結び直す
――いいかい、ユアン。魔法というのは、結局人の思いだよ。強く思えば、呪いにもなるし、奇跡を起こすことにだって繋がる。すべての原動力であり、時には医者が出した薬よりよく効く。
――だから、悲しいことがあったら願いなさい。やり直したいと思うほどの後悔は、胸にずっと抱えていなさい。そうすれば、次の時にはきっと叶うはずよ。
――たとえ、歪な形をしていてもね。
記憶が蘇ったのは、肖像画にそっくりの女性――レティシアと出会った時だ。
誰かとそっくりで、瞳の色が違う、と思ったのがきっかけだった。
レティシアは肖像画以上の美しさだったが、ユアンにはフィーネとの違いを思い出させる要因にすぎなかった。
レティシアの方もユアンの容姿を気に入りはしたが、性格と家柄にはどこか満足がいかないようだった。彼女は窮屈で古臭い慣習に縛られた国ではなく、もっとのびのびとした都会へと出ていくことを望む、よくいる令嬢の一人だった。
ただ容姿が他の女性と比べてほんの少しましなだけ。自分にはもっと相応しい人物がいるはずだと、常に誇り高い理想を描いている、おめでたい女性なだけであった。
陰で幾人もの男性をその気にさせながら、ユアンを手放そうとしなかったのも、周囲の女性が彼と婚約できる彼女を羨ましいと嫉妬と憧れの目を向けたからだろう。ユアンを隣に侍らせることで、自分が評価されていると錯覚する。彼女はそういう人間だった。
ユアンはレティシアの家の持参金は欲しいと思ったが、それ以外には特に惹かれるものはなく、むしろ自分と彼女の相性が水と油のように悪いことに気づいていた。
親戚からも別の令嬢にしたらどうだと、それとなく言われたことは一度や二度ではない。レティシアの両親も、娘にもっと金持ちの男にしろとケチをつけているようだった。実際に直接そう言われもした。
安心してほしい。
ユアンはもちろん彼女と結婚するつもりはなかった。レティシアの方も、それは同じだろう。
「私はこの国の人間と結婚するつもりはないわ。でも、婚約者がいない状況に、両親も周囲も当然黙っていないわ。だからあなたには、私の婚約者のふりをして欲しいの」
そういうの、得意でしょう? とレティシアは妖艶に微笑んだ。
ユアンは、レティシアの仮の婚約者として名乗ってやることにした。
それは、一つの賭けだった。
彼女と一緒にいれば、必ずニコラスという男に会える。そして、ニコラスの隣には、フィーネがいるだろうと。根拠もないが、ユアンには予感があった。
レティシアがユアンの叔父を一緒に訪ねることを許したのも、そういう望みがあったからだ。
もっともユアンがたとえ許可せずとも、彼女は勝手に着いて来ただろうが。
フィーネに会って、どうするかは具体的に決めてはなかった。ただ文句の一つでも言ってやらないと気が済まなかった。それで終わりのつもりだった。
彼女が、一人部屋で涙を流している姿を見るまでは――
あの時、人形のように整った顔に何の表情も浮かべず、彼女はただ静かに泣いていた。
ニコラスとレティシアが逢引していた場面を見てしまったからだろうか。自分がついにニコラスから捨てられると悟ったからだろうか。
きっとその全てだ。
それでも彼女の目は、決して諦めた者のそれではなかった。顔に何の感情も浮かべておらずとも、青みがかった緑の瞳は、ニコラスを愛し続けると、訴えていた。
目が離せず、ユアンは彼女に声をかけることを忘れてしまったように、しばらくその光景に見入っていた。
傷つきながらも、男の愛が決して自分に向かなくても、その男を愛さずにはいられない。人はそれを愚かだと嗤うかもしれない。ユアンも今の今までそう思っていた。いや、今でもそう思っている。
