色付く世界
レティシア・ボールドウィンの人生計画には少しの歪みもなかった。一人の、男爵令嬢と出会うまで。
レティシア・ボールドウィンは、ボールドウィン公爵家の末の娘だ。輝く金髪と父親から受け継いだ紫の瞳が目を引く、鋭い美貌の貴族令嬢。社交もダンスも勉学も人並み以上にこなし、他者を圧倒して見せる。家柄も良く、令嬢のなかの令嬢と呼ぶのに相応しい人物。それが、周囲から彼女に対する評価だった。
そんな彼女が第1王子の婚約者に選ばれたのは、当然の結果だったのかもしれない。
レティシアが6歳のときに定められたそれは、貴族同士のパワーバランスやそれぞれの繋がりに重きを置いた政治的なものであった。本人の意思はなく、拒否権もない。ただ、次期王妃としての資質が求められた。いずれ誰かが担うものとはいえ、まだ幼い少女に与えるには酷な役割。しかし、彼女に不満はなかった。
顔合わせのときにレティシアをエスコートした第1王子、ルイス・オブライエンからは確かな聡明さが伺えた。異性として愛せるかは判らないが、伴侶として歩んでいくことはできそうだった。共に協力して国を支える。当時のレティシアには、それがとても遣り甲斐のある仕事に思えた。
そうして結ばれた婚約。レティシアは厳しい王妃教育に耐え、婚約者の努めを果たし、甘えも不満も見せずに模範的な令嬢であり続けた。ルイス個人にときめきを感じることはなかったが、理知的な会話は心地よく、趣味の良い贈り物は嬉しかった。
二人の交流は途絶える事なく続き、10年の月日が経とうとしていた。そして今年、レティシアは16歳、ルイスは17歳の誕生日を迎える。王国内の学園に通いながら、二人は変わらぬ日々を過ごしていた。
◇◇◇
遠くの方から入学を祝う声が聞こえてくる。もう少しで式が始まるのだろう。あぁ、こんな直前にスピーチ内容の変更を依頼しないでほしい。これさえなければ、もっと余裕を持って移動できたのに。燻る不満を抱えながら、レティシアは中庭に面した廊下を進む。歩きながら外に目を向けると、王立の名に相応しい、見事な庭園が広がっている。風に揺れる花々、朝露が陽射しを浴びて輝き、小鳥が囀ずる。この庭はいつ見ても美しい。些細な憤りなんて忘れさせてくれそうだ。
しかし、目の前の景色に気を取られていたせいで気付くのが遅れてしまった。タタタッと駆けるような足音を認識したのとほぼ同時に前方から何かが勢いよく当たる。レティシアは支えきれずそのまま一緒に床に倒れ込んだ。咄嗟に受け身を取ったが、痛いものは痛い。
一体誰が、と顔を上げたその瞬間、レティシアの全身に衝撃が走った。
「あ、あの、ごめんなさい! ちゃんと前見てなくて、ぶつかっちゃって……。」
長い茶髪がカーテンのように垂れ下がり、レティシアの耳をくすぐる。光が遮られた空間のなかで、ぽってりとした唇が緩やかに動き、言葉を紡いでいた。見るからに柔らかそうな頬は上気して赤く染まり、大きな目には涙が滲んでいる。
ドクドクと高鳴る鼓動が頭に響く。左右に揺れる瞳から、ふと伏せられた睫毛の動きから、目が離せない。鼓膜を揺らす音の意味を上手く考えられない。私は一体、どうなってしまったのだろう。
「立てますか……? 怪我とか、痛いところはないですか?」
よろめきながら立ち上がった少女から、小さな手が差し出される。少し迷って、その手を取った。冷たくて、所々に傷痕のようなものがある。
立ち上がったレティシアを、少女は頭半分ほど低い位置から申し訳なさそうに見上げた。
「……怪我はありませんわ。私も、不注意でした。貴女こそお時間はよろしいの? ほら、急いでいたのではなくて?」
「あぁ! そうでした! ごめんなさい、私、行かなきゃ……。どうしよう、本当にごめんなさい。終わったらちゃんと謝りにいきます!」
失礼します! と言い残して少女が駆けていく。その背が見えなくなるまで呆然と立ち尽くしていたレティシアは、開会直前を報せる鐘の音を聞いて漸く当初の目的を思い出し、後ろ髪を引かれながらも速足でその場を後にした。
◇◇◇
入学式が終わり夕方になると、ホールには着飾った生徒や職員が集まる。毎年入学式の日にダンスパーティーを行うのが学園の伝統だ。昼とは異なり華やかに彩られた空間に新入生の殆どは緊張した雰囲気を漂わせているが、在校生は慣れたもので、思い思いに交流している。レティシアも同学年の令嬢に囲まれながら会話を楽しんでいたが、見覚えのある茶髪の少女が視界を横切った気がして言葉を詰まらせた。すぐに目で追うが、ちらりと見えた横顔が昼間の少女と異なり、小さく息を吐く。
「レティシア様、どうかなさったの?」
「お知り合いの方でもいらっしゃいました?」
「あら、あちらでお話しされている方、ルイス殿下ではありませんこと?」
「本当だわ。レティシア様、ルイス殿下をみていらしたのね。」
言われてから、ルイス・オブライエンの存在に気付いた。いつもなら婚約者の動向もそれとなく把握していたのに。こんなことなかったのに。あの顔が、仕草が、頭から離れない。あの少女とぶつかってから、自分が自分でなくなっていくような気がする。
