旦那さまが婚約者になった日
果歩さんが滝本さんの方に歩いてきた。
「お義母さん……ご病気なんでしょうか」
「耳は少し問題があるように感じましたね。当然医者ではないので、人間ドックに入られたほうがいいと思います」
「言っても、全然行ってくれないんです……これをきっかけに行ってほしいと思います」
そしてTシャツを抱えて一歩前に出て
「あと、これ、本当にありがとうございます。めちゃくちゃレアなのでは……?」
「俺の知り合いが偶然持っていたので、買ってきました。お二人ともお好きなんですよね、〇沢健二さん」
「マジで?!?!」
私は漫画のような変顔で叫んでしまった。
果歩さんはTシャツを見せながら
「これ、二年前の〇沢健二さんのライブで売っていたTシャツなんです」
小さな文字で沢山何かが書かれているが、どうやらそれは歌詞のようだ。
「私と弘毅さんは、元々〇沢健二さんのライブで知り合ったんです。もう何年も行けてないんですけど……」
「ああーー! そういえば兄貴オザケンは好きだった!!」
私は突然呼び覚まされた記憶に叫んだ。
隣の部屋からいつも同じ曲が流れてきていた気がする。
兄貴が苦手すぎて誰の曲なのか忘れていた。あれは〇沢健二だったのか。
「もしよろしければ……こちらもお子さんにどうぞ」
滝本さんが荷物の中から出したのは、またTシャツで真ん中に『大変なんですよ、いろいろ』と書いてあった。
私はそれを見て笑ってしまった。大変な家にいる人間にこれは嫌味すぎる。
「一緒にお渡ししようかな……と思ったのですが、本当に大変そうでギャグにならないかな……と思いまして」
「すごい、これ、ネットでみて欲しいなって思ってました。嬉しい、私が着たいです」
「果歩さんがこれ着たら、リアルに大変だからもう笑うしかないですね」
「家で弘毅さんに怒られたら樹里に着せます」
「ええー?! 火に油注ぐのでは……?」
私が言うと果歩さんは首を静かにふって
「ライブTシャツ見たら、久しぶりにあの頃の気持ち思い出しました。私も弘毅さんも、少しイライラしてます、最近。今日はオザケン聞きながらお風呂掃除します!」
「た……大変なんですね、いろいろ……」
「来年までに、もう少し余裕ある家になるように頑張ります」
果歩さんに見送られて、私たちは旅館を出た。
結局叫んで出て行った兄貴も、お母さんも顔を出してこなかったが、もうとにかく帰りたいので脱走することにした。
電車に乗り、やっと深く息をすることが出来た。
「改めて、おつかれさまでした」
ボックス席の電車の中、滝本さんは私に向かってほほ笑んだ。
なんだろう。行きの電車の中とは、滝本さんが違って見えた。
気が重くて気が重くて、毎年イヤで仕方なかった実家での地獄の一週間が本当に楽だったのだ。
それは間違いなく、滝本さんが一緒にいてくれたから。
私はスッ……と顔を上げた。
「あの、滝本さん、私たちもう結婚してるんですけど」
「そうですね」
「私、今回の旅行で、めっちゃくちゃ滝本さんのこと見直しました」
「うれしいです」
「だから、結婚してるんですけど、結婚前提に付き合ってみませんか?」
「えっ……あっ……えっ……?!」
「滝本さん、めっちゃ良い男だなって思いました。結婚してなかったら、付き合ってみたいなと思うと思います」
「結婚してなかったら……? あ、はい、えっと……はい、よろしくお願いします」
「じゃあ今日から婚約者でお願いします。もう結婚してるんですけどね。結婚してなかったら告白したいほど嬉しいことが沢山ありました」
結婚してなかったらうちの実家に連れてくることも無かったし、そもそも地獄の実家があるから、絶対に結婚する気になれなかった。
でもここに一緒に来てくれた滝本さんを見て、私は「すごい」と素直に何度も思った。
私は前の席から移動して、滝本さんの横の席に座った。
「とりあえず、婚約者なので今から苗字呼びを止めましょう」
これは前から思っていたけど、タイミングが掴めなかった。
「……はい」
「私は今日から滝本さんのことを隆太さんと呼びます」
「えっ……!」
滝本さんが私の横でびくりとしたので、思わず笑ってしまった。
「そして隆太さんは私のことを咲月と呼んでください」
「えっ……ちょっと突然それは……」
「どうしましたか、隆太さん」
「えっ……」
「……ごめんなさい、私も偉そうに言っておきながら、今、めっちゃ恥ずかしいです。慣れない……!!」
予想より心臓がドキドキしていて、熱くなった顔を扇いだ。
滝本さんが恥ずかしそうにしてるから、調子に乗って言ってみたんだけど、全然無理だった!!
その手に滝本さんが触れてきて、ぎゅっ……と握り返してくれた。
そして
「えっと……咲月さん、よろしくお願いします」
と頭を下げた。
その顔が面白いほどに真っ赤で、私はどうしようもなく恥ずかしくなったんだけど
「よろしくお願いします」
と私も頭を下げた。
滝本さんは優しく私の右手を握った。
「ではあの、婚約者ということは、デートとかお誘いしてもいいのでしょうか」
「ああ! いいですね! デートしましょうか。どこがいいですかね」
慣れない名前をお互いに呼び合い、汗ばんでも繋いだ手を離さず、私たちは一緒に東京に帰った。
先週は偽装結婚の二人だったけど、今日からは、婚約者として。
どうしようもなくドキドキして、でも嬉しくてワクワクする。




