けるであろう発育の良い乳房を持った天使だ。垂れ目とゆったりとした動きが女性としての魅力を更に上げ、その声色もまた美しい。今はゆったりとした丈長の女性服を着ているが、派手な服装も似合うだろう。
そんな彼女の挨拶にニゲラは間を置かずに挨拶を返し、良い時に来たと誰でもいいから男性を見なかったかと聞いた。
それに対してミラはやや表情を固くしたものの、素直に男性の居る場所を答え、ニゲラは礼を言う。
「何故、男性を探しているのですか? 私では良くなくて?」
「おや、ミラは男性の気持ちを理解できているのかい? 私が今調べているのは男性の気持ちでね。私は女神故に残念ながら男性の気持ちを百程理解できていないのだよ」
「なるほど……そうでしたのね。私ったら何か要らぬ誤解を……」
「ふむ……? 誤解が解けたのならそれでいい」
ミラが教えてくれた場所へと向かい、扉を開ければ確かに男性が一人資料の整理をしていた。
前髪を長く伸ばし、恐らくは長い間入浴していないのであろう、研究服は埃に塗れ、近くに置いてある食事用の野戦食と思しき焼き物が置いてあるが、それにもあまり手を付けられていない。
初めに抱くのは静かな印象だ。名をミデラスと言う。短い人生だった故にその姿は五十にも満たない若さの容姿だ。
「随分と食べていないようだね。天界は確かに餓死はしなくとも、食による悦楽は味わっておいた方が良いのではないかい?」
「ニゲラ様ですか……何年振りにその面立ちを目にしましたかな……?」
「私が君を見たのは十年と少しだね。新しい神が誕生した時の忙しい時期に廊下で……しかし君は私に目を向けなかったよ」
「それは失礼。あの時は……ああ、そうです。下界で発案された法の解釈をしていたところで、要するに考え事をしていたのです」
「分かっているとも。私も考え事をしているとそういうこともある」
静かな印象を持っていたが、口を開けば彼はお喋りだった。
この神殿内で彼が人と会話をしている所などニゲラと言えど見た事が無かった故に、その事が知れたのは嬉しい事だ。だが悲しい事に最初の一瞥を覗けば彼の瞳はずっと手元の資料の方を向いている。
「学弁に勤しんでいる所申し訳ないのだけれど、少し私の疑問を聞いて欲しい」
そのニゲラの発言に、ミデラスは少し驚いたように仕草をしてからニゲラの方に目線をやった。
知恵神ニゲラに知らないことがある? 果たしてそれは一体どんな……? とでも言いたげそうな顔だ。
「お、聞いてくれるのかい?」
「ニゲラ様の知らぬ知識……気になる所存……私めがそのお力に添えるのか疑問を抱くことですが……少しは役に立ちましょう」
ミデラスの返答を聞いたところで、早速ニゲラは真面目な面持ちで言った。
「私は男性から見て魅力的であるのかい? 生まれてこの方男性から言い寄られた事が無くてね。引き籠っていたりと大半は私に原因があるが……それでも男性からしたら私に魅力が無いのでは……とね」
その言葉に、ミデラスは「もう一度お聞きしても?」と二度聞くという行為を初めてした。
彼は下界で誕生してからという物、もう一度聞くという行為をした事が無い。耳が良く、礼儀を重んじる家系に生まれてからか人の話をちゃんと聞く様にしていた。考え事をしていて話し掛けられている事にも気付かない事は多々あったが、それを抜きにしても彼が「何て言った?」みたいに自分の耳を疑うようなことは初めてである。
「私に男性から見て魅力はあるのかい?」
「……聞き間違いであって欲しかったと、こうまで思った事は初めてですよ」
「何故だい?」
「もっとかなり重要な事項かと思っておりました故」
「重要さ。私のこれからの沽券に関わるんだ」
「ふむ……」
ニゲラの返しに、ミデラスは体の向きを彼女に向け前進を上から下へ、下から上へと観察する。
異性から全身を見られるというのはニゲラにとって初めてだ。同性から見られることはよくあり、入浴時なんかにはジロジロと見られた挙句にあれやこれやと色々されることもあった。
新鮮な気分だ。とニゲラは思った。
