灰色の塔
「一人で全部背負おうとするから辛いのです。私と半分こしましょう? 」
夕暮れの王都を背に、少女が振り返る。いつもと違う穏やかな笑み。全てを見透かすような深い紫の瞳が、立ち尽くすルイスを射抜いた。
幼い頃から、王族として、第一王子として期待を受けていた。初めのうちはまだ良かった。示された課題をこなし、達成すればたくさん誉めてもらえた。しかし、段々と上がっていくハードルに、できて当然という周囲の認識に、まだ未熟な心は軋んでいった。
婚約者となるレティシアとの顔合わせが行われたのは、ルイスの心がいよいよ限界を迎えようとしていたときだった。
第一印象は「気の強そうな子」。将来の伴侶になると言われても上手く想像できなかった。それよりも、周囲の期待通り第一王子として相応しい振る舞いをしなければ、という気持ちが大きかった。
なんとか顔合わせを終えて、それからは、スケジュールに婚約者との手紙のやり取りやお茶会が加えられた。厳しい鍛練や膨大な課題をこなす合間の僅かな逢瀬。最初は婚約者の義務として模範的な対応をしていたルイスだったが、少しずつ互いのことを知っていって、冗談を言い合える仲になったとき、つい、胸の内を、周囲からの期待を辛く感じていることを溢してしまった。
場所は王宮の自室、少女はテラスに出て城下を眺めていた。言うつもりはなかった。話の流れで、するりと飛び出てしまったのだ。訂正できる雰囲気でもなく、ルイスは口をつぐむ。
そして、少女は振り返った。
やけに煩い鼓動に、じわじわと熱を持つ体。本人さえ自覚していなかった孤独に、そっと差し伸べられた手。滲む視界を誤魔化すように、ルイスは笑った。
すくわれた。そのとき確かに、ルイスはすくわれたのだ。
◇◇◇
ドレスが汚れるのも厭わず女子生徒の手を取るレティシアを見て、ルイスの心に暗い感情が渦巻く。今まで、レティシアが何かひとつに強い執着を見せることなどなかった。厳しい教育によるものか、本人の性質によるものか、或いはその両方か。過程はわからないが、幼い頃からレティシアは「そう」だった。それが、どうだ。この状況は。……何が、彼女を変えた?
隣に座る女子生徒、モニカ・リーヴィスに視線を向ける。産まれや育った環境は、少し特殊かもしれない。でも、特別珍しい話しではない。それなら……性格? もしくは、容姿か? 彼女にあって、自分に、他の者にない何かがレティシアを惹き付けてるとするなら、見過ごすことなんてできない。あぁ、幸せそうに笑うレティシアからリーヴィス嬢を引き離したい。みっともなくすがり付いてでもいい、愛を乞いたい。そんな顔、初めて見た。その娘に夢中になって、私のことなどどうでもよくなって、捨てられるんじゃ。そんな妄想を、杞憂だと振り払うことができない。いやだ、そんな、どうすれば……。
レティシアが一分の隙もない令嬢として振る舞っていたから気付かなかった。自分の中に、こんな醜い感情があったなんて。親に置いていかれた子は、恋人に別れを告げられた者は、神に見放された信者は、こんな気持ちなのかもしれない。胸が痛い。苦しくて、息が詰まる。どうすれば、どうすればいいんだ。
◇◇◇
「それは……俺にどうこうできる問題ではないかと……。」
一人ではとても消化できず友人に相談したが、なんとも頼りない返答を貰ってしまった。
「そんなあっさり諦めるなよ……。お前の方がレティシアとの付き合いは長いだろう。何か、ほら、心当たりとかないのか?」
「まぁ、一応親戚ですからね。付き合いは長いですけど……でも昔からあんな性格だったし、正直俺も何がなんだかって感じで。」
癖のある赤毛が雑に振られる。カーティス・レイン、レイン伯爵家の次男で、レティシアとは親戚関係にある男だ。身内なら何かわかるんじゃないかと思ったが、そう上手くはいかないようだ。
「殿下の愛が重いのは知ってましたけど、まさかこんなに拗れるとは。というかレティシアは女の子が好きなんですかね? もう殿下が女の子になればいいんじゃないですか?」
「……あぁ、なるほど。」
「…………え? ちょ、待ってください! 殿下っ、」
話を続けようとするカーティスを手で制し、笑みを返す。下げられた肩は諦めか、それとも呆れか。この男にはいつも苦労をかけてしまっている。だが、悪いな。もう形振り構ってられる余裕がないんだ。
◇◇◇
純白のロングドレスに覆われた体。肩周りや首元が上手く誤魔化されていて、胸には詰め物が入っている。フード付きのローブを被ってしまえば、そう簡単に男とバレることもないだろう。
長いウィッグに頬をくすぐられる感触が新鮮で、少し気恥ずかしい。馴染みの使用人を呼んで理由も言わず施してもらったメイクは、見慣れた顔を鮮やかに変えてしまった。鏡に写る自分を見て、浮かぶのは期待と不安。この姿を見たらレティシアはどう思うだろう。最初は驚いて、そして、理由を聞くのかな。軽蔑されて、婚約を解消されて、私の前から姿を消してしまうかもしれない。想像しただけで息が詰まる。でも、今さらやめることもできない。同情でいい、この愚かな男を憐れんで側に置いてくれるなら、それだけで、何だってできる。行動を起こさず、離れていくレティシアを見ているだけなんて嫌だ。とても、耐えられそうにない。
そっと手を伸ばせば、鏡の中、思い詰めた表情の女も手を伸ばす。手を合わせ、慣れた作り笑いを浮かべる。女は、痛みも苦しみも全く感じさせず、ただ静かに微笑んでいた。
◇◇◇
レティシアには事前に手紙を出した。話したいことがある。二人で会えないか、と。待ち合わせに指定したのは人気の少ない別塔の空き部屋だ。あそこなら、誰かに見つかる可能性も低い。
人目を盗んで寮を抜け出す。休日だから私服の生徒も大勢居るが、他より頭ひとつ分背が高いのだ、目立たない筈がない。なるべく人に会わないよう、裏道を通って目的地に向かった。
早足で進めば別塔にはすぐ着いた。薄暗い室内に踏み入れて、窓から入る明かりを頼りに入り組んだ廊下を進む。そして、ひとつの部屋の前で立ち止まる。いよいよだ。震える手をドアノブに伸ばして……そのとき、ふと、人の声が聞こえた。
「放してよっ! こんなことして、ただじゃおかないから! あ、やめっ……んむ、ん゛ーーー!!!」
「うるせぇ! おい、ちゃんと布噛ませとけよ。バレたら洒落になんねぇからな。」
「わかってますよ。……ほら、てめぇもさっさと歩け! 殺されたくねぇだろ。」
穏やかじゃない。人拐い、なのか? まさか、警備の厳しいこの学園で? 声はひとつ先の曲がり角から聞こえる。身を屈めて、音を立てないよう注意しながら伺うと、見覚えのない男が二人。年齢から、学園の生徒ではない。男達の側には一人の女子生徒が……あれは、リーヴィス嬢? 猿轡をされながらも、呪い殺さんばかりの目で男達を睨んでいる。これは……取り敢えず、人を呼ばなくては。そっと体を引き、後ろを振り返る。
暗い双眸と目が合った。
布で覆われる口、途端に力が抜けて、意識が急激に遠退いていく。やってしまった。油断していた。あぁ、レティシア。どうか、来ないでくれ……。