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見返り


 物悲しい秋の季節は、心まで寂しくなりそうで、フィーネはあまり好きではなかった。


 目の前にいるニコラスは浅い呼吸を繰り返し、苦しそうに顔を歪めていた。フィーネはせっせと汗を拭いてやり、額の氷を取り替えてやった。熱はまだ当分下がりそうにない。


 立て続けの催し物で疲れが出たのか、ニコラスは熱を出して床に臥せっていた。彼の体調をもう少し気にかけてやるべきだったとフィーネは後悔した。


 顔を赤くしたニコラスが何か言いたげな表情で自分をみていることに気づくと、彼女はすぐに優しく微笑みかけた。


「どうしましたか、ニコラス様」


 吐き気をもよおすニコラスにも、フィーネは嫌な顔一つせず、洗面器を差し出し、背中をさすってやった。


「大丈夫ですか、ニコラス様」


 フィーネは泣いてしまいそうな自分を叱咤して、安心させるようにニコラスに笑顔を見せた。彼は丈夫な人だ。こんな病、すぐに完治してしまう。あの時だってそうだった。


『レティシア、どこにも……いかないでくれ』


 フィーネはすぐにその声から耳を塞いだ。今自分がするべきことは、ニコラスを看病することだけ。愛する人を元気にするだけ。余計な感情は考えるなと、フィーネは目の前のやるべきことに専念した。


「ありがとう、フィーネ」


 まだほんのりと赤みの残る顔で、ニコラスはフィーネにそうお礼を言った。


「ニコラス様。お礼をおっしゃるのはまだ早いですわ」


 フィーネは身体を冷やさぬよう、しっかりと布団を肩までかけてやった。


「それに、私はニコラス様の婚約者なのですから、看病するのは当たり前です」

「はは、きみは本当によくできた子だ」


 笑って息が苦しくなったのか、ニコラスは咳をした。フィーネがコップに水を注いで飲ませると、彼はやっと少し落ち着いた。


「昔もこうして、きみに看病されたことがあったな。覚えているかい?」

「……ええ、忘れることなんてできませんわ」


 レティシアの名をニコラスが呟いて、フィーネの人生は変わってしまった。たった一言の名前で、何もかも変わってしまったことが、フィーネにはひどく恐ろしく感じられた。


「私はあの時、もうこの世には長く留まることはできないと己の死を覚悟したんだ」

「でも、ニコラス様は元気になりましたわ」


 ニコラスはああ、と安心するように目を瞑った。


「きみの声を聞いた気がしたんだ。目を覚まして、きみを見つけた時、私はとても安心した」


 フィーネは布団から投げ出されたニコラスの手をそっと握った。彼もまた、緩い力で握り返してくれる。


「私にはフィーネがいるから大丈夫だと、そう思ったんだ」


 ニコラスの言葉に、フィーネは何も答えなかった。ただいつまでも、愛しい人の顔を寂しそうに見つめていた。


「――大丈夫ですか」


 気がつくとユアンが心配したような眼差しでこちらを見ていた。はっとしたフィーネは慌てて返事をした。見舞いに訪れた客人に対して、あまりにも失礼な態度であった。


「すみません。ぼうっとしていました」

「寝ていないんですか?」


 眉根を寄せるユアンに、フィーネは曖昧に微笑んだ。


「ニコラス様のことが気がかりで、横になっても目が覚めてしまうんです」


 前世の時のことを思い出してしまうのも、眠れない要因の一つであった。ユアンがそんなフィーネに呆れたように言った。


「看病もほどほどにしておかないと、あなたの方が倒れてしまいますよ」

「ええ、わかっています」


 ユアンはまだ言い足りなさそうだったが、話を変えるように言った。


「ニコラス様はもう大丈夫なんですか」


「ええ、もう二、三日安静にしていれば大丈夫だとお医者様もおっしゃいました」


「レティシアが感心していましたよ。ずっと傍で寄り添って、誰よりも熱心に看病なさる姿は、とても自分には真似できないと」


 お見舞いに訪れたレティシアが自分を見ていたのかと、フィーネには意外だった。彼女の目には、ただニコラスしか映っていないと思っていた。


「レティシア様も、私と同じ立場なら、同じようになさいますよ」


 しんみりとフィーネがそう言うのを、ユアンは何か考えるようにじっと見ていた。


「以前からずっとお聞きしたいと思っていたんですが、どうしてあなたは、そこまでニコラス様に献身的になれるのですか」


「どうしてって……好きな人が苦しんでいるなら、助けたいと思うのが普通でしょう?」


「病気のことだけではありませんよ。俺が言いたいのは、あなたのニコラス様に接する態度すべてですよ」


 自覚がないんですか、と聞かれてもフィーネはただ当たり前のことをしているだけである。


 思えば、前世の時から自分はずっとニコラスが行動基準になっている。彼が喜ぶならそうするし、怒るようなことを決してしない。生まれ変わっても、ずっとそれが、フィーネのニコラスに対する接し方だ。