「男性である私から見て、貴女はかなり……いや最早至高の女性と言っても良いのでは? 私が愛した妻が見れば瞬時敗北を察するでありましょう。私は妻帯者であるのと、所謂草食系ですので貴女を口説くには我欲が足りますまい」
「本当かい?! 私はちゃんと魅力的なのだね!?」
「ええ、他の男性陣も……あ、いえ……これは彼等から口から漏らすなと――――」
「言ってくれ構わない」
知りたい――「他の男性陣も」の続きを。
一体彼等は自分に対してどういった思考を抱いているのだろうか。「可愛い」とか「綺麗」とかであれば普通に喜べるし、「不細工」だとか「そんなには……」とか言われてしまえば普通に落ち込む。
「マジで気になるんだよ教えておくれよ死活問題なんだ」
「落ち着きを取り戻して頂けると……」
「頼むよ。男性陣にとっては私に知られたくないような内容なのだろうが私は気にしない! 安心してくれミデラスよ君がその事実を口にしたという事は内密にしておくからっ!」
「彼等男性陣が構うのです……」
「大丈夫だ彼等に対してこれからの対応が変わる事は無い!」
ニゲラは真剣な面持ちでミデラスの方を掴んでその知りたい欲求を曝け出していた。
ミデラスが言うのを渋っている理由はそれこそデリケートな問題だからだ――ミデラスのように、そういう目で見ていない者以外はニゲラの裸を妄想しては「ニゲラ様っ……ニゲラ様っ……!」と「いつかきっとニゲラ様とそういう関係に」と期待に胸を膨らますだけでなく股間も膨らませ、自慰に励む。ある者は魔法でニゲラに変身しなりきった後に変身状態での男同士での交り合いを行う者さえもいる。
そういった行為を行っているという話をミデラスはちょくちょく男性陣から聞かされる――何故彼等は私が秘密を守る確証の無いまま主神たるニゲラに抱く性情の猥談を話すのだろうか、と彼自身思うが……この猥談は主神にそのまま伝えるには度胸が足りない。
「申し訳ありませんが……私の口からこれを語るには度胸が足りませぬ。兎にも角にも貴女に対して、何と言いますか……性的欲求自体はあると私の目から見ても明白であります」
「むむむ……どうしても話してくれないのか……」
「申し訳ありませぬ……」
ニゲラとしてはどういった性的欲求を抱いているのかも気になってしまい、それを知れなかった事で釈然とはしなかったものの納得はした。
自分の容姿自体は男性にも魅力的に感じられるということ。
「しかし、何故だろうね。男性から言い寄られた事が無いというのは確率から見てもおかしい……」
「ニゲラ様。貴女はこの神殿の中でも外でも女性陣と共に過ごしています故、同性に情を抱くと思われているのでは? 私の生前では貴女の事は異性とは関係を絶った女神であるという言伝えでしたから、つまりはそういう事でしょう。そこに証拠なるものはないとは言え、この天界より降臨した天使が「ニゲラ様は女性以外と体を重ねた事はない」と言えば、それは真実でありましょうがニゲラ様の事を言伝えしか知らぬ人間たちからすれば「成程、神ニゲラは女性としか体を重ねまいのか」と受け取るのは貴女も理解できるでしょう」
そう言われてみれば、数百数十億の過去を振り返っても女性の天使や人間の誘いにしか乗ってこなかった。
(なるほどね……)
「解決されたようですな。では私めは作業に戻ります」
「あぁ。ありがとう」
思いもよらぬ解決をしてしまった。
一方でスティーは目を覚ました後、着替えてニゲラの所持している書物を見漁っていた。
様々な言語で書いてあるため今のスティーには何も読めない。どういう物語でどういう内容が書いてあるのが分からないのは少しだけ残念な気もした。
神聖文字とはまた違った簡略化されたような字体だ。
簡単に書けるようになっている。勿論他の書物の文字を見てみると書きにくく分かりにくそうな字もあるが、学んで慣れていけば書くのも苦では無いだろう――それは当然か。
寝具の下にあった女性の裸体が描かれた書物にはあまり文字が書いてなかったもので、あまり役には立ちそうにない。