だが同時に、その女の愛が、愛しいとも思った。それは怒りにも似た激しい感情だった。
彼女の呪いともいえる一途な想いを崩し、自分こそが、どろどろになるまで愛してやりたい。
「馬鹿ですね」
自分がいかに難題に挑もうとしているか、自覚はあった。それでも引き返すつもりはかけらもなかった。
フィーネが振り返り、ユアンを困惑したように見つめている。ユアンは彼女から片時も目を逸らさず、一歩足を踏み出した。
ユアンからすれば、彼女があそこまでニコラスに献身的になる理由が微塵もわからなかった。まるで呪いのようだとさえ思った。
いいや、きっとそうなのだろう。
見返りのない愛なんて、きっと人は許せないのだ。いくら表面上はそう思っておらずとも、少しずつ想いは拗れていき、穢れなき想いはドロリとしたおぞましいものへと姿を変える。
彼女はその中で身動きがとれず、生まれ変わってもなお、満たされなかった前世の苦しみに翻弄されている。前世のレティシアの代わりに、ニコラスに作り替えられたフィーネという女性。
そんな彼女を自由にしてやるには、どうすればいいのだろう。
ユアンが彼女を無理矢理攫って、幸せにしてやることもできた。でも、彼はそれではだめだと思った。
彼女には、本当の意味でニコラスと決別させなければならない。前世に縛られて、彼のために生きてきた可哀そうなフィーネを解放させなくては、彼女はいつまでもニコラスの面影に縋るだろう。それでは前世と何も変わらない。
辛くても、彼女自身から別れを告げなければならない。
そして今度こそ彼女はレティシアの代わりでもなく、前世のニコラスを想い続けるフィーネでもなく、本当のフィーネとして生きていくことができるのだ。
――だからレティシアの願いはちょうどよかった。
「ニコラスと一緒になりたいの。だから、フィーネの気を引いて、ニコラスと引き離してちょうだい」
レティシアは必死だった。ライノット伯爵をその気にさせておきながら、ニコラスを自分のモノにしたいと訴えた。そのためには何でもすると。ユアンは、言われたとおりに従ってやった。レティシアのためではない。フィーネのためだった。もっというなら、自分のためだった。
「あなたは、いつも意地悪ですね」
そう言って睨まれたことは、一度や二度ではない。いや、会うたびにいつも睨まれていた気がする。
きっかけは些細なこと。始まりはいつも同じ。彼女が物憂げな表情でニコラスを見ていたので、また愛しい人に相手にされなかったんですか、いい加減諦めたらどうですかとユアンが揶揄ったことが始まり。彼女は顔をしかめっ面にして、そんなんじゃないとユアンに反撃する。
でも、そんなのは子猫が威嚇するような、可愛いものだった。ユアンがのらりくらりと躱してやり、時に急所をつついてやれば、彼女はあっという間に窮地に立たされる。
ニコラスのことばかりで、ちっともこちらを見ようとしない彼女に、ついきつい口調で責めてしまった自覚はある。やりすぎたという後悔もほんの少しある。
それでもそんな彼女のつっけんどんな態度が可愛くて、もっといろんな表情を見たいと思った。できればニコラスのことではなく、自分のことで。
そんなユアンの気持ちを誰よりも敏感に察したのは、フィーネ本人ではなく、ニコラスだった。
ニコラスは確かにユアンがレティシアの命でフィーネに近づいていることを知っていた。だが、それを決して手放しで歓迎したわけではなかった。
「フィーネに変な気を起こそうとするなよ」