考えが纏まらないまま返事をして見慣れた金髪に視線を向けていると、周りの子息に促されてこちらを振り返ったルイスと目があった。嬉しそうにはにかんだルイスは近くにいた赤毛の青年に何かを伝え、真っ直ぐこちらに向かってきた。相変わらず、歩く姿さえ優雅だ。
「レティシア、次は君の好きな曲だ。よければ僕と踊ってくれないか?」
差し出された手に覚えた既視感を飲み込んで、自分の手を乗せる。集中しなければ。ダンスで余所見なんかしたら、相手の足を踏んでしまう。そんな事になったらルイスに恥を恥をかかせてしまう。
「なんだか今日は上の空だね。気になることでもあった?」
踊りながらルイスが囁く。そうか、他者から見てもわかるくらいおかしかったのか。その事実に僅かな不安を感じながらも、納得する自分がいた。
「えぇ、少し……。でも、ルイス様のお気を煩わせる程ではありませんわ。」
「そう。なら、無理には聞かないけど……僕に出来ることがあれば遠慮なく言ってね。」
心配そうに除き込むルイスに微笑みを返す。そのまま言葉を続けようとして、入り口の方がざわめいているのに気付いた。嫌な騒がしさではない。誰か来たのだろうか。不思議そうなルイスと顔を見合せ、足を止めないように踊る。ざわめきは段々と近づいているようだった。
そして、ゆっくりと人垣が割れる。踊っているせいで途切れ途切れの視界の先に、新緑を想わせる淡い緑のドレスが見えた。そこからすらりとした白い腕が伸びている。長い茶色の髪は後頭部で纏められていた。ぽってりとした唇はピンクに色付き、大きな目は落ち着かない様子で辺りに視線を投げている。可愛らしい少女だ。それなのに、子供から大人に変わる途中の危うさが見え隠れして、どこか艶かしい。
間違いない、あの時の少女だ。一度理解してしまえば、もう目を離せない。ダンスどころではなかった。訝しげに名前を呼ぶルイスに応える余裕もなく立ち止まり、街灯に引き寄せられる虫のようにふらりと一歩近付く。
「……あ! 昼間の、わっ! ちょっ! ……っ!」
自分のドレスの裾を踏んで顔から床に倒れた少女に驚き、覚束ない足取りのまま駆け寄る。
「凄い音がしたわ! ねぇ貴女、大丈夫? もしかして、気を失ってしまったの? ……どなたか、お医者様を呼んでいらして!」
声をかけてから、周りの協力を得て仰向けにする。赤くなった額が痛々しい。大丈夫だろうか。投げ出された手を取り、祈るように両手で握る。その様子を、ルイスが信じられないといった表情で見ていることも知らずに。
あのあと、速やかに集められた医務班の人員が、倒れた少女を担架に乗せてどこかへ運んでいった。残されたレティシアは手に残る感触を思い出しながら、少女について聞いて回った。噂好きの令嬢達は色々なことを知っている。
少女の名前はモニカ・リーヴィス。リーヴィス男爵家の庶子だが、失踪したモニカの母親を探し続けていたリーヴィス男爵が見つけ出して孤児院から引き取ったようだ。残念ながら、母親は数年前に病で息を引き取ったらしい。跡継ぎのいなかった男爵夫妻の一人娘として育てられることになり、王立学園への入学が決められたとか。
なるほど、とレティシアは頷いた。名前自体は聞き覚えのあるものだった。モニカ・リーヴィスの母親は貴族の生まれではないが、その美しさから花の乙女と呼ばれ舞踏会で話題に上がることがあった。誰かが、よく似た娘が居ると言っていたはずだ。彼女がその少女だったのか。モニカ・リーヴィス。小さく名前を口ずさむと、もどかしいような、くすぐったいような気持ちになった。
◇◇◇
入学式から数日経ち、学園内は普段通りの落ち着きを取り戻しつつあった。そんな折に、レティシアとモニカの三回目の邂逅は果たされた。
放課後、レティシアは友人であるレベッカと寮までの道を歩いていたが、レベッカが忘れ物をしてしまい、一人で帰ることになった。そのまま暫く進んでいたが、離れた場所から聞こえてくる話し声にいつか見た白い手が過り、たまには寄り道するのもいいかと来た道を戻る。
石造りの床が高い音を響かせる。中庭のあるこの棟は半分物置のようになっているので人通りも少ない。午前中に降った雨の名残なのか、湿った匂いが鼻を掠めた。珍しいものではない。だけど、モニカと会った日から、目に見えるもの耳に届くもの、五感で感じるもの全てがより鮮やかに思えた。
ふと思い立ち、庭園に足を向ける。厳かな石のアーチを抜けて舗装された煉瓦の上を通り、背丈ほどある生け垣の小路に入っていく。木が音を遮るからか、とても静かだった。なるべく足音を立てないようにしてその静寂を楽しんでいると、不意に誰かの話し声が聞こえた。男女の声。逢瀬の邪魔をしてしまったかもしれないと考えてから、それが聞き覚えのあるものだと気付いた。ルイスと、モニカの声だ。
無意識に息を飲み、ゆっくりと近付く。ルイスはいつも通り穏やかな様子だが、モニカから鼻をすするような音が聞こえる。
……鼻をすする? 泣いているの? 彼女が、何故……?