そして、何冊目かを本棚に直した所でニゲラが帰ってきた。
「ただいま戻ったよ~」
入浴してきたのか、少しくすんでいた髪は輝きを取り戻し以前に増して美しい。服が濡れないようにしているのか後ろ髪は纏めている。
体は少し火照っていて、こちらの鼓動を早くさせる程魅力に富んでいた。
「おや、勉強していたのかい?」
「はい。でも私の知らない言語で書かれていました……」
「大丈夫大丈夫。神聖文字よりか圧倒的に簡単だからすぐに覚えられるさ」
今すぐにでも覚えたいと言った様子のスティーに、ニゲラは微笑みを返す。
「…………ちょっと待っておくれ? そ、そそそそそそれは……」
「はい? あ、すみません。寝具の下にあったんですが、女性の裸しか描かれていないんです。たまに男性の裸体も書いてありましたけど」
それは、要するに官能本である。
シエラの蔵書にも似たような書物はあったが、その内容の意味をスティーはまだ知らなかった。
「内容は分かりませんでしたが、何かこう……ドキドキしました。これ、頂いても良いですか? シエラ様にもみてもら――」
「ヤメテヤメテヤメテーーッッ!! それはエロ本って言うんだ持っている事を人に知られると恥ずかしいものなんだ!! ああ終わったスティーちゃんに見られてしまった私はもう引き籠るしか……!!」
「ええ!? すみませんそんなに大事な物だったのですか!? すみませんすみません!!」
『私の中をミタシテほしいの』と表紙に書かれた薄い書物を胸に抱きながら感想を述べるスティーにニゲラは両手を床に突いて嘆いた。
「……この本……「エロ本」って言うんですね……初めて知りました……」
(嗚呼……可憐で美しく純粋な少女に「エロ本」などと言う単語を言わせてしまっ……た……)
「あ、あの……」
「取り敢えず……一時間半後に私が行う授業が別室であるから……みんなとそれを受けると良い……」
「わ、分かりました……」
「ああ……はあ……」
「慰めになるかは分かりませんが、シエラ様も同じような書物を持っていましたし気に病む必要はあまり無いかと……初めて読んだ時は内容の意味はそれ程分かりませんでしたし……」
スティーの爆弾発言を聞いた途端、ニゲラは耳をぴこりと動かして顔を彼女に向けた。
「その話詳しく」
スティーに性知識が身に付いた。
――それはさておいて、ニゲラの授業が始まる時間が近付いてきたので、スティーは廊下を奥へ奥へと歩いて行く。
「授業」というものがどういったものかは今のスティーには分からない。しかしニゲラの物言いからして勉強をする為の事であるのは理解した。
何処でやるのかを聞いていなかったのが原因で迷ったりもしたが神殿内の人々が丁寧に場所を教えた為、無事スティーは授業場所に辿り着くことが出来、かなり大きな扉を開けて中に入る。
「わあ……!」
広大な空間、そして前方中央に向かい扇状に何列にも設置された机に何百という人が座っている。
聞けば一番後ろの席は人気が無いそうだ。一番人気の席は一番前で、一番後ろ端っこ席には誰も座ろうとしない。
「……?」
一つ、おかしな点があった。
この空間に居る人たちの言葉が理解できない。何を言っているのかが一切理解できず、異国の言葉であろうことだけが分かる――「神聖言語を話す者なんて熱心な言語学者、研究者か神ぐらいだよ」というシエラの言葉が脳裏に蘇る。
(私と同じ言語で喋ってる人……いない……)
完全に孤立してしまった。
『ねえ君、どうかしたの?』
首を傾げた金髪の少年がこちらに言葉を掛けてくれるが、スティーには彼が何を言っているのかが分からない為「えっとえっと」としか言うことが出来ずにいると、何かを察したのか続けて言った。
『こっち来て』
少年に手を引かれ、廊下に出る。
「君、もしかして神前授業室初めて?」
「!?」
「この室内では天界の言語理解状態が遮断されるんだよ。ニゲラ様が発する声だけ言語理解状態が維持されるけど……君は何語を喋ってるんだい?」