ニコラス・ブライヤーズは、自分がフィーネを傷つけるのは良しとするくせに、他人が彼女に優しくすることは許せない、狭量な男だった。
「ええ、もちろんです。彼女はあなたの大切な人ですから」
口では従順さを示しながらも、ユアンは彼の忠告に従ってやるつもりは微塵もなかった。彼がレティシアを見ている間、フィーネとの時間を楽しんだ。そのことに嫉妬していたニコラスも、結局はレティシアを選んだ。
ニコラスは果たして幸せになれるだろうか。
たしかに前世でレティシアはニコラスの最愛の女性としてあり続けた。でも生まれ変わった彼女は生きている。歳を重ねていく。
死んだ人間は、どこまでも思い出の中で美しく生き続けることが許されるが、生きている人間は違う。前世では知らなかったレティシアの欠点も煩わしさも、彼はこれからすべて知っていくことになる。
思い通りにならない腹立たしさを、ニコラスははたしてどこまで我慢できるだろうか。それとも愛した女にならば、腹を刺されたって泣いて喜ぶのだろうか。だとしたら、その愛は本物だとユアンは認めてやってもいい。
(けれどそうはならなかった)
港で別れ際に見たニコラスの顔をユアンは思い出す。
フィーネの別れを直接ユアンは聞いてはいないが、それまでの彼女のニコラスに対する言動を鑑みれば、想像するのはさして難しいことではない。
(本当に、馬鹿な人だ)
ニコラスのことなど、何でもないとすげなく振ってやればよかったのだ。貴方のことなど、もう何とも思っていないと。これっぽっちも愛していないと。そうすればニコラスは一生後悔に苛まれ、彼女を恨んで、フィーネという存在を忘れなかっただろうに。
それでも彼女は、最後までニコラスを愛した。自分を愛してくれと、彼に訴えかけた。
(だからこそ、ニコラスは……)
あの時、ニコラスの顔に浮かんでいたのは憎しみではなく、愛する者を失うという絶望だった。
彼は時間が経つほど、じわじわと己の間違いに気づくだろう。前世を共にした妻の存在が、現世で変わらず愛を誓ってくれた婚約者の存在が、いかに自分にとって大きかったかを思い知るだろう。
いいや、すでに――
「お前がフィーネを誑かしたのか」
「おやおや、ずいぶんとひどい言いがかりです」
酒を浴びるほど呑んだのか、ニコラスからは酷い臭いがした。男の嫉妬は見苦しいと言うが、本当だ。自分は決してこうはなるまいと、ユアンは掴まれて乱れた己の服装を直した。冷静な男だと思っていたが、こんなにも脆いとは実に残念でもあった。
ニコラスは落ち着こうとソファに座って、祈るように手を組んでいる。髪はぼさぼさで、髭も剃ってない。最初出会った時とはまるで別人の姿を、ユアンは冷たく見下ろした。
「あなたの方が、フィーネを先に捨てたのでしょう」
しかも目の前の男はいつでも引き返すことができたのに、その機会を自ら捨て去ったのだ。
「彼女をどうするつもりだ」
「それを知ってどうするんですか。あなたには関係ありませんよ」
「答えろ!」
まるでライノット伯爵みたいだ、とユアンは肩を竦めた。
彼には本当に驚かされた。まさかライノット伯爵がレティシアを追いかけ、ニコラスの屋敷にまで押しかけるとは……。レティシアはただの暇つぶしとして相手にしていただけだろうが、伯爵本人は骨抜きにされてしまったようで、手に入らぬならいっそ、と追いつめられるほど彼女の虜となっていた。
不憫ではあるが、痴情のもつれにフィーネを巻き込んだことは決して許せなかった。あの世へ連れて行くならよそでやれ、それくらいの覚悟なら最初から慕うなと殺意にも似た激しい怒りがわいた。
(なぜ彼女が傷つかなければならない!)
