歪んだ狂気
レティシアの風邪はたいしたものではなく、ユアンが旅立ってすぐに治ったそうである。見舞いに行ったニコラスがそう教えてくれた。フィーネは風邪が移るといけないからと共に行くことは許されなかった。
だから二人がどんな言葉を交わして、ニコラスがどんなふうにレティシアを労わったのか、想像して胸を焦がすしかなかった。
レティシアの体調が良くなると、ニコラスはマクシェインの屋敷に使用人といるのは肩身が狭いだろうと、自分の屋敷へ滞在するよう彼女を誘った。
「ユアンもいなくて、何かと心細いだろう」
ニコラスは言い聞かせるようにフィーネに言った。
「だからきみもレティシアのことを気にかけてやって欲しい」
フィーネは一瞬言葉につまったものの、すぐにその通りだと、レティシアのためにあれこれともてなしの準備をして迎えた。久しぶりに見た彼女は病に罹っていたせいか、いつもの勝気さはうかがえず、どこかしおらしい態度であった。
「ごめんなさい。フィーネ。突然押しかけて……ご迷惑だったでしょう?」
「いいえ、そんな……体調はもうよくなりましたの?」
「ええ。もうすっかり」
レティシアは花咲くように微笑んだ。
「ニコラスのおかげだわ。一生懸命看病してくれたもの」
「そう、でしたの……」
「何の話をしているんだい?」
「あなたにとっても感謝してるって話よ」
ニコラスが話しかけ、それにレティシアが小気味よく返していく。二人が会話する様はまさに息ぴったりで、フィーネが入る隙は全くなかった。
「ああ。本当に、招待してもらえて嬉しいわ」
ありがとう、フィーネ。
レティシアのお礼に、フィーネはいいえと答えた。彼女のように笑顔で返せたかどうかは自信がなかった。
最初は眉を顰めていた使用人たちも、主人とその婚約者の歓迎ぶりに、そして美しく聡明な客人に、すっかり機嫌をよくした。まるで本当の女主人に仕えるように、彼らはレティシアを気遣い、彼女の言葉を聞いた。
ニコラスはレティシアが屋敷へ訪れたことが嬉しいのか、その整った顔立ちを生き生きと輝かせて屋敷の中や外を案内した。二人が会話を弾ませて庭を歩く姿をもう何度見たことだろうか。フィーネは、そっと窓から目を逸らした。
胸の痛みを覚えると同時に、ユアンの顔が思い浮かんだ。
(彼は元気にやっているかしら……)
ユアンは出発する直前までフィーネのことを心配していた。本当は彼にこそ、誰かがそばに寄り添ってあげるべきではなかったのか。そしてその誰かは、婚約者であるレティシアが担うべきだったのではないか。
(でも彼女は……)
ユアンの置かれている立場を思うと、フィーネは切なかった。
***
レティシアが滞在して何日か過ぎた、ある日のこと。
フィーネはいつものように決まった時間に目覚め、朝食をとっていた。ニコラスとレティシアは昨日遅くまで話していたようで、まだ寝ている。フィーネも二人と同じ時間まで起きていたのだが、それでも朝はニコラスよりも早く起きるようにしている。
前世の時から、それはずっと変わらない。
ニコラスより早く起きて、身支度を整える。別に遅く起きたって彼は咎めることはしないだろうし、誰に強制されたわけでもないのだが、自然とフィーネはそうでないといけない気がした。少しでもだらしない行動をとれば、それが決定的なものになりそうで怖かった。
「フィーネ様」
「はい」
執事の声に、フィーネは手を止めた。
「何でしょうか」
いつもは何事にも動じない顔には、少し焦りがうかがえた。
「実は、お客様がお見えのようで」
「こんな朝早くにですか?」