その少年は親切にも「神前授業室」というものがどういう所なのかを親切丁寧に教えてくれた。
神聖言語を話している事を伝えると「それは……すまない」と言葉を濁されたのが少し気になる所だが、子供の様な見た目であるが精神的にも彼は大人だ。
彼によると、神前授業室というのはそのままの意味で「神が授業を行ってくれる教室」のことだと言う。
後ろの席が不人気なのはニゲラの授業を聞き逃さぬよう、見逃さぬよう、なるべく近くで受けたいという気持ちの表れだそうだ。ニゲラは「つまんなかったら寝ても構わない」と言うらしいが寝る人は誰一人として居ないらしい。
「ちなみに今日の授業の内容は下界のことだよ。最近の情勢とかそういう感じの」
「へぇ……」
「僕たちが下界についてを知る必要はあまりないんだけどね」
「? でしたらどうして……」
「面白いからさ。下界が今どんな状況にあるのか普通に気になるし、僕たちが生前暮らしていた国がどうなっているかも気になる」
「なるほど……」
「あとは……天使たちが下界に降りる前に下界のどの国に降臨してどんな人間の手助けをしようか、とかを判断する材料にもなるんだ。これからどんどん人が増えるから前の席に早めに座った方が良いよ? それじゃ」
手をひらりと動かし、少年は授業室の中へと入っていった。
彼の名前を聞いておきたかったが、早い者勝ちだと言う前の席に座る為少し急いでいたし引き留める訳にもいかない。確かに彼の言う通り周りの人たちの動きは少し忙しそうにしておりこちらも急いだ方が良さそうである。
それに、下界の事が知れる授業をこんなにも都合良い時期に……嬉しい限りだった。
運良く、一番前の席に座ることが出来た。先程の少年は無事ニゲラの目と鼻の先に着席しており嬉しそうにしている。
(それにしても……)
先程までのニゲラの装いとは違い、彼女は博士帽を被り紺色厚手の生地の服を着ている。
清潔感溢れ、知的にも見える素晴らしい格好だ。授業を聞く老若男女が少しだけうっとり顔だ。
「御機嫌よう、君たち。今日も私より先に来て偉いなぁ……私だったら直前まで寝ているよ? なんてね。授業を始めるようか」
その直後、スティー以外の数百人全員が起立した。
いきなりの出来事に驚愕してか座っているのはスティーのみで、それを見たニゲラはちょっとだけニヤリとしている。
『知恵の御加護あらんことを。知識の御加護あらんことを』
それは、下界の人間や天使がニゲラに捧げる言葉のうち一つである。
ニゲラが授業を始める時の言わば号令みたいなものであり、これは信者たちが定めた「自発制約」――やってもやらなくてもいいのだが、やらなくてはいけない事が暗黙の了解となってしまっているのが玉に瑕。
スティーの周りに居る人間たちが彼女に冷たい視線を送る。
「こらこら、彼女は新参者だよ。これは君たちの暗黙の了解だろう? それを知らない者への押し付けは駄目だよ」
今度はニゲラが冷たい視線をスティー以外に送った。
その瞬間、ほぼ全員がしょぼんとして首をがくりと折る。
「おっと、責めるつもりはないんだ。君たちは君たちで好きなようにやって欲しい。改めて、授業を始めるね」
結論から言うと、スティーにとってもニゲラの授業の内容は凄く面白かった。
分かりやすかったし、彼女のユーモアを含んだ例えや覚え方など、スティーは内心シエラに申し訳なく思いながら「シエラ様より教えるの上手だった」と思ってしまったのだ。
授業時間は九十分。中々に充実した九十分だった。
まあ、この後個人と個人での勉強があるのだが……これは神殿内の人たちには内緒にしておくべきだろう。
何の勉強かと言うと、言語学習だ。授業中の人たちの会話の内容などは最初から最後まで全く分からなかったし、もしかしたら自分の悪口を言われている可能性も捨てきれないのでは? と思うときりがなく不安だった。
授業の後でこっそりそのことをニゲラに伝えたものの、スティーに彼女は「誰も何も悪口は言ってなかったよ」と言っていたし、心配しすぎなようだ。