 ユアンが眉根を寄せるように、きっと自分はおかしいのだろう。

 でも、フィーネは変えようとは思わない。ニコラスのためなら、きっとどんなことだってする。


「それは、どうしてですか?」

「ニコラス様が好きだからです」


 フィーネは愛しい人の顔を思い浮かべながら、微笑んだ。


「ニコラス様を愛しているから?」

「ええ、その通りです」


 ユアンは長い脚を組み替えた。


「やはり、わかりませんね。愛しているから何でもできるなんて、献身的すぎていっそ憐れです」

「献身的? 私がですか」

「ええ。そうではないんですか」


 まさか、とフィーネは笑った。


「献身的というのは、見返りを求めていない人のことを言います。私は彼に愛して欲しいと、そう望んでいます」


 フィーネはニコラスがどうすれば自分を見てくれるか、理解していた。レティシアには届かずとも、自分もまた彼にとって可愛がってもらえる存在だと、そうなるにはどう振る舞えばいいか、フィーネは前世で嫌と言うほど教え込まれた。ニコラスがそう教えたのだ。


 決して前へはでしゃばらず、嫉妬もあからさまにはしない。すがるような瞳は相手の憐れみを誘い、もっと手元に置いておきたくなる。口にはせず、目で訴える。


 意識しているにせよ、そうでないにせよ、フィーネは間違いなくニコラスの心を引き留めていた。彼の心を完全にレティシアへの元へは行かせなかった。少なくとも今はまだ。


「いつかその愛が必ずかえってくると信じているから、何でもしてあげたくなるんです」


 その言葉に、フィーネは自分の浅ましさを実感した。たとえ愛されなくても――最初はそう思っていたが、やはり心の底では望んでいるのだ。ニコラスが自分だけを見てくれることを。愛してくれることを。


(なんて、醜い)


「あなたは、馬鹿ですね」


 そう言うだろうと思っていたフィーネは、そうですよといつものように言い返してやろうと思った。


 でも、顔を上げて、彼の琥珀色の瞳に、フィーネは言葉を飲み込んでしまった。


(どうしてそんな傷ついたような目で私を見るの)


 微笑んでいるのに、フィーネにはユアンが泣いているように見えた。


「何か、おっしゃってはくれないんですか」


 ユアンが待ちくたびれたように、返事を催促した。


「……何を、言って欲しいんですか」


 いつもはすかさず嫌味を述べるユアンが、今はどこか困ったようにフィーネを見ていた。呆れた表情ともまた違う、本当にどうしようかと途方に暮れた表情で。


 フィーネもそんな彼の表情に何も言えず、二人は訳もなく見つめ合っていた。


「何をしているんだ?」


 弾かれたようにフィーネが振り返った。

 いつの間に部屋に入ってきてのか、ニコラスが怪訝そうに二人を見ていた。


「ニコラス様、まだ寝ていなくては」


 フィーネはうるさく鳴り響く心臓を抑えながら立ち上がった。


「お客が来てくれたのに、寝てばかりいては失礼だろう」


 ユアンが立ち上がり、ニコラスに微笑んだ。もう先ほどまでの違和感は、どこにもなかった。


「ニコラス様、どうかまだ安静になさっていて下さい。俺もこれで失礼しますから」

「なんだ、もう帰るのか」

「ええ。今日こちらを訪ねたのはあなたの具合が気になったのと、レティシアがここにいるかもしれないと思ったからです」

「レティシアがいないのか?」


 どうして早く言わない、とニコラスはユアンを責めるような目で見た。ユアンは軽く肩を竦めるだけだ。


「おそらく店でも見て回っているのでしょう。以前もありましたから。今からそちらを当たってみます」


 彼はそう言うと、まだ何か言いたげなニコラスの横を通り過ぎて、取っ手に手をかける。扉を開けると、最後の挨拶だと彼はニコラスとフィーネを振り返った。


「それでは、」


 さようなら、という言葉はフィーネに向けられた。

 ぱたんと戸が閉められ、ニコラスはため息をつきながらソファに身を沈めた。フィーネは彼に部屋に戻って休むよう言うべきか迷った。沈黙が、今はどこか恐ろしかった。


「フィーネ」


 ニコラスが目を閉じて、仰向けになりながら言った。


「はい」

「ユアンと、何を話していたんだい」

「ニコラス様の具合はどうかということですわ」


 片目を開けて、フィーネをちらりと見た。


「本当かい?」

「ええ、本当ですわ」


 ニコラスは体勢を起こし、傍に来るようフィーネに言った。彼女は言われた通りに従う。膝の上に座らせ、向き合う形でニコラスはフィーネの顔を見上げた。


「そうか。だが、淑女は男性にあまり色んな表情を見せてはいけないよ。男性は自分にだけは気を許していると思って勘違いするからね」


 子どもに言い聞かせるような優しい口調だったが、フィーネにはもう二度とユアンと話すなと言っているように聞こえた。


(では、あなたは違うというのですか。私には決して見せない表情を、あの方には見せているというのに……)


 それを本物である彼女がどう思うのか、ニコラスは一度も考えたことがないのだろうか。偽物フィーネより自分は深く愛されていると――


 フィーネはそう思ったが、はいと頷いた。しおらしい態度に満足したのか、ニコラスは表情を緩め、彼女の首元に顔をうずめた。強く己を抱きしめる男に、フィーネもまた目を閉じた。



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