いったい誰だろうか。一瞬ユアンの顔が浮かんだが、まだ帰国の知らせは受けていない。それとも、何かあったのだろうか。フィーネは立ち上がった。
「――から早くしろ!」
喚き散らす男性の声は、それほど近くない距離でも耳に届き、どこかで聞いたような覚えがした。
「しらばっくれても、通じないぞ。レティシアがここにいるのは、わかっているんだっ」
神経質そうな顔に、フィーネはあ、と思った。急な来客は、ライノット伯爵だった。
彼は周りの使用人たちの言葉も聞かず、レティシアを出せと怒鳴りちらしていた。酒を飲んでいたのか、顔がうっすらと赤く、服装も彼にしては珍しく乱れていた。
「ライノット様。こんなに朝早く、どうなされたのですか」
アルコールの臭いを漂わせ、異様に目をぎらつかせた彼は、執事を伴って現れたフィーネの姿にも、ちらりと一瞥しただけだった。
「ふん。お前みたいな人形に用はない」
フィーネは一瞬顔を強張らせたが、すぐに自分の役目を思い出し、使用人の一人にニコラスを呼んでくるよう伝え、自分は一歩前へと踏み出した。
「ライノット様。どうか御用がおありなら、こちらでお待ちください」
「聞こえなかったのか。私が用があるのは、顔と体だけで貴族の仲間入りを果たした気でいる女ではない」
フィーネはやはり自分は世間からそういう認識をされているのだなと、冷静に思いながら、立っている脚に力を込めた。屋敷の女主人はこんなことで狼狽えず、常に堂々としていなければならない。
「ライノット様は面白いことをおっしゃるのですね。ですが、もう少し言葉づかいを選んだ方がよろしいと思いますわ。実直すぎて、女性の心には響きませんもの」
「貴様……」
怒りの矛先がゆっくりと自分に向けられたのを確認しつつ、フィーネはレティシアが来る前に事を片づけておきたいと思った。ひどく嫌な予感がするのだ。だからどんなことをしてでも、伯爵の注意を引き留めておきたかった。
「レティシアの言葉を真似ているつもりか?」
どきりとした。その一瞬の動揺に、ライノット伯爵の唇が吊り上がった。
「なるほど。ブライヤーズ伯爵がレティシアを好きになったのも実によくわかる。いくら顔立ちが良くても、中身がこれでは、あの完璧主義の若造も納得できるまい。いいか、貴様はただの張りぼてだ。いつか必ずレティシアに、」
「これはいったい何の騒ぎだ」
さほど大きくないが、それでも十分に存在感を知らしめる声に、フィーネはほっとした。
「それが、ライノット様が……」
説明しようとしたフィーネを押しのけて、ライノット伯爵がニコラスの端正な顔に吠えたてた。
「レティシアはどこにいる!」
「ライノット伯爵。ここは私の屋敷ですよ。まずは私を通してもらわないと困りますね」
あくまでも穏やかに、だが毅然とした態度でニコラスは伯爵に述べた。
「ふん。しらばっくれてもこちらにはお見通しだ。あの小僧がいなくなったと聞いて、真っ先にここに来ると思ったんだ」
ずかずかと屋敷の中を歩き回るライノット伯爵に、ニコラスはかすかに眉をひそめた。同じ貴族のよしみとして寛大な態度を取っていたが、これ以上酔っ払いに我が物顔で自分の屋敷を闊歩されるわけにはいかないと判断したのだろう。
「連れ出せ」
そう短く使用人に言い放った。主の命に従い、背の高くがっしりした身体つきの男たちが、ひょろりと痩せた侵入者を取り押さえる。
「なっ、何をする! 離せ!」
じたばたと暴れ、逃れようとする男はただただ滑稽で、愚かだった。
「レティシア! レティシアはどこにいる!」
「私ならここにいますわ。伯爵」
凛とした声が響き渡り、レティシアが微笑を浮かべたまま登場した。彼女は二階から男のやつれ切った顔をしげしげと眺め、優しく語りかける。