「そもそも、あそこで人の悪口なんて言ったら自動的に廊下へ追い遣られるんだよ。そういう機能があるんだよね」
だから、誰も出て行かなかったという事は誰も悪口を言っていなかったという事だとニゲラはスティーに言った。
「良かったです」
「でも最初のはあまり関心出来なかったね……ごめんよスティーちゃん」
「良いんです。誰にだって間違いはありますよ……ってファリエル様も仰っていました」
「ふふ……じゃあ、勉強しようか」
「ところで、次の神前授業室での授業は何時からですか?」
「ごめん……あれは一週間に一度なんだ……」
ニゲラとスティー、一対一での勉強内容は主に言語学習などだ。
冒険をするという事は、様々な国に赴く為そこに言語問題などが生じると不便な事も多い。例えば出先の国の商人が言語や文化、情勢、価値観を知らないことを良い事に「これが当然さ」等と偽ることも否定できない。
というより、下界ではそれが頻繁に起こっている。
「この国の言語と文化からいこうか……比較的簡単だし」
「はい!」
スティーの驚くべき点の一つとして、学習能力が挙げられるがこれにはニゲラも目を見開いて驚いていた。
普通は何日もかかって覚えられるはずのものを数時間足らずで覚えてしまい、その言語特有の言い回しやそれに通ずる冗談なども言えるようになり、それどころか同時に別の言語を覚えるなど常軌を逸している。
「君は本当に凄いな……ますます惚れ惚れしてしまうよ」
下界にも他言語使いは何人も居るが、これほど早く習得したものは居るまい。
「魔法を使って学習能力を爆発的に向上させることは、下界の人間が試したことで可能であることは実証されたが、まさかその魔法すら使わず……これは、教え甲斐がありそうだね……!」
勉強を一区切り終えて入浴し、寝る時間になった。
ニゲラとスティーの一柱と一人で布団に入り、眠くなるまで会話する。
「ニゲラ様は、冒険した事はありますか?」
「無いな。でも人間たちの武勇伝をよく聞いているから……その中に冒険の話があったりするし」
「へぇ……」
「でも、ある時から天界とか特別な祭事以外で人間とはあまり話そうとはしなくなったから……そこまで知っている訳じゃないよ。ごめん」
どうしてですか? と言うスティーにニゲラは少し間を置いて言った。
「ごめん……思い出すと、気分が沈んでしまうんだ。だからその……察してくれると良いな」
そして、スティーの方を向いた。
対する彼女もニゲラに顔を向かい合わせた。
「気分が沈んだ時は、イヤな事があった時は、イヤな事をちょっとだけ思い出してしまった時には……いつもいつも誰かの体温に触れていたくなるんだよ」
「ニゲラ様にも、ツラい事があるんですね。私はまだありませんが……」
「あるよ。何百億と生きているとそりゃあ沢山……今日は……スティーちゃん、君に勉強を教えていた時にちょっとだけ後悔したことを思い出したんだ」
「それは……すみません」
「君のせいじゃない。今のは確かに語弊だったよ」
ニゲラがスティーの手を握った。
「スティーちゃん。君が母さんに創られたことは?」
「聞きましたよ。元々は人形のような、とも」
「そうか……少し話は変わるけど、人間は幼い時期に泣きたい時がある時は人形かぬいぐるみを抱き締めて寝るようだよ」
「はい」
「抱き締めても……良いかい?」
「良いですよ、ニゲラ様。一晩でも二晩でも抱き締めてください。私もそれに、応じますから」
ニゲラはスティーの体を抱き締めた。
そして目を閉じ、夢の中へと意識を投じた。
* * *
どの神も、信仰には“最初の信仰者”が居る。
最初から何十何百何千という数の信仰者を集めた訳ではない。まだ「シエラ」という名前の無かった創造神がその権能で以てニゲラを生み出した際に最初にニゲラへと与えた課題は「信仰者を一人でも集めなさい」というものだ。
この世界での他世界とは違って人間が居なくても存在し続けられるが、創造主はだからと言って信仰者たる人間を集めない事は良しとしなかった。
――これから生まれる神にも、同じ課題を与えるのですか?