知らせを聞いた時は、頭が真っ白になって、生きた心地がしなかった。やはり何があっても離れるべきではなかったと、何度も後悔した。この男の元に、フィーネを置いていったことは間違いだったのだ。原因の発端となったレティシアも、そもそも彼女を屋敷へ招き入れたニコラスも、ユアンからすればライノット伯爵と同等か、それ以上に許しがたい存在だった。
「安心して下さい。彼女はあなたがいなくても、幸せになります」
ニコラスに口を挟ませず、ユアンはああと芝居がかった演技をした。
「それとも、彼女がいなくなったことを、世間にどう説明するか、という心配でしょうか? そちらも安心して下さい。きちんと脚本をご用意しておりますので」
ユアンは淀みなく話していく。
「フィーネ・ティレットは暴漢者であるライノットから、婚約者であるニコラス・ブライヤーズを身を挺して庇った。だがそのせいで彼女は取り返しのつかない傷をその体に負ってしまった。傷の癒えない彼女は、愛する婚約者から身を引くことを決意して、霧の深い国へと旅立つことを決意する。最愛の人の幸せをいつまでも望みながら――哀しみにくれるニコラスだったが、そんな彼に寄り添う一人の女性。レティシア・フェレルの登場だ。彼女は国へ戻ることもせず、懸命に彼を側で支え続けた。そしてその慈悲深い愛に、頑なだったニコラスの心も溶かされ、二人はめでたくハッピーエンド――という筋書きでどうでしょうか」
それとも、とユアンは笑顔で第二の脚本を提案する。
「婚約者に放っておかれた哀れなフィーネ・ティレットを、同じく婚約者に相手にされなかったユアン・マクシェインが慰め、二人はいつしかお互いを愛し合うようになり、ユアンはフィーネを国へと連れ去ってしまった。残されたニコラスは表面上哀しみにくれても、内心は意中の相手とようやく一緒になれると、泣いて喜んでレティシアと結婚した。めでたしめでたし。――こちらの方が日頃退屈な貴族の方にはお好みかもしれませんね。いえ、やはり先ほどの方がよろしいでしょうか。俺はどちらでも構いませんが、ニコラス様はどちらになさいますか」
ニコラスは呆気にとられていたが、やがて顔を真っ赤にしてユアンを睨みつけた。その鋭さといったら、人を殺してしまいそうだとユアンは貼り付けたような笑顔を崩さぬまま、相手を観察した。
「フィーネは、お前みたいなやつを愛しはしないさ」
「おや、それはわかりませんよ」
「知らないかもしれないが、私とフィーネは……」
「俺は彼女の前世を知っています」
ユアンはにこりと彼に笑いかけた。ニコラスは信じられないように目の前の男を見た。ただの口からの出まかせと思っているのかもしれない。
「疑っているようですね。でも本当なんです。彼女が亡くなってしまった令嬢の身代わりとして屋敷に連れてこられたことも、その令嬢とそっくりになるよう育てられたことも、死ぬ間際まで、そのことを伝えられなかったことも、すべて――」
知っているんです。
――多少、賭けに出た部分もあるが、問題なかったようだ。ニコラスの顔はわなわなと震えていた。
「嘘だ。フィーネは死ぬまで私の傍を離れなかった!」
「死ぬまでは、でしょう。あなたが死んだ後に出会ったんです」
ユアンはそんなこともわからないのかというように答えた。ニコラスは、しばし呆然としたようにユアンの顔を眺めていたが、やがてゆっくりと頭を振った。まるでフィーネのそばには、自分しかいなかったのだというように。
「たとえそれが事実だとしても、私がフィーネにとって大切な存在であることは変わらない。私がそうであるように……」
ほら見ろ、とユアンは唇を吊り上げた。
「左様ですか。それはレティシアよりもですか?」
ニコラスは目を見張ったが、すぐに怒ったように眉を吊り上げた。
「貴様にそんなことを言う必要はない!」