気が付いてしまうと、もうダメだった。何かを考える間もなく駆け出して、声の方向を目指す。ひとつ、ふたつ、みっつ。何回目かの角を曲がると、パッと視界が開けて少し広い空間に出た。同時に、ベンチに並んで座る男女が目に入る。驚いた様子の二人。モニカは花の刺繍が施されたハンカチを握り締め、頬と鼻を赤くし、大きな目から涙を溢していた。
あぁ! なんということ!
「一体どうなさったの? 何か悲しい事でも? 目が真っ赤だわ。どうか泣き止んで。 私に出来ることはある? 何でもするわ。」
駆け寄ってモニカの前に跪き、ハンカチごと両手を包み込む。見開かれた目から落ちた雫が、レティシアの気持ちをざわつかせる。
「レティシア、どうしてこんなところに?」
「あぁ、ルイス様。ごきげんよう。少しお散歩をしていて。……お話の邪魔をしてしまって申し訳ありません。泣いている声が聞こえて驚いてしまいましたの。」
何とも言えない表情を浮かべるルイスを怪訝に思うも、あの、と呼び掛ける声に釣られて視線を移す。
「レティシア様ですよね。私、モニカ・リーヴィスと言います。その、モニカって呼んでください。」
「……えぇ、モニカ様。それで……いえ、言いたくない事でしたら無理には訊きませんが……。」
「えっと、その、そんなに大層なものじゃないんですけど……。この前のパーティーでちょっと……ドレスが破けてしまって。私、ちゃんとしたドレスはあれしか持ってなかったので落ち込んじゃって、そしたらルイス様が声をかけてくださって……。あ! この前はごめんなさい! 何ともなかったですか? アザとか出来ませんでした? 私、いつも失敗ばかりして……本当にごめんなさい……。」
自分の名前なんて聞き慣れている筈なのに、彼女が口にすると全く違うもののように感じる。所々に令嬢らしからぬ発言があるが、それさえも可愛いらしい。まだ不慣れな様子が伺える。落ち込んでいる顔も抱き締めたいくらい魅力的だけど、でも、きっと、笑っている顔の方が似合う筈だ。
「私は平気です。安心なさって。……ねぇ、ドレスのこと、私に任せて頂けないかしら。あの時、私に気を取られて転んでしまわれたのでしょう? でしたら、こちらにも責任はあるわ。……どうかしら?」
「えぇ! そんな、申し訳ないです。レティシア様は全然悪くないですよ! あぁっ、そんな顔しないでください! え、どう、えっと。えぇ? ………………あの、本当に迷惑じゃないですか?」
「迷惑じゃないわ! 貴女がよければ、是非。」
「……じゃあ、その、お願いします……。」
話しているうちに引っ込んでしまったのか、もう涙は流れていない。不安そうなモニカに笑いかければ、少し照れたようにはにかんだ。あぁ、なんて可愛いの。全てが満たされた気分だわ。きっと、今、私は世界で一番幸せな人間ね。
自然に浮かぶ笑みをそのままに隣のルイスを見ると、こちらも優しく微笑んでいた。
「無事に解決してよかったよ。」
「えぇ、本当に。」
ふふふ、はははと笑い会う。しかし、何故か違和感がある。ルイスの笑顔ってこんな感じだっただろうか。いや、でも、気のせいかも。
二人の笑いに釣られたように、モニカも笑い声を溢す。あぁ、声でさえ可愛らしいなんて! 聞いているだけで、全てがどうでも良くなってしまう!