ニゲラの答えに「勿論だとも」と答える主。
ニゲラは創造主と運命の大天使を抜きにすれば一番目に生まれた神だ。
創造主の創った世界はほぼ出来上がっていた。人間が普通に生活をして、普通に魔法を使って何も不便なく過ごしているようにも見える。
天から十一回程の力の余波が伝わってきて、新しい神が生まれたのだと理解した途端に思ったのだ。
――少しでも手本にならなければ、と。こうやって信仰者を集めるんだよ、と教えてやるのだ。
最初の信仰者の名前は“ルアン”。
黒髪を肩まで伸ばし、同じ色合いの瞳を持った少女だ。他の人間よりも「知りたい」という欲が強かったからこそ彼女を最初の信仰者に選んだのである。「私に従えて、共に知恵の恩恵を築き上げていかないか?」と声を掛けて、了承した彼女と契りを果たした。
ルアンとの勉強は楽しかった――ルアンが分からないと言えば、こちらも一緒に考えてそして理解して人生の糧にするのを十数年くらい過ごして、それはそれは幸せな時間だった。
信仰者もだんだんと増えてきて、立派な神殿まで建てて貰って、、神である自分が一番人間に頭を下げていたかもしれない。だって本当に有難かったのだ――本当に本当に……自分がしてやれることなんて人間の分からないことをただ教えて上げるだけで、人間たちがそれに対してしてくれるのがこんなに立派な事なんだよ。
――頭が上がらないよ。嬉しいよ……感謝してもしきれないよ。私の身体は小柄だから建築するには向いてないし……人間たちは「等価交換が成っているので大丈夫です」だなんて言うけれど、私はそうは思っていないよ。
神である貴女にそれ程頭を下げられてはこちらが罰当たりになる、なんて人間は言うが罰当たりな物か。
――だからニゲラは人間に沢山、沢山教えてやれることを全て教えた。最初の信仰者であるルアンには不老の加護を与えて、傍にいてくれることを願った。
知恵の権能であらゆる分野においての知識を人間よりも先進して会得できたから、科学技術なども全部教えて文化の発展を助けて――バースに言われて漸く気付いたんだ。
――ニゲラ、お前やりすぎだよ。与えすぎなんだ。いつまでも低姿勢でいるとホラ……見ろよ、聞けよ……誰も礼儀を弁えてない。「ありがとう」だって言ってないぞ。おまけにさ……あまり言いたくないけど、沢山お前の知識で人が死んでしまってる。
一回目の世界では核兵器という物が沢山作られた。
この技術を教えたのは他でもない自分だ。バースに言われるまで、全く気付かなかった――「凄いね」「やったね」と報告しに来る人間たちに褒めてばかりで、盲目になっていた。
確かに教えた時人間たちは「ありがとうございます」なんて言ってこなかった。差も当然だろうなみたいな感じで、参考書を読んで「なるほどこうやるのか、理解した」みたいな……いつまでも自分は低姿勢で……。
――ルアン、こういう時どうすればいいかな。初めてだよ、初めて知ったよ……知恵の神のクセして今初めて一番理解してなきゃいけないことを……。
――ルアン? 返事をしておくれ。
人間は死ぬことを恐れる。
気付けばルアンはボロボロだった。
その怪我はどうしたんだい、顔色をそんなにも悪くして、誰からこんな所業を受けたんだい。何でこんな……私は何もされていないのに何で君がこんな目に遭っているんだおかしいじゃないか。
――神様に……そんなことをさせる訳にもいきませんよ。それに貴女には加護がありますから、傷すら付けられぬでしょう。
与えた不老を徹底的に調べる人間たちの行動――ルアンの身体を調べる。
薬物投与即ち人体実験等あらゆることをされたのだろうルアンはもう死にそうだった。
――もうルアンの身体はボロボロだ! やめてくれ君たち!