「ライノット伯爵。どうかこれ以上見るに堪えない姿で私を失望させないでください」
愛する人の言葉がライノット伯爵の最後のプライドを切り裂いたのか、彼は一瞬放心したようにレティシアを見つめると、すぐさま顔を真っ赤に染め上げた。そしてどこにそんな力があったのかと驚くほどの力で使用人たちの制止を振り切り、階段をさっと駆け登っていく。
「お前という女はどこまで私をこけにすれば気がすむんだ」
ちょうど踊り場にあたる部分で立ち止まり、ライノット伯爵はレティシアに向かってひと際大きな怒鳴り声をあげた。だが彼女は動じなかった。どこまでも醜態を晒す男に心底失望したと、冷ややかな視線で男と対峙する。男が感情的になればなるほど、女の顔は冷めていく。
「先に喧嘩を売ったのはそちらよ。私のせいにしないで」
「私をその気にさせたのは、お前だ」
「まあ。お世辞と本音の区別もおつきにならないの」
「お前という女は……」
わなわなと唇を震わせ、言葉が出ないライノット伯爵は、懐にさっと手を入れた。レティシアは、はっとした。伯爵がナイフを取り出して、彼女に突きつけたのだ。食事をする際に使用する、見事な薔薇の模様が入った銀のナイフを。
初めてレティシアの顔に恐怖の色が浮かび、一歩後ろに下がった。
「なにを、考えていらっしゃるの……」
「お前が悪いんだ。私を、私をこんなふうに追いつめて、他の男の下へ走ろうとしたお前が……」
フィーネはライノット伯爵と距離を詰めようと、そっと足を動かした。まるで自分がそうすべきだと導かれるようにして体が動いたのと、彼の姿がもう一人の自分に見えたのだ。
嫉妬に狂った醜い男の姿が、自分を見てくれと叫ぶ哀れな男の姿が、いつかの自分の姿のように――
「ライノット伯爵、落ち着いて下さい。ここであなたを、」
「うるさい!」
ニコラスの声が、引き金だった。ライノット伯爵は最後の階段を駆け上がっていく。フィーネもそれにつられるようにして、彼の背を追った。
「いやあっ」
きらりと向けられたナイフに、レティシアの悲鳴が口からこぼれ落ちる。ニコラスが、そんな彼女を守るように前へ出た。そして同時に、ライノット伯爵が最後の一段に足をかけた。
フィーネは数秒後の光景が実に色鮮やかに瞼の裏に浮かんだ。
ニコラスがライノット伯爵からレティシアを守ろうとして、飛び出した時の窓から降り注ぐ光。ライノット伯爵が手にしているナイフの刃が、ニコラスの鍛えられた胸と腹の中間に突き刺さり、歪められた顔。磨き上げられた銀のナイフと衣服にじわじわと染み渡る赤。
フィーネは、ああ、と思った。それは、だめだ。
妄想と現実がごちゃ混ぜに入り交じった世界に、フィーネは手を伸ばし、ライノット伯爵に抱き着くようにして体当たりした。その衝撃に驚いたのか、彼の手から刃物がこぼれ落ち、カツンと床に響いた。
ほっとしたのも束の間、ライノット伯爵が恐ろしい呻き声をあげてフィーネを突き飛ばした。
視界が、ゆっくりと上昇したかと思うと、ぐるりと反転する。
「フィーネ!」
悲鳴が聞こえ、フィーネは打ち付けられる痛みと、くるくると忙しなく回る視界に目をぎゅっと閉じた。
甲高い悲鳴は、レティシアのものだろうか。それとも他の使用人のものだろうか。安否を確認する声や、医者を呼んで来い、という怒声。うっすらと目を開けた世界は、混沌としていた。
「フィーネ!」
目を見開くニコラスの顔に、ここで死んだら、彼は自分を覚えていてくれているだろうか、今度こそ本物になれるだろうかと思い、フィーネは目を閉じた。