言えないのか、とユアンは内心思ったが、黙って男の醜態を眺めた。これ以上ここに居ても、無駄だろう。すべきことも済んだので、ユアンは帰ることにした。
「あなたは、レティシアを運命の相手として選んだ。ならば、もう彼女は解放してやるべきですよ」
ニコラスは、何も言わない。いいや、何も言えないのか。
(救い難い男だな)
それでは、とユアンは別れを告げて背を向けた。
「フィーネを、返してくれ」
喉の奥から絞り出すような声。先ほどの怒りはどこにいったのか、ニコラスは今や疲れ切った表情でユアンを見上げている。そんなニコラスを冷めた目で一瞥し、ユアンは今度こそ別れの言葉を述べた。
「お断りします。俺は、フィーネが好きですから」
自分でも、満面の笑みだったと思う。あのニコラスの頬が盛大に引きつったのを見て、ユアンは満足した心地で扉を閉めた。
部屋の外には、レティシアがいた。今までの話を聞いていたのだろうか。それとも、ニコラスのことが心配で様子を見に来ただけだろうか。ユアンにはどちらでもよかった。
ただ彼女とここで会えたのは、こちらから出向く手間が省けた。
「ああ、レティシア。ちょうどよかった。これ、どうか受け取って下さい」
そう言ってユアンはずっしりと重みのある袋をレティシアに握らせた。その中身が金貨だとわかると、彼女は怪訝そうにユアンを見た。
「なんのつもり?」
「祝い金みたいなものですよ。気にせず受け取って下さい」
それじゃあ、とユアンは手を振った。
「ちょっと!」
突っ返そうとした彼女の手を逃れ、ユアンは微笑んだ。
「大丈夫です。あなたが俺に渡してくれた金額と同じですから」
欲しいものを手に入れるには、お金を払う。奇しくもニコラスと同じやり方でレティシアは愛しい人を手に入れた。――いや、レティシアとしては真実の愛で彼の気持ちを勝ち取ったのだから、違うだろうか。
「どうか、お幸せに」
レティシアは固まったまま、その場から動かなかった。ユアンは振り返りもせず、屋敷を後にした。
帰り際、レティシアは窓からこちらの様子を見ていた。ひどく睨みつけるような、厳しいものだった。だがユアンが彼女に気づいたとわかると、さっと目を逸らして部屋の中へ引っ込んでしまった。
レティシアは、ニコラスの変化にどう思っているのだろう。フィーネという自分そっくりの、それゆえに価値のない女を失ったところで、どうして彼があれほど荒れているのか、記憶のない彼女には永遠にわからない。
そう考えると、レティシアも気の毒な女性なのかもしれない。
レティシアは、前世のレティシアとは違う。
当たり前と言えば、当たり前だ。生まれた時代も、育てられた環境も、微妙に違えば、違ってくる。けれど、その当たり前を、ニコラスは見落としている。
フィーネという特例な存在に出会ってしまったせいで、レティシアもそうだと疑うことなく信じてしまった。いいや、本当は必死に気づかない振りをしているだけかもしれない。
ニコラスとフィーネ。
お互いに記憶を持ち、巡りあえた二人。
ニコラスには前世も今世も関係なく、フィーネはフィーネのまま、その目に映る。またフィーネにとっても、ニコラスは前世も今世も関係なく、ニコラスはニコラスのまま。
自分自身が前世とどう違うかは意識しているにせよ、お互いの存在は間違いなく前世と同じまま、変わらぬ存在としてあり続ける。唯一無二の存在だった。
ユアンからすれば、二人こそが、お互いの運命の相手に見えた。
だがニコラスはフィーネではなく、レティシアを運命の相手として選んだ。
ニコラスが今さらどんなに欲しがったところで、ユアンは二度と彼女を手放すつもりはなかった。
「――何をしているんですか」
背筋をピンと伸ばして椅子に座っていたフィーネが、怪訝そうにこちらを見ていた。ユアンがじっと彼女を見ていたことに気づいたのだろう。彼は微笑みながら答えた。
「愛しい人の顔を見ているんですよ」
フィーネは理解し難いというように眉根を寄せ、また本に視線を落とした。その耳がかすかに赤いことを、彼女はきっと自分でも気づいて、それがユアンにばれないように、何でもないように振る舞っているのだ。
ユアンは目を細めた。
きっとフィーネのこんな姿を、ニコラスは知らないだろう。こんなにそっけない態度はとらないし、頑固者でもない。負けず嫌いでも――
「何ですか?」
じっと考えていたら、今度は彼女がこちらを見ていた。彼はわざととぼけたふりをして尋ねる。
「何か、とても失礼なことを考えているような気がして」
あととても勘が鋭い。それだけ彼女が自分のことを知ったということだろうか。そうだったらいい。
ユアンは手を伸ばし、フィーネの目元を優しく撫でた。
「あなたの瞳の色はとても美しいですね」
青みを帯びた緑の瞳は、深い森林に木漏れ日が差すような情景をユアンに思い起こさせた。木陰で休んでいる時にそっと顔を上げて、日の光が葉を照らした、きらきら輝いてはいるけれど、少し暗いあの感じ。
ユアンがそう伝えると、フィーネは目を瞠り、居心地悪そうに逸らした。
「……そんなこと言うの、あなたくらいです」
「それは嬉しいですね」
彼女は呆れたようにユアンを見ていたが、すぐに仕方のない人だと笑った。最初に会った時よりも、ずいぶんと笑ってくれるようになった。
それがたまらなくユアンの心を満たす。
いつか、自分の全てのことを知った時、彼女は恨むだろうか。ニコラスが本当は会いたがっていると、律儀に手紙を送ってくること。死に物狂いでフィーネの居場所を突き止めようとしていること。それらすべてを自分が阻止していること。
他にも数え切れないほど、ユアンはフィーネに対して嘘をついた。
ばれてもいい。
ユアンは、自分の行いに微塵も後悔はなかった。
遅かれ早かれ、ニコラスとレティシアは結ばれていただろうし、それでフィーネが壊れてしまう確信があった。
憎みたければ、憎めばいい。憎しみがニコラスへの思いを忘れさせ、自分に向くのならば、ユアンは喜んでそれを享受する。
その歪んだ考えに、ユアンは自分も狂っているのだろうなと思った。彼にとって、両親も、親戚も、何もかも、全て薄っぺらく感じてしまう。血は繋がっているのに、どこか空虚で、他人のように遠い人たち。この世界で生きることも、また彼にはぼやけて感じる。
前世の記憶があるからだろうか。幼い頃に受けた親戚の酷い扱いも、彼にはまたどうでもよかった。
――魔法というのは、結局人の思いだよ。
――だから、悲しいことがあったら願いなさい。やり直したいと思うほどの後悔は、胸にずっと抱えていなさい。
あの言葉をくれたのは、前世で父に捨てられた母の言葉だったか、それとも今世で引き取ってくれた叔父の言葉だったか。ユアンには思い出せなかった。どちらでもいいと思った。
フィーネと話すときだけ、彼は生きているような気がした。自分がこの世界にいるのだという確かな実感。
かつて、彼女が言った言葉を思い出す。
『いつかその愛が必ずかえってくると信じているから、何でもしてあげたくなるんです』
それはどんな手を使ってでも、相手の心が欲しいということ。
ユアンはその通りだと、かつての彼女に笑ってやった。
(俺はあなたが欲しい。あなたのためなら、運命の相手にだって、なってあげます)
二人の結び目をほどいて、自分にきつく結び直せばいいだけだ。何度も、何度でも。
そうすれば、いつかニコラスのためのフィーネは消えていくだろう。
それをフィーネが辛いと思うのならば、いくらでもその苦しみを聞いてやろうと思った。
前世の記憶なんてくだらないと思っていたが、今は感謝している。彼女の苦しみを理解してあげられるのも、縋りつくのも、きっと自分だけだ。
フィーネがフィーネとして、少しでも幸せを感じてくれれば、それがユアンの幸せだった。