人間たちは言うことを聞いてくれなくなっていた。
ここになって初めて「神である私の言うことをちゃんと聞いてくれ」と言った。最初で最後のその一言だったけど人間たちは――
――神? 頭を簡単にぺこぺこと下げて、いつも低姿勢の貴女のことを種族で見れば神としても神と見れませんな。貴女は辞書みたいなモノでしょう。
深く深く傷付いた。
――辞書と言われれば確かに辞書かも知れない。知恵、知識だけあって何もしなかったしこれは自分の子の小柄な体躯では何も出来そうになかったからであって、それは言い訳だけれどもこっちはちゃんと君たちの求めに応じていたじゃないか。何でそんな事を言うんだ神だって涙くらいは出るんだぞ。
泣いても慰めてくれるのはルアンだけだ。君の体の温もりが一番私の心を癒してくれるよ。
私の知恵神としての役割はただただ教えるだけの立場だったのだろうか? それの何がいけなかったのか全く分からないよ。誰か教えてくれ……教えてくれ。
――ニゲラ様、私の悩みを聞いてくれますか。
――ああ、なんだい。
死なせて貰えませんか。
たった一言それだけをルアンは発した。
二度は言わないといった態度で、ボロボロな身体で、下を向かず目を合わせた状態で、真摯に向き合うように、明るい街並み全体を遠くまで見下ろせるような高台で。
殺してくれませんか。
二度目は別の言葉。ルアンは精神的にも強い子だった。そんなことを言う子では……。
この私の決意に至るまでの成長に、私の結論に「凄いね」「やったね」とは言ってくれないのですか。
言う訳ないだろうそんな事。
君との思い出は私にとって掛け替えのない思い出だ。数重数百数千とアルバムがあろうと収めきれないくらいの思い出が沢山あるのに、そんな大事な人を殺めようだなんて私には出来ないよ。
死なないでおくれ、ずっと私の傍にいておくれ、私の大切な親友……。
私も貴女と居る時が楽しかったです。
信仰者の少ない頃には暇潰しに四つ葉を探して、梟を見かけた時は私に似ていると茶々を貴女が入れて……でも確かにあの梟は私に少しだけ似ていたかもしれません。
立ったまま寝られるところとか、自分を何かに似せて都合の悪いものから隠れようとするところなんかはそっくりでしょう。
今生の別れのような口振りだった。
彼女が次に何をしようとしているのか分かってしまった。馬鹿な事は止めて自分と何処かに逃げてひっそりと暮らそうじゃないかと言ったのに、ルアンは――――高所から飛び降りた。
掴んで阻止しようとした――自分は不老不死で加護があるから傷は付かないし、痛いだろうけど死にはしないから彼女を守ってやれると思った。
間に合わなかった――豆粒のように小さくなっていくルアンの姿が最後には潰れた果実のように。
なんで。
なんでこうなった。
ルアンが死んだのは何でなんだ。
人間たちがルアンが死んだことについて残念そうな顔をしていたが、その真意は「これで不老の研究は白紙に戻った」という意味合いで、誰もルアンの事を愛してなどいなかった。辛かった。
自分の頬をバースが叩いて「しっかりしろ」と言った。
彼女の事は勿論残念だ。でもここで学ばないのは何でなんだ? 怒らないのか、大切な人だったのだろう。人間たちを何故殴らない。
でも殴るなんてそんな……相手は痛いじゃないか。
母さん……どうしよう……私のせいなんだ。全部私のせいなんだ。情けないね。情けないったらありゃしないよ。
――大丈夫だ。また創るさ。
母はそれだけ言った。
そしてこちらを抱き締めて「これだけしか私には解決できない」と言った。
その意を、ニゲラは
――これ以降の涙は、最後まで流してはいけない。
世界を滅ぼした。
怒りだけに身を染めてニゲラ自身の力だけで世界を滅ぼした。
ここで初めて、感謝を忘れた人間たちが自身の事を「ニゲラ様」と呼んで、繰り返して許しを乞うが聞く耳持たずの態勢を取り、核も何もかもを使って操って人間たちの全てを刈り取って。
これが終わったら反省しなければ、と思った。
最後にルアンに……もう一度、抱き締めてほしかった。
君の生まれ変わりは誰なんだい? それだけが一番私の知りたい「知恵」だよ。
天界で何年も探したのに見つからないから、もう生まれ変わったのかなと魂を探すけれど見当たらない。
いいや本当は分かっているさ。
今抱き締めているのが、ルアンの生まれ変わりだってことぐらい。
何百億年も待ったよ。
今度こそはずっと一緒に暮らそう。
ニゲラ様 身長143センチ 体重42